好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

古墳から出たペルシャ・ローマのガラス|正倉院の白瑠璃碗には兄弟がいる

シルクロードの終着点は、日本でした。

奈良の小さな古墳から、青いガラスの皿と、透明なガラスの碗が出てきました。皿はローマ、碗はペルシャ。砂漠を越え、山を越え、海を渡って、5世紀の奈良の土の中に埋められていた二点セットです。

しかもガラスの行き先は、古墳だけではありませんでした。玄界灘の孤島にも、奈良の正倉院にも、同じ顔をしたガラスが残っています。

細い、細い一本の糸です。でも、確かにつながっている。

そしてありがたいことに、この話はほぼ全部、東京国立博物館(トーハク)の中だけでたどれます。今回はその糸をたどります。

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この記事の地図──覚えることは2つだけ

ガラスの話は、産地の名前と時代がいっぺんに出てくるのでややこしくなりがちです。先に地図を渡しておきます。

この2つだけ頭に入れてもらえれば、あとは読み流していただいて大丈夫です。

覚えることひとことで言うと
①ガラスの故郷2つある地中海は「編む」、ペルシャは「削る」
②日本での姿3回変わる玉 → 器 → 骨壺

これから出てくるガラスは、どれも「①のどちらかの系統で作られ、②のどこかの段階にいる」もの。それだけです。

まず、ガラスの故郷は2つあった──「編む」地中海と「削る」ペルシャ

日本に来たガラスをさかのぼると、上流は二手に分かれます。ここを最初に押さえておくと、あとがぐっと楽になります。

地中海系=色そのものを組み立てる

レースガラス皿、ミルフィオリ皿、パテラ杯など東地中海地域の古代ガラス(東京国立博物館蔵)
東地中海地域の古代ガラス。中央下の濃紺の器がミルフィオリ皿、左上がレースガラス皿(東京国立博物館・筆者撮影)

色の違うガラス棒を束ねて輪切りにし、花の断面のように並べたミルフィオリ。白い糸を練り込んで縞にしたレースガラス。

削るのではなく、色そのものを組み立てて模様にしています。たとえるなら、毛糸を編んで柄を出すやり方です。

ペルシャ系=削って光を作る

いっぽうササン朝ペルシャが得意としたのは、カットガラス。ろくろでガラスの塊を削り、表面を丸くえぐって模様にします。

色は足しません。透明なまま、削った面に光を当てて輝かせる。こちらは、木を彫るやり方です。

地中海系(ローマ)ペルシャ系(ササン朝)
模様の出し方編む(色を組み立てる)削る(面を彫り出す)
代表的な技法ミルフィオリ、レースガラスカットガラス(切子)
見分けの目印色とりどりの模様がある透明で、丸いくぼみが並ぶ
この記事での例新沢千塚126号墳の皿126号墳の碗、白瑠璃碗

これ以降、ガラスが出てくるたびに「編む系か、削る系か」だけ確認してください。それで迷子になりません。

日本に来た最初のガラスは、器ではなく玉だった

ここから時代順にたどります。

ガラスというと碗や皿を思い浮かべますが、日本に入ってきた最初の姿は器ではありません。もっと小さい。玉(たま)です。

平成館の考古展示室では、碗や皿の少し手前に、勾玉や小玉がずらりと並んだケースがあります。素通りしがちな場所ですが、ここを先に見ておくと、このあとの話の意味が変わってきます。

① 縄文の玉は、ぜんぶ国産だった

縄文時代の硬玉製大珠 長野県上伊那地方出土のヒスイ製垂飾(東京国立博物館蔵)
硬玉製大珠(こうぎょくせいたいしゅ)。縄文中期、およそ前3000〜前2000年。長野県上伊那地方ほか出土(東京国立博物館・筆者撮影)

緑色の、大ぶりのペンダントです。素材は硬玉(こうぎょく)=ヒスイ。日本のヒスイの産地は、新潟県の糸魚川周辺にほぼ限られます。

それが長野で出ている。つまり縄文の時点で、モノは列島の中をかなりの距離、動いています。

縄文時代の土製勾玉・石製勾玉・土製赤彩丸玉(東京国立博物館蔵)
縄文後期〜晩期の玉。左から土製勾玉、石製勾玉、石製丸玉、赤い顔料を塗った土製丸玉(東京国立博物館・筆者撮影)

