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アンコールワットに落書きを残した日本人|彼はそこを祇園精舎だと思っていた

カンボジアのアンコールワット。その回廊の柱に、日本語の墨書が残っています。

書いたのは、森本右近太夫一房(もりもと うこんだゆう かずふさ)という侍。年は寛永9年(1632年)の正月。今から四百年近く前です。

世界遺産に落書き、と聞くと眉をひそめたくなりますが、この話のおもしろさはそこではありません。

彼は、そこをインドの祇園精舎だと信じて拝んでいたのです。

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柱に残された、日本語の墨書

墨書の内容を、意味の通りに直すとこうなります。

寛永九年正月、はじめてここに来た。
生国は日本、肥州の住人、藤原朝臣・森本右近太夫一房。
御堂を志して数千里の海を渡り、
ここに仏四体を奉納するものである。

墨書には、父と母のことも書かれています。父・森本儀太夫一吉は摂津池田の人で、その現世での安泰を願うため。母は尾張名古屋の出身で、すでに亡くなっており(法名を明信大姉といいます)、その後生を祈るため。

つまり、生きている父と、亡くなった母。両方のためにはるばる海を渡ってきた、と書いてあるわけです。※この点は資料によって食い違いがあり、「亡き父の菩提を弔うため」と紹介されることも多いのですが、墨書を直接調査した研究では、父は当時まだ存命だったとされています。

父の儀太夫は、加藤清正の重臣でした。一房自身は次男で、加藤家を離れたあと、肥前の平戸藩に仕えていたと伝わります。

墨書は、現在は上から墨で塗りつぶされていて、たいへん読みづらい状態です。現地でガイドに指をさしてもらっても見つけにくい、と言われるほど。それでも、四百年前の日本語がアンコールワットの柱に残っているという事実は変わりません。

そもそも祇園精舎とは何か

日本人にとって、この言葉はたぶんこの一文でおなじみです。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

『平家物語』の冒頭ですね。学校で暗唱させられた方も多いと思います。

祇園精舎は、お釈迦さまが説法をした場所です。インドのシュラーヴァスティー(舎衛城)という街の郊外にあり、給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ)という大富豪が、祇陀(ぎだ)太子の所有する林を買い取って、お釈迦さまに寄進したと伝えられます。

「祇陀太子の園」に建てた「精舎(僧の住まい)」だから、祇園精舎。祇園祭の「祇園」も、もとをたどればここです。

仏教徒にとっては、聖地中の聖地。日本の仏教説話にも数えきれないほど登場します。江戸時代の日本人にとって、そこは「いつか行ってみたい場所」の筆頭だったはずです。

そして重要なのは、祇園精舎はインドにある、ということです。

カンボジアではありません。直線距離にして、およそ三千キロ離れています。

なぜ、間違えたのか

ここが、この記事のいちばんの山です。

森本右近太夫がうっかりしていたわけではありません。当時の日本人は、多くがそう信じていたのです。

証拠があります。水戸徳川家に伝わる「祇園精舎図」という絵図です。祇園精舎の見取り図として日本に持ち帰られたものなのですが、描かれているのはどう見てもアンコールワットの平面図なんです。

この図を誰が描いたかについては、通詞の島野兼了が持ち帰ったという説と、森本右近太夫本人が描いたのではないかという説の両方があります。いずれにせよ、江戸初期の日本人がアンコールワットを祇園精舎の図として記録した、という事実に変わりはありません。

つまり、当時の日本では「祇園精舎=あの大きな石の寺」という認識が、社会的に共有されていたわけです。

さらに言うと、当時カンボジアは「南天竺」と呼ばれていました。天竺とはインドのこと。南の天竺、つまりインドの一部だと思われていたのです。

条件を並べてみると、間違えるのはむしろ自然だと分かります。

  • インド方面(天竺)にあると信じられている土地に着いた
  • そこに、見たこともない巨大な石造りの仏教寺院がある
  • 日本には「これが祇園精舎だ」という図が出回っている
  • 確かめる手段は、どこにもない

手持ちの情報から、いちばん筋の通る結論を出した。それが森本右近太夫のしたことです。結果として間違っていましたが。

ちなみに、祇園精舎の本当の場所がはっきりしたのは、1863年のことです。イギリスの考古学者カニンガムが、インド北部のサヘート・マヘートという遺跡を発掘し、ここが祇園精舎であろうと突き止めました。

