博物館の中国陶磁の部屋は、たぶん一番くじけやすい場所です。
唐、宋、元、明、清。1300年分のやきものが一列に並んでいて、キャプションには聞いたことのない窯の名前が出てくる。汝窯、鈞窯、磁州窯、龍泉窯。順に読んでいたら、途中で力尽きます。
ですが、物差しを1本だけ持って入ると、景色が変わります。
色を、どこで出しているか。
これだけです。3段階しかありません。
| 段階 | 色の出どころ | おおよその時代 | 見た目 |
|---|---|---|---|
| ① 釉そのもの | 釉薬の色が、そのまま器の色 | 〜宋 | 一色。形と色で見せる |
| ② 釉の下 | 白い器に絵を描いてから釉をかける | 元〜 | 白地に青一色 |
| ③ 釉の上 | 焼いた器の上から描き、低温でもう一度焼く | 明〜清 | 多色。余白が消えていく |
一色 → 青一色 → 極彩色。
ひとつ注意です。①を「無地」と覚えると、少しずれます。①の器にも、彫った文様や貼りつけた飾りはあります。ないのは色のほうです。
①は、飾っていないのではなく、色を足していない。
ケースの前で「これは①②③のどれか」と当てるだけで、だいたいの時代が出ます。
中国は1000年以上、磁器を独占していた
前提をひとつ。
磁器を発明したのは中国です。
原型となる青磁が焼かれ始めたのは、およそ2000年前とされます(どこからを磁器と呼ぶかには諸説あります)。
そしてヨーロッパが自力で磁器を焼けるようになるのは、1709年頃のドイツ・マイセンまで待つことになります。日本が有田で磁器を作り始めたのが17世紀初頭。朝鮮でも高麗の後半です。
つまり中国以外の国は、長いあいだ買う側でした。
ヨーロッパでは磁器が「白い金」と呼ばれ、金に匹敵する価値で取引されていた。日本の将軍が中国の茶碗を最上の宝としていた。これは全部、中国が技術を独占していたからです。
この部屋に並んでいるのは、そういうものです。
一色の時代(〜宋)
唐より前 ── 青磁はもう完成していた
①の話は、唐から始めるとむしろ遅すぎます。

5世紀から6世紀の壺です。日本でいえば古墳時代の真ん中あたり。
胴と蓋に、蓮の花びらが鋭く浮彫りされています。白い胎に、薄い草緑色の釉。文様はちゃんとあるのに、色は釉ひとつだけです。
①がどういう状態を指すのか、この一点で分かってしまいます。この先、宋まで700年、中国はこの路線を洗練させ続けます。
唐 ── 南は青、北は白
唐の陶磁は、大きく2つに分かれます。
- 南の越州窯 → 青磁
- 北の邢窯 → 白磁
これを「南青北白」と呼びます(後世の整理の言葉です)。以後の中国陶磁は、基本的にこの2本立てで進んでいきます。

南の代表、越州窯です。落ち着いた青緑色。晩唐の詩人はこの窯の色を「千の峰の緑をうばい取ってくる」と詠みました。

こちらが北の白。把手が龍の頭になっているので「龍耳瓶」と呼ばれます。
ここでも確認できます。貼りつけた飾りはたっぷりあるのに、色は白ひとつ。①はそういう世界です。
唐三彩は、実は仲間ではない
「中国のやきもの」と言われて緑と黄色の派手なラクダの像を思い浮かべる方も多いと思いますが、唐三彩は磁器ではありません。

低い温度で焼いた鉛釉の陶器です。しかも用途が違う。墓に入れる副葬品です。日常の器ではありません。
なぜラクダなのか。展示の解説がはっきり書いています。ラクダや馬は、人や荷物を運ぶ大切な家畜でした。そうした身近な動物が、墓の主人を守り、死後の世界でも主人が不自由なく暮らせるように、従者や楽人の像と一緒に埋められたのだと。

その「従者」が、この女性像です。ラクダと女子は、ばらばらの美術品ではありません。同じ墓の、同じ一式です。
奈良時代の日本が真似た「奈良三彩」は、これが手本です。
派手さに引きずられて時代の代表格だと思わないほうがいい。別枠に置いてください。
宋 ── 一色こそが頂点
中国陶磁の美意識のピークは、宋だとされます。
一般に五大名窯と呼ばれる括りがあります。
| 窯 | 特徴 |
|---|---|
| 汝窯 | 青みを帯びた淡い空色。現存が極端に少ない |
| 官窯 | 宮廷直営。貫入(表面のひび)を景色として見せる |
| 哥窯 | 貫入が網の目のように入る |
| 鈞窯 | 青い地に紫や紅がにじむ |
| 定窯 | 白磁。象牙のような色 |
ほかに、龍泉窯の青磁、磁州窯の白い地に黒の絵、建窯の黒い天目茶碗。