土、石、獣の牙、そしてヒスイ。並んでいる素材が、すべて足元で手に入るものだけだという点に注目してください。ガラスは、まだ一粒もありません。

そしてこの勾玉のかたち。すでにここで完成しています。

② 古墳時代、形はそのままで、素材だけがガラスになった

谷口古墳出土の硬玉勾玉とガラス勾玉 同じ形で素材が違う古墳時代の勾玉(東京国立博物館蔵)
左が硬玉(ヒスイ)の勾玉、中央が青いガラスの勾玉。どちらも佐賀県唐津市・谷口古墳の出土です(東京国立博物館・筆者撮影)

縄文から2000年以上あと。同じ古墳から出た、二つの勾玉です。

  • 硬玉勾玉(緑)/4〜5世紀/ヒスイ=日本産
  • ガラス勾玉(青)/4世紀/ガラス=大陸から

並べてみると、はっとします。形は、縄文からほとんど変わっていない。変わったのは素材の出どころだけです。

新しい素材が入ってきたとき、人は新しい形を作るとは限らない。まず、これまでと同じ形で作ってみる。青いガラスの勾玉は、その正直な証拠です。

古墳時代の玉生産の展示 碧玉勾玉と玉材料(東京国立博物館蔵)
「玉生産の展開」のコーナー。右上は加工途中の玉材料です(東京国立博物館・筆者撮影)

展示解説によれば、石の玉は縄文時代以来の伝統的な技術で作られ、素材は硬玉・碧玉・水晶・瑪瑙・滑石など日本列島でしか産出しない石。製作の中心は前半期が山陰・北陸で、後半期には近畿でも大量に作られました。そこに大陸から伝わったガラス製や金属製の玉が加わります。

玉づくりの中心が日本海側(山陰・北陸)だったのは、素材がそこにあるからです。ヒスイは糸魚川、碧玉や瑪瑙は出雲。石は重いので、産地のそばで加工するのが自然でした。結果として、国産の石を削る工房と、大陸から来たガラスとが、同じ海岸線で出会うことになります。

③ 5世紀、青い小玉が大量に出てくる

奥山大塚古墳出土のガラス小玉と白石稲荷山古墳出土の滑石臼玉(東京国立博物館蔵)
左が滑石臼玉(群馬県藤岡市・白石稲荷山古墳)、右がガラス小玉(兵庫県姫路市・奥山大塚古墳)。どちらも5世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

同じ「首にかける粒」でありながら、素材はまったく違います。

  • 滑石臼玉(左)=やわらかくて削りやすい石。国産で、大量生産向き
  • ガラス小玉(右)=深い青。この色は、当時の日本の石では出せません

そして数を見てください。一粒二粒ではなく、首飾り一本ぶんの青があります。

つまり5世紀の日本で、ガラスはもう「珍品」ではありません。玉のかたちであれば、それなりの量が流れ込んでいます。

④ 「削って面をつくる」発想も、玉に来ていた

和泉黄金塚古墳出土の水晶切子玉 古墳時代4〜5世紀の重要文化財(東京国立博物館蔵)
水晶切子玉。大阪府和泉市・和泉黄金塚古墳出土、古墳時代4〜5世紀。重要文化財(東京国立博物館・筆者撮影)

切子(きりこ)とは、面を削り出して角をつくる技法のこと。この水晶の玉は、そろばん玉のような多面体に整えられています。

ここで、地図の①を思い出してください。「削る」ペルシャです。

硬い透明なものを削って、光の当たり方を作る。やっていることが同じです。素材が水晶か、ガラスかの違いでしかありません。

だから博物館では、この小さな玉を見てから碗のケースへ行くと、目が仕上がっています。「あ、これも削ってある」と、体が先に気づくはずです。

5世紀、ついに「器」が来た──新沢千塚126号墳

玉の次が、器です。ここがこの記事の中心になります。

舞台は奈良県橿原市、新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群。畝傍山の南に広がる丘陵に、直径10〜15メートルほどの小さな墓が600基以上。4世紀の終わりから7世紀にかけて、次々と造られました。仁徳天皇陵のような巨大な前方後円墳とはまったく違う、いわば「集合住宅のような墓地」です。

