好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

正倉院の白瑠璃碗には兄弟がいる|古墳から出たペルシャ・ローマのガラス

シルクロードの終着点は、日本でした。

奈良の小さな古墳から、青いガラスの皿と、透明なガラスの碗が出てきました。

皿はローマ、碗はペルシャ。

砂漠を越え、山を越え、海を渡って、5世紀の奈良の土の中に埋められていた二点セットです。しかもこのガラス、行き先は古墳だけではありませんでした。玄界灘の孤島にも、奈良の正倉院にも、同じ顔をしたガラスが残っています。

細い、細い一本の糸です。でも、確かにつながっている。今回はその糸をたどります。

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奈良の古墳から、皿に乗った碗が出てきた

舞台は奈良県橿原市、新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群です。

畝傍山の南に広がる丘陵に、直径10〜15メートルほどの小さな墓が600基以上。4世紀の終わりから7世紀にかけて、次々と造られました。仁徳天皇陵のような巨大な前方後円墳とはまったく違う、いわば「集合住宅のような墓地」です。

そのうちの一基、126号墳

  • 大きさ:東西22メートル × 南北16メートルの長方形墳
  • 時期:5世紀後半
  • 埋葬施設:木をくりぬいた棺

大きさだけ見れば、まったく目立たない墓です。ところが1962年からの発掘で、棺の中から出てきたものが問題でした。

被葬者の頭の右脇に、ガラスの碗が、ガラスの皿に乗った状態で置かれていたのです。

コーヒーカップとソーサー、と思ってもらうのがいちばん近い。そのままの姿で、1500年間、土の中にありました。

新沢千塚126号墳出土のガラス皿とガラス碗(東京国立博物館蔵)
上の紺色が皿、下の淡い緑色が碗。生まれた国も、作られた時代も違う二点です(東京国立博物館・筆者撮影)

棺の中にあったもの

場所出てきたもの
頭のあたり(棺の外)漆の盤、青銅製の熨斗(ひのし)、鉄刀
頭のあたり(棺の中)銅鏡、金製の方形板(龍の透かし彫り/帽子の飾りか)、金製の垂飾付耳飾、金製の螺旋状垂飾
頭の右脇ガラス碗・ガラス皿
腰のあたり金銅製の帯金具
両手のあたり金・銀の釧(腕輪)、指輪、玉類
遺体の全体多量の金製歩揺(ほよう)、ガラス玉
新沢千塚126号墳出土品の展示 金製装身具とガラス器(東京国立博物館蔵)
126号墳から出た副葬品。右下にびっしり並ぶ小さな粒が、遺体を覆っていた金製歩揺です(東京国立博物館・筆者撮影)

金の粒を全身にまとった人が、ペルシャの碗を枕元に置いて眠っていた。

そして不思議なのは、この豪華さと、墓の小ささが釣り合っていないことです。大王の墓ではない。それなのに、大王の墓からも出てこないものが入っている。

被葬者は渡来系の人物ではないか、装身具の種類から女性ではないか、といった見方がありますが、名前も、素性も、わかっていません。

126号墳の出土品は一括して国の重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵しています。地元の橿原市博物館にあるのは精巧な復元模造品です。

皿はローマ、碗はペルシャ──故郷の違う二点セット

セットで置かれていた碗と皿ですが、生まれた場所は違うようです。

ガラス碗ガラス皿
淡い黄緑色・透明紺色
厚み器の壁が約1.5ミリ。とても軽い
装飾底に2段、胴に5段の円い模様を削り出す(カットガラス)内面に鳥・樹木・人物・馬・花弁が描かれていたらしい
見られている産地ササン朝ペルシャ系ローマ

碗のほうは、表面を丸くえぐるように削って模様にしています。ろくろでガラスの塊を削る、ササン朝ペルシャが得意とした技法です。写真でも、胴に並ぶ丸いくぼみがはっきり見えます。

いっぽう皿のほうは、鳥や馬が描かれていたとされますが、いま肉眼で追うのはまず無理です。1500年分の曇りと傷で、深い紺色の面がぼんやり光を返すだけになっています。

ところが2014年、東京理科大学の研究チームが蛍光X線分析(ものを壊さずに含まれる元素を調べる方法)にかけたところ、化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスとほぼ一致しました。