五大名窯のうちの「官窯」そのものです。南宋の都、臨安(いまの杭州)に置かれ、宮中の御用品を焼いた窯。その稀少な作例です。
厚くかけられた釉が、しっとりした光を放っています。そして表面に、大きなひびが走っている。
このひびは、割れではありません。貫入といって、狙って出しています。
素地と釉の縮み方の差で、焼き上がりに細かいひびが入る。それを欠陥ではなく景色として見せる。大きな貫入のあいだに、白く輝く細かい貫入があらわれて、釉の面に変化を与えている。
ここで大事なのは、宋の器はほとんど一色だということです。
文様で埋め尽くすどころか、そもそも絵がない。形と、釉の色と、ひびだけで勝負している。
「中国陶磁=ごちゃごちゃと絵が描いてある」というイメージは、実は明・清の話です。宋はまったく逆の、引き算の世界でした。
日本が最初に惚れたのは、この時代
そして重要なのはここです。
室町時代の日本が「唐物」として珍重した器は、ほぼこの時代のものです。
- 天目茶碗 … 建窯の黒い茶碗
- 砧青磁(きぬたせいじ) … 龍泉窯の青磁の、日本での呼び名

解説の一行が、この記事の急所を突いています。
日本では古来、茶の湯を背景に龍泉窯の青磁が珍重されてきた。とくに美しいと評価されるのが「砧」青磁である──と。
「砧」は中国側の分類ではありません。日本人が、日本の好みで付けた等級です。そしてこの盤は、釉調も造形も龍泉窯とは異なる特徴をそなえていて、かつては「砧」を超える南宋修内司の作と考えられていたものだといいます。
作ったのは中国、格付けしたのは日本。旧蔵者は川端康成です。
なお曜変天目にいたっては、完全な姿で残っているのは世界に3碗だけで、その3碗すべてが日本にあり、すべて国宝です。中国本土には伝わっていません。
日本人がどれだけ本気で宋の器に惚れ込んだかが分かります。
青一色の時代(元)
14世紀、景徳鎮で青花(せいか)が確立します。日本でいう染付です。
白い素地にコバルトで絵を描き、その上から透明な釉をかけて一度で焼く。釉の下に絵があるので、何百年使っても色が落ちません。
コバルトは中国のものではなかった
ここが面白いところです。
初期の青花に使われたコバルトは、西アジアからの輸入品でした。

その西アジアで、同じ頃に焼かれていた壺です。イランのカーシャーン窯。
コバルトで青くした釉が全体を覆っています。ペルシア語で紺青色を「ラジュヴァルド」ということから、この種の陶器はラジュヴァルディナと呼ばれます。
ただし使い方は中国と違います。中国の青花は白い素地に青で絵を描いて透明な釉をかぶせますが、こちらは釉そのものが青い。同じコバルトでも、発想が別です。
そしてよく見ると、青い釉の上に白・赤・金・黒で文様が描かれています。
これは、この記事の③です。釉の上に描く技法。
中国が五彩で③に本格的に踏み出すのは、この2〜3世紀あとの明代です。ただし中国にも金代の磁州窯に紅緑彩という上絵の系統があり、「ペルシアが先で中国が真似た」という単純な話にはなりません。東西で、それぞれに上絵の伝統があったと考えられています。
青の原料が西から来て、上絵の発想も東西にあった。中国陶磁は、閉じた部屋で育ったわけではないんです。
そして元代の青花には、輸出用として作られたものが多くあります。イスラム圏の市場向けです。大人数で取り分けて食べる食習慣に合わせて器が大きく、文様も現地の好みに寄せてある。
中国陶磁の代表格である青花は、はじめから国際商品でした。
日本の有田が呉須(コバルト)で染付を描いたのも、朝鮮でコバルトが貴重品で薄い青しか出せなかったのも、すべてここにつながっています。
明で洗練される
明代になると景徳鎮に官窯が設けられ、永楽・宣徳の頃には様式も技術も洗練されていきます。
底に「大明宣徳年製」のような年号の銘が入るのは、この系統です。
極彩色の時代(明・清)
明の途中から、釉の上に描く技術が加わります。
一度焼き上げた器に絵の具をのせ、低い温度でもう一度焼く。これで色数が一気に増えました。
- 明の五彩 … 赤・緑・黄などを大胆に配する
- 清の粉彩 … 白を混ぜて中間色を作る。ぼかしや濃淡が表現できる
「金襴手(きんらんで)」という名前をつけたのは、日本

16世紀の明。景徳鎮で焼かれた磁器が、世界に向けて輸出されていた時代です。
なかでも金彩をほどこした華やかな製品が、ヨーロッパと日本の上流階級に人気を集めました。