そのうちの一基、126号墳。

  • 大きさ:東西22メートル × 南北16メートルの長方形墳
  • 時期:5世紀後半
  • 埋葬施設:木をくりぬいた棺

大きさだけ見れば、まったく目立たない墓です。ところが1962年からの発掘で、棺の中から出てきたものが問題でした。

被葬者の頭の右脇に、ガラスの碗が、ガラスの皿に乗った状態で置かれていたのです。

コーヒーカップとソーサー、と思ってもらうのがいちばん近い。そのままの姿で、1500年間、土の中にありました。

新沢千塚126号墳出土のガラス皿とガラス碗(東京国立博物館蔵)
上の紺色が皿、下の淡い緑色が碗。生まれた国も、作られた時代も違う二点です(東京国立博物館・筆者撮影)

金を縫いつけた服を着た、名前のわからない人

場所出てきたもの
頭のあたり(棺の外)漆の盤、青銅製の熨斗(ひのし)、鉄刀
頭のあたり(棺の中)銅鏡、金製の方形板(龍の透かし彫り/帽子の飾りか)、金製の垂飾付耳飾、金製の螺旋状垂飾
頭の右脇ガラス碗・ガラス皿
腰のあたり金銅製の帯金具
両手のあたり金・銀の釧(腕輪)、指輪、玉類
遺体の全体多量の金製歩揺(ほよう)、ガラス玉
新沢千塚126号墳出土品の展示 金製装身具とガラス器(東京国立博物館蔵)
126号墳から出た副葬品。右下にびっしり並ぶ小さな粒が、遺体を覆っていた金製歩揺です(東京国立博物館・筆者撮影)

金の粒を全身にまとった人が、ガラスの器を枕元に置いて眠っていた。

展示解説によれば、遺骸の周りで見つかった糸孔をもつ多数の金製の飾りは、大陸風の衣服に縫い付けられていたものとみられます。そして副葬品の火熨斗——現代のアイロンにあたる道具——は、絹製品があったことをうかがわせます。

金を縫いつけた絹の服を着て、その服にアイロンをかける道具まで一緒に埋めた。

そして不思議なのは、この豪華さと、墓の小ささが釣り合っていないことです。大王の墓ではない。それなのに、大王の墓からも出てこないものが入っている。

被葬者は渡来系の人物ではないか、装身具の種類から女性ではないか、といった見方がありますが、名前も、素性も、わかっていません。

126号墳の出土品は一括して国の重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵しています。地元の橿原市博物館にあるのは精巧な復元模造品です。

皿は「編む」ほう、碗は「削る」ほう

さて、地図の①の出番です。セットで置かれていた碗と皿ですが、生まれた場所が違います。

ガラス皿ガラス碗
系統編む(ローマ)削る(ササン朝ペルシャ系)
色紺色淡い黄緑色・透明
装飾内面に鳥・樹木・人物・馬・花弁が描かれていたらしい底に2段、胴に5段の円い模様を削り出す
厚み—器の壁が約1.5ミリ。とても軽い

碗のほうは、写真でも胴に並ぶ丸いくぼみがはっきり見えます。まぎれもなく「削る」側です。

いっぽう皿のほうは、鳥や馬が描かれていたとされますが、いま肉眼で追うのはまず無理です。1500年分の曇りと傷で、深い紺色の面がぼんやり光を返すだけになっています。

ところが2014年、東京理科大学の研究チームが蛍光X線分析(ものを壊さずに含まれる元素を調べる方法)にかけたところ、化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスとほぼ一致しました。日本の古墳から出たガラス器が、ローマ帝国からのものだと裏づけられた、初めての例です。

目には見えないものを、機械が読み取ったわけです。

カップとソーサーの顔をして並んでいたけれど、片方は編んで作る国から、もう片方は削って作る国から来ていた。126号墳の枕元は、二つの流れの合流点だったのです。

皿は「途中で化粧直し」されたかもしれない

ややこしいのは、皿のガラス自体は2世紀以前に地中海のあたりで作られた可能性がある、という点です。だとすると、5世紀の古墳に納められるまで300年ある。

そこで出てきているのが、地中海で作られた無地の皿がササン朝ペルシャに渡り、そこで絵を入れられ、それから東へ運ばれたという見方です。

古道具屋で買った古いお皿に、次の持ち主が絵付けをして、それをまた誰かに贈った──そんなイメージでしょうか。

ガラスは、一度作られたら簡単には壊れません。だからモノの寿命が、人の一生より長い。旅の途中で持ち主が何度も変わり、そのたびに意味も変わっていく。これがガラスという素材の面白いところです。

コラム:ローマとペルシャって、日本でいうといつ?