日本の古墳から出たガラス器が、ローマ帝国からのものだと裏づけられた、初めての例です。目には見えないものを、機械が読み取ったわけです。

皿は「途中で化粧直し」されたかもしれない

さらにややこしいのは、皿のガラス自体は2世紀以前に地中海のあたりで作られた可能性がある、という点です。

だとすると、5世紀の古墳に納められるまで300年ある。

そこで出てきているのが、地中海で作られた無地の皿がササン朝ペルシャに渡り、そこで絵を入れられ、それから東へ運ばれたという見方です。

古道具屋で買った古いお皿に、次の持ち主が絵付けをして、それをまた誰かに贈った──そんなイメージでしょうか。

ガラスは、一度作られたら簡単には壊れません。だからモノの寿命が、人の一生より長い。旅の途中で持ち主が何度も変わり、そのたびに意味も変わっていく。これがガラスという素材の面白いところです。

コラム:ローマとペルシャって、日本でいうといつ?

ここでいったん、地図ではなく時計を合わせておきましょう。世界史と日本史は学校で別々に習うので、つながらなくて当たり前です。

ざっくり言うと、ローマ帝国は漢とほぼ同期、ササン朝ペルシャは三国志から白村江の直前までです。

西のできごとそのころ東では
ローマが帝政になる前27前漢の終わりごろ
ローマ最盛期(五賢帝の時代)96〜180後漢の全盛から末期へ
ローマ皇帝の使者が中国の日南郡に来る166後漢。「大秦王安敦」と記録される
ササン朝ペルシャが興る226魏・呉・蜀の三国時代がはじまったころ
ローマが東西に分裂395高句麗・広開土王の時代
西ローマ帝国が滅びる476倭王武が中国へ上表文を出す(478)
ビザンツ帝国の最盛期527〜565継体・安閑・欽明。仏教が伝わる
ササン朝ペルシャが滅びる651白村江の戦い(663)の12年前
正倉院に宝物が納められる756ペルシャが滅びて100年後

覚えるとっかかりを一つだけ挙げるなら、「西ローマ帝国が滅びた年と、倭王武が中国に手紙を出した年が、ほぼ同じ」です。

この表を頭に置くと、126号墳の枕元のセットが、いよいよ妙に見えてきます。

  • は、ローマがいちばん元気だったころのガラス
  • は、それより数百年あとのペルシャのガラス
  • それが5世紀後半の奈良で、一枚と一つに重ねて置かれていた

国も違えば、生まれた時代も何百年もずれている。骨董の名品と、比較的新しい品。それがカップとソーサーの顔をして並んでいたわけです。

そしてもう一つ。正倉院に白瑠璃碗が納められたとき、ササン朝ペルシャという国はもうこの世にありません。 651年に滅び、756年に東大寺へ。滅んだ国の遺品が、海の向こうの蔵で大事にされ続けた、ということになります。

どうやって来たのか。実は、途中の道に落ちていない

さて、いちばん知りたいところです。誰が運んだのか。

ふつうに考えれば、道は一本しかありません。

ペルシャ → 中央アジア → 中国 → 朝鮮半島 → 倭

実際、5世紀の倭に入ってきた鉄も、馬も、須恵器も、金の装身具も、この道を通ってきました。

伽耶から日本へ渡ってきたもの──古墳時代を変えた5世紀のはなし以前、韓国の金海(キメ)にある国立金海博物館で、金官加耶(きんかんかや)という古代国家の展示をじっくり見てきました。鉄と焼き物で栄えた国です。 展示のなかに、金…

ところが、ガラスの碗については、この説明がうまくいきません。

中継地に、同じものがほとんど落ちていないのです。

後で出てくる「白瑠璃碗」タイプの厚手の円形切子碗を例にとると、中国での出土は西域で1個(形の違うものを含めても2個)。朝鮮半島にいたっては、1つも見つかっていません

駅伝でたとえるなら、スタートとゴールにはたすきの記録が残っているのに、途中の中継所の記録だけが真っ白という状態です。

考えられることはいくつかあります。

  • 中継地では大切にされず、割れて捨てられた(=残らなかっただけ)
  • 陸ではなく、海のルートを通った
  • 使節や商人が、途中で開けずにそのまま持ち抜いた「贈り物」だった