森本右近太夫がアンコールワットを拝んでから、二百三十年あとの話です。

彼はなぜ、そこにいたのか

もうひとつ、現代人が驚くところがあります。

江戸時代の侍が、なぜカンボジアにいるのか。

「鎖国」という言葉のせいで、江戸時代の日本人は外に出られなかったと思い込みがちです。でも1632年は、まだ鎖国前でした。

当時は朱印船貿易の時代です。幕府が発行した朱印状を持った船が、東南アジア各地へ渡っていました。そして渡った先には、日本人町がありました。

  • シャム(タイ)のアユタヤ
  • 安南(ベトナム)のホイアン
  • ルソン(フィリピン)のマニラ
  • カンボジアのプノンペン周辺

数千人規模の日本人が暮らす町もあったと言われます。山田長政がアユタヤで活躍したのも、ちょうどこの時代です。

つまり森本右近太夫の旅は、当時としては例外的な冒険ではなかったということです。船に乗る手段があり、行った先には同胞がいて、聖地巡礼という目的があった。

そして、この時代は長く続きませんでした。彼が墨書を残した三年後の1635年、日本人の海外渡航と帰国が全面的に禁じられます。

彼は、扉が閉まる直前に外へ出た最後の世代のひとりだったわけです。

落書きは、史料になる

さて。

現代の感覚では、遺跡への落書きは許されない行為です。それは間違いありません。

けれど四百年たった今、この墨書は貴重な一次史料になっています。

  • 江戸初期の日本人が、実際にアンコールワットへ到達していた証拠
  • 当時の日本人がそこを祇園精舎と認識していた証拠
  • 個人の名前、出身地、家族構成、旅の動機がわかる記録

研究者が論文を書き、拓本が取られ、父親の墓まで調査されている。落書きが史料に変わってしまったわけです。

ここに、歴史のおもしろさと、こわさが両方あると思います。

森本右近太夫は「自分は正しい場所にいる」と信じて筆を執りました。私たちは今、彼が間違っていたことを知っています。では私たちが今「正しい」と思って書いていることは、四百年後にどう読まれるのでしょうか

歴史を読むというのは、過去の人を裁くことではなく、こういう問いを引き受けることなのだと思います。

コラム:彼が拝んだ建物の、ほんとうの履歴

祇園精舎は、お釈迦さまが説法をした場所です。紀元前5世紀ごろ、インドのシュラーヴァスティー郊外にありました。

いっぽう森本右近太夫が拝んだカンボジアのアンコールワットは、12世紀前半の建築です。しかも当初は仏教寺院ですらなく、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌに捧げられた寺でした。それが12世紀末には大乗仏教の寺となり、13〜14世紀以降は上座部仏教の寺へと変わっていきます。

彼が訪れた1632年、この建物は上座部仏教の寺として、地元の人々の信仰を集めていました。

ただし、こうした履歴が分かってきたのは、はるか後の研究によってです。当時は現地の人々にも知られていなかったでしょう。彼が知らなかったことを責めるのは、後知恵でしかありません

彼にできたのは、目の前の壮大な石の寺を前にして、これがあの祇園精舎だと信じることだけでした。そして父母のために、仏四体を奉納したのです。

東洋館で見るクメール

東京国立博物館の東洋館・地下1階に、東南アジアの展示室があります。ここにクメール(カンボジア)の石彫が並んでいます。

アンコールワットそのものは動かせませんが、同じ時代・同じ文化圏の石像を、上野で見ることができるのです。

見るポイントを3つ挙げておきます。

① 顔立ち

浮彫人物像 カンボジア・ピミアナカス出土 アンコール時代12世紀(東京国立博物館蔵)
浮彫人物像。カンボジア、ピミアナカス出土。アンコール時代・12世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

唇の厚み、まぶたの線、鼻から口までの距離。日本の仏像とは明らかに違います。装身具の量も違う。首にも腕にも耳にも、びっしりと飾りがついています。

同じ仏教が伝わった土地なのに、なぜこうも顔が変わるのか。この疑問は、あとのコラムでもう一度取り上げます。

② 石の質感

アンコール時代のクメール石彫 砂岩の浮彫(東京国立博物館蔵)
砂岩を深く彫り込んだ浮彫。渦を巻く唐草の奥から、神像が浮かび上がってきます(東京国立博物館・筆者撮影)

素材は砂岩です。日本の木彫や金銅仏とは、そもそも出発点が違います。

木は削れば軽くなり、金銅は型に流し込みます。砂岩は、彫った分だけ重い塊が残る。この写真の浮彫も、渦巻く唐草を一枚一枚彫り沈めて、その奥から神像を浮き上がらせています。足し算ではなく、引き算で作る造形です。