そしてここが、この記事でいちばん面白いところかもしれません。
この一群を、日本人は「金襴手(きんらんで)」と呼びました。
金襴とは、金糸を織り込んだ高価な織物のことです。やきものを、着物の生地にたとえた。
中国側がそう呼んだのではありません。日本に運ばれてきた器を見た日本人が、自分たちの知っている最高級品の名を借りて名前をつけ、珍重した。
砧青磁のときと、まったく同じことが起きています。
②と③が、ひとつの壺で重なっている
清の乾隆年間(1736〜95年)、景徳鎮窯。この記事の物差しを1点で説明できる器があります。

名前をゆっくり読んでください。青花・紅彩。
- 青花 … 釉の下の青(②)
- 紅彩 … 釉の上の赤(③)
同じ壺の上で、釉をはさんで青と赤が上下に分かれている。②と③が、1点で同時に見られます。
文様は蝙蝠と雲。蝙蝠は幸福の象徴です。それを全面に配してある。宋の官窯が「ひび1本」で勝負していたことを思い出すと、500年で行き着いた場所の遠さが分かります。
底には「大清乾隆年製」の銘。清のはじめ、景徳鎮窯では御器廠の整備が徹底して進められ、都から派遣された官吏の統制のもとで、すぐれた陶磁器が数多く作られました。
清の乾隆期あたりになると、技術は極限まで行きます。磁器で木目を再現する、竹籠に見せかける、青銅器そっくりに作る。もはや曲芸の域です。
そしてこの時代の官窯製品は、皇帝のために作られています。採算は関係ない。規格外は捨てられる。
だから、歪みもムラもありません。
中国・朝鮮・日本を並べると
| 中国 | 朝鮮 | 日本 | |
|---|---|---|---|
| 磁器のはじまり | 自力で発明 | 高麗〜朝鮮王朝 | 17世紀・有田 |
| 頂点の時代 | 宋(一色)/清(極彩色) | 高麗青磁/朝鮮白磁 | 桃山(茶陶)/江戸(磁器) |
| 主な注文主 | 皇帝と海外市場 | 王室と日常 | 茶人・町人・将軍・欧州 |
| 歪みは | 不合格 | 直す動機がない | 場面で使い分ける |
中国は作る側から、朝鮮は作って使う側から、日本は見る側から始まった。
日本が最初にやったのは、作ることではなく「中国のものを選び、格付けし、名前をつける」ことでした。
砧青磁。金襴手。天目。この部屋のキャプションに出てくる日本語の呼び名は、ほぼ全部それです。この出発点の違いが、その後の全部を決めています。
東京国立博物館での見方
中国の陶磁は東洋館3階5室です。同じ部屋に中国の青銅器も並んでいます。
30分あれば、この順で十分まわれます。
- 入口で全体を眺め、①②③のどれが多いかを見る(展示替えで構成が変わります)
- 一色の青磁があったら、色と形とひびだけを見る ── これが宋の感覚
- 青一色の器を探す ── 元から明の青花
- 極彩色の器で、余白がどれだけ残っているかを見る ── 明・清
- キャプションの日本語の呼び名を探す ── 砧、金襴手、天目。あれば「日本が名前をつけた器」です
- 2階3室の西アジアにも寄ってみてください。青花の青の、上流にあたる部屋です。
おまけ:割れて有名になった茶碗
同じ東博に、馬蝗絆(ばこうはん)という銘の青磁茶碗があります。龍泉窯、南宋のもの。重要文化財です。
ひび割れが入っていて、6つの鎹(かすがい)で留められている。その鎹が大きなイナゴのように見えることから、この名がつきました。
伝承では、足利義政が持っていたときにひびが入り、中国に送って代わりのものを求めたところ、明にはもうこんな青磁は作れず、鎹で留めて送り返されてきたのだといいます(この逸話には、後世の作り話ではないかという見方もあります)。
修理跡がついたことで、かえって評価が上がった。
中国で作られた完璧な器が、日本に来て、割れて、名前をもらう。この部屋と日本のやきものの部屋は、そういうふうにつながっています。
ただし常設で出ているとは限りません。会えたら運がいい、くらいに思っておいてください。
まとめ
- 中国陶磁の物差しは「色をどこで出しているか」の3段階
- ①は無地なのではなく、彫りも貼りもあるのに色だけ足していない
- 宋は一色。埋め尽くすイメージは明・清のもの。貫入は欠陥ではなく景色
- 唐三彩は磁器ではない。ラクダも女子も、墓に入れる副葬品の一式
- 青花のコバルトは輸入品で、はじめから国際商品だった
- 中国は1000年以上、磁器を独占していた。日本は買って、選んで、名前をつける側だった
一色か、青一色か、極彩色か。それだけ見ながら歩けば、1300年の坂道はずいぶん軽くなります。
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