どれも決め手はありません。わからない、というのが今のところの正解です。

「古いから貴い」のではなく、「遠いから貴い」

ただ、三つ目の「贈り物だった」という見方だけは、少し腑に落ちるところがあります。

いま骨董品に値段がつくのは、時間に対してです。「18世紀の品」と分かるから高い。つまり、いつどこで作られたかという記録が残っていることが前提になっています。

でも5世紀の奈良の人に、その皿が地中海で作られた300年前の品だとは知りようがありません。産地も年代も分からない。

では、何に値打ちを感じたのか。おそらく距離です。

  • 透きとおっている。石でも土でもない
  • こんなものは、この国の誰にも作れない
  • どこか、とんでもなく遠いところから来たものらしい

古いから貴いのではなく、遠いから貴い。 骨董とは値打ちの出どころが違います。

そして、値打ちが距離にあるということは、途中で降ろしたら値打ちが消えるということでもあります。売り買いされる商品なら、儲かる場所で売られて旅は終わる。けれど「遠くから運ばれてきたこと」そのものが意味である贈り物は、王から王へ、使者から使者へ、開けられないまま最後まで運ばれる。

だから中継地に落ちていない──そう考えると、真っ白な記録も少しだけ読める気がします。もちろん、これは証拠のある話ではありません。

沖ノ島──神さまに捧げられたガラス

古墳に埋められたガラスの話をしてきましたが、行き先はもう一つあります。

福岡県の沖ノ島。九州本土と朝鮮半島のちょうど中間に浮かぶ、「海の正倉院」と呼ばれる島です。4世紀後半から9世紀にかけて、航海の安全を祈る国家的な祭りが、島の巨岩の上や岩陰でずっと続けられました。

そこに置かれた奉献品のなかにも、カットガラスの碗があります。

同じペルシャ系のガラスが、いっぽうは奈良で人の枕元に、いっぽうは玄界灘の岩の上に、神への捧げものとして置かれた。

ここで、時代の並びが見えてきます。

時代大切なものをどうしたか場所
古墳時代埋める(一緒に葬る)新沢千塚
古墳〜奈良時代捧げる(神に置いていく)沖ノ島
奈良時代しまう(蔵に残す)正倉院

宝物の扱い方が、埋めるから、しまうへ変わっていく。同じガラスが、その全部の場面に顔を出しているのです。

博物館で何を見る?──奈良時代、宝物は埋めずに蔵に残された博物館で時代順に展示を歩いていくと、奈良時代のケースの前で、ふと違和感を覚えることがあります。 そこだけ、モノがきれいなんです。 古墳時代のコーナーは、土の色を…

上野にいる、正倉院の「兄弟」

そして、この記事のいちばんの山です。

正倉院の宝物のなかで、いちばん有名なガラスといえば白瑠璃碗(はくるりのわん)でしょう。半球形の、表面を蜂の巣のように削り出したカットガラスの碗。ササン朝ペルシャで6世紀ごろに作られたと考えられています。

実は、これとそっくり同じ碗が、もう一つ日本にあります

大阪府羽曳野市の高屋築山古墳(安閑天皇陵とされている古墳)から江戸時代の半ばに出土したと伝わる、伝・安閑陵古墳出土の白瑠璃碗です。

伝・安閑陵古墳出土のガラス碗 ササン朝ペルシャのカットガラス(東京国立博物館蔵)
伝・安閑陵古墳出土のガラス碗。円いくぼみを削り出したササン朝ペルシャの技法。黒い筋は、割れたものを接いだ跡です(東京国立博物館・筆者撮影)

写真で見ると、上から下まで、丸いくぼみがきれいに段になって並んでいるのがわかります。この「削り」が、あとで博物館で見分けるときの目印になります。

どれくらい似ているか

正倉院の白瑠璃碗伝・安閑陵の白瑠璃碗
高さ8.5 cm8.6 cm
口の直径12 cm11.9 cm
底の直径3.9 cm3.9 cm
模様亀甲文に見える円形の文様
重さやや重い409.2 g

寸法も、材質も、切子の数も、そして削られた面のカーブの曲率半径まで、ほぼ一致します

同じ工房で、同じ時期に作られた可能性が高い。あまりに似すぎているため、この二つは別々に日本へ来たのではなく、同時にやって来たのではないかと考えられているほどです。