これがアンコールワットの回廊いっぱいに広がっていたわけです。森本右近太夫が圧倒されたのも無理はありません。

③ 神像と仏像の同居

ガネーシャ坐像 カンボジア出土 アンコール時代(東京国立博物館蔵)
ガネーシャ坐像。象の頭を持つヒンドゥーの神で、日本の歓喜天と同じ系統です(東京国立博物館・筆者撮影)

展示室には、仏像とヒンドゥーの神々が並んでいます。この象の頭を持つ神がガネーシャ。シヴァ神の子で、学問と商売の神として今もインドや東南アジアで広く信仰されています。

そして日本にも、実はいます。歓喜天(かんぎてん)、聖天(しょうでん)と呼ばれる仏さまが、このガネーシャの流れをくむ存在です。秘仏とされることが多く、ふだん目にする機会はほとんどありませんが。

森本右近太夫が「祇園精舎」だと信じたものが、実はヒンドゥー起源の建築だった。そう思って石像を見ると、彼の勘違いの深さがしみじみ分かってきます。

ちなみに展示室の解説パネルには、東西交易の話も書かれています。4世紀前半にモンスーンを利用した航海が確立し、「海のシルクロード」が本格的に機能しはじめた。物資だけでなく、宗教も、王権のかたちも、美術の様式も、その海の道を通って広がっていったのだと。

森本右近太夫が乗った朱印船も、千二百年あとに、その同じ海を走っていたわけです。

ちなみに、この「海のシルクロード」という言葉は、別の記事でも一度つまずいた場所です。奈良の古墳から、ローマのガラス皿とペルシャのガラス碗が出ている。ではどの道を通って来たのか。陸の道には、なぜか途中の痕跡がほとんど残っていないのです。

正倉院の白瑠璃碗には兄弟がいる|古墳から出たペルシャ・ローマのガラスシルクロードの終着点は、日本でした。 奈良の小さな古墳から、青いガラスの皿と、透明なガラスの碗が出てきました。 皿はローマ、碗はペルシャ。 砂漠を越え、山を越え…

コラム:日本の仏像と、どこで分かれたのか

顔立ちがこれほど違うのは、仏教が途中で二手に分かれたからです。

お釈迦さまの死後、教えは大きく二つの流れになりました。ひとつはスリランカを経てビルマ・タイ・カンボジアへ向かった上座部。もうひとつは中央アジアから中国・朝鮮半島を経て日本へ来た大乗です。日本の寺に観音菩薩や地蔵菩薩がたくさんいるのに、タイの寺がほぼ釈迦像ばかりなのは、この違いによります。菩薩を重んじるのは大乗の特徴だからです。

ところがカンボジアには、大乗だった時期があります。12世紀末のジャヤーヴァルマン7世(1181〜1218年ごろ)の時代、観世音菩薩の像が数多く造られました。

そして東洋館には、その像があります。アンコール・トムの「死者の門」から出土した観音菩薩立像です。アンコール・トムは一辺3キロの正方形をした都城で、中心にはバイヨンという仏教寺院が建っていました。

観音菩薩立像 カンボジア・アンコール トム死者の門 アンコール時代12〜13世紀(東京国立博物館蔵)
観音菩薩立像。アンコール・トムの死者の門から出土しました。髪の部分に、小さな仏さまが彫られています(東京国立博物館・筆者撮影)

ここで、日本の仏像の知識がそのまま使えます。髪のところをよく見てください。小さな仏さまが彫り込まれています。化仏(けぶつ)といって、これが観音菩薩の目印です。

日本の観音さまも同じで、宝冠の正面に小さな阿弥陀如来を乗せています。奈良でも京都でも、観音かどうかを見分けるときはまずここを見る。顔つきはまるで違うのに、見分け方は同じなのです。

日本とカンボジアは、一度は同じ流れに合流していた。この観音菩薩は、日本の観音さまの遠い親戚です。そう思って見比べると、石像の前に立つ時間が少し長くなります。

まとめ

  • 1632年、森本右近太夫一房がアンコールワットの柱に墨書を残した
  • 彼はそこをインドの祇園精舎だと信じ、仏四体を奉納して父母のために祈った
  • 誤解は彼個人のものではなく、当時の日本社会が共有していた。「祇園精舎図」がその証拠
  • 当時カンボジアは「南天竺」と呼ばれ、インドの一部だと思われていた
  • 祇園精舎の本当の場所が判明したのは1863年。彼の二百三十年あと
  • 1632年は鎖国の直前。朱印船と日本人町があり、東南アジアは思ったより近かった
  • 落書きは今や一次史料になっている
  • 上野・東洋館の地下1階で、同じ時代のクメール石彫を見ることができる
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