一つは天皇の蔵に伝わり、一つは古墳の中へ。同じ日に日本に着いたかもしれない兄弟が、1000年以上、別々の場所で眠っていた。

そのうえ、この碗は一度行方不明になっている

伝・安閑陵の碗には、もう一段おまけの物語があります。

この碗は近くの西琳寺という寺に伝わっていましたが、明治の廃仏毀釈で寺そのものが廃絶。当時の住職によって売られ、行方がわからなくなりました

その後あらためて発見され、クラブ関西という団体が買い取り、東京国立博物館に寄付。1956年に重要文化財に指定されて、今に至ります。

写真の黒い筋が、いつついた傷なのかはわかりません。ペルシャから運ばれる途中か、古墳の中でか、それとも行方知れずだったあいだか。ただ、この碗が無傷ではなかったこと、それでも捨てられずに接がれて残ったことだけは、見ればわかります。

そして2019年、この碗と正倉院の白瑠璃碗が、史上はじめて並べて展示されました。ペルシャの工房で隣り合っていた(かもしれない)二つが、1400年ぶりに再会したわけです。

東洋館3室で「上流」を、平成館で「下流」を見る

ここまでの話、トーハク(東京国立博物館)の中だけで、ほぼ全部たどれます。これがこのテーマのいちばん贅沢なところです。

おすすめは、上流から下流へという順で見ることです。

① 東洋館 3室(西アジア・エジプトの美術)=上流

ガラスが生まれた側の世界です。ここで先に「本場のガラス」に目を慣らしておきます。

見るポイント:

  • 削って模様にしているか(吹いて膨らませただけではない)
  • 器の壁の厚み。厚いものは、削るために厚く作ってある
  • 色。透明・淡緑・紺、どれもガラスの原料と混ぜものの違い

② 平成館 1階 考古展示室=下流

日本の土の中から出てきた側です。

見るポイント:

  • 新沢千塚126号墳の碗と皿(金の装身具もこの一群です)
  • 伝・安閑陵の白瑠璃碗
  • 上で覚えた「削り」の目で見ると、同じ工房の匂いがするかどうか

上流で3分、下流で3分。それだけで、目の中に一本の線が引けます。

そして下流に立ったとき、たぶんこう思うはずです。この碗は、ここまで来て止まったんだなと。砂漠を越え、山を越え、海を渡って、これより先には行かなかった。シルクロードの終着点というのは、こういう場所のことだったのか、と。

注意:どちらも展示替えがあります。お目当てがある日は、事前に公式サイトの展示作品リストで確認してからどうぞ。

おわりに──終着点は、土の中と蔵の中にあった

シルクロードというと、砂漠を行くラクダの隊商を思い浮かべます。でもその道は、中国で終わりではありませんでした。

海をもうひとつ渡って、奈良の小さな古墳の、誰とも知れない人の枕元まで来ていた。

そして不思議なことに、道の途中には、ほとんど何も落ちていない

誰が運んだのか。何回持ち主が変わったのか。どんな気持ちで枕元に置いたのか。ぜんぶわかりません。わからないまま、モノだけが残っています。

上野に行かれたら、東洋館の3室と、平成館の考古展示室を、ぜひ続けて歩いてみてください。1500年を、階段の上り下りだけでまたげます。

コラム:ローマとペルシャをつなぐ、天理のもう一つの碗

奈良県天理市の天理大学附属天理参考館に、ササン朝ペルシャ伝来とされる「円形切子碗」があります。高さ6.5センチと白瑠璃碗より小ぶりで、厚みも5ミリ前後と薄い。

面白いのは模様で、上半分は白瑠璃碗と同じ円のくぼみ、下半分は四角いくぼみになっています。

円だけを使うのはササン朝の特徴、四角や線など複数のモチーフを組み合わせるのは、それより古いローマの特徴だそうです。つまりこの碗は、ローマ風とペルシャ風が同居している

分析の結果、作られた時期は4世紀より古い可能性が高く、白瑠璃碗の「原型」にあたるのではないかと指摘されています。

ローマからペルシャへ、ペルシャから日本へ。細い糸の、さらに細い枝分かれです。

参考・出典

  • e国宝/文化遺産オンライン「新沢千塚126号墳出土品」(東京国立博物館蔵)
  • 東京国立博物館 1089ブログ(2019年/正倉院の碗との比較)
  • 由水常雄『正倉院ガラスは何を語るか』中公新書、2009年
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