ここでいったん、地図ではなく時計を合わせておきましょう。世界史と日本史は学校で別々に習うので、つながらなくて当たり前です。

西のできごと年そのころ東では
ローマが帝政になる前27前漢の終わりごろ
ローマ最盛期(五賢帝)96〜180後漢の全盛から末期へ
ササン朝ペルシャが興る226魏・呉・蜀の三国時代のはじまり
西ローマ帝国が滅びる476倭王武が中国へ上表文(478)
ササン朝ペルシャが滅びる651白村江の戦い(663)の12年前
正倉院に宝物が納められる756ペルシャが滅びて100年後

とっかかりを一つだけ挙げるなら、「西ローマ帝国が滅びた年と、倭王武が中国に手紙を出した年が、ほぼ同じ」です。

この表を頭に置くと、126号墳のセットがいよいよ妙に見えてきます。皿はローマがいちばん元気だったころのガラス、碗はそれより数百年あとのペルシャのガラス。国も違えば、生まれた時代も何百年もずれている。骨董の名品と、比較的新しい品。それがカップとソーサーの顔をして並んでいたわけです。

ガラスの行き先は、古墳だけではなかった

器としてたどりついたガラスは、そのあとどうなったのか。

実は、行き先は古墳だけではありません。そして置かれ方が、時代とともに変わっていきます。

時代大切なものをどうしたか場所
古墳時代埋める(一緒に葬る)新沢千塚
古墳〜奈良時代捧げる(神に置いていく)沖ノ島
飛鳥時代納める(骨を入れる)文祢麻呂墓
奈良時代しまう(蔵に残す)正倉院

埋めるから、しまうへ。同じガラスが、その全部の場面に顔を出しています。順に見ていきます。

捧げる──沖ノ島、神さまに置いていったガラス

福岡県の沖ノ島。九州本土と朝鮮半島のちょうど中間に浮かぶ、「海の正倉院」と呼ばれる島です。4世紀後半から9世紀にかけて、航海の安全を祈る国家的な祭りが、島の巨岩の上や岩陰でずっと続けられました。

そこに置かれた奉献品のなかにも、カットガラスの碗があります。「削る」側のガラスです。

同じペルシャ系のガラスが、いっぽうは奈良で人の枕元に、いっぽうは玄界灘の岩の上に、神への捧げものとして置かれた。行き先が二手に分かれています。

納める──707年、ガラスの骨壺

文祢麻呂墓出土の瑠璃骨壺 飛鳥時代707年のガラス製骨蔵器 国宝(東京国立博物館蔵)
瑠璃骨壺(るりこつつぼ)。奈良県宇陀市・文祢麻呂墓出土、飛鳥時代・慶雲4年(707)。国宝(東京国立博物館・筆者撮影)

緑色の、まるいガラスの壺です。中に人の骨が納められていました。国宝です。

文祢麻呂(ふみのねまろ)は、渡来系の氏族である西文(かわちのふみ)氏の出身。壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)の側につき、その功で従四位上まで昇進した人物です。『日本書紀』『続日本紀』にも名前が出てきます。

そして、この707年という年が効いています。

  • 700年 僧・道昭が火葬される(記録に残る最初の火葬)
  • 702年 持統天皇が亡くなり、天皇として初めて火葬される
  • 707年 文祢麻呂の骨が、ガラスの壺に納められる

火葬という習慣が、仏教とともに日本に入ってきたばかりの時期です。焼いた骨をどこに入れるか、まだ形式が固まっていない。その手探りの段階で、ガラスが選ばれた。展示解説にも「当時稀少だったガラス製の骨蔵器」とあります。

面白いのは、そのあとです。

奈良時代8世紀の銅製骨蔵器と金銅製骨蔵器(東京国立博物館蔵)
100年後の骨蔵器。左が銅製の箱、右は金を厚くほどこした金銅製。どちらも奈良時代・8世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

奈良時代に入って火葬が広まると、骨蔵器はぐっと数が増えます。ただし素材は金属です。銅の箱、金銅の壺。

つまりガラスの骨壺は、流行の始まりではなく、ほぼ一度きりの選択だったことになります。だから国宝なのです。

玉として入ってきたガラスが、器になり、ついに人の骨を納める容れ物にまでなった。5世紀の碗から、わずか200年ほどの出来事です。

正倉院の白瑠璃碗には、上野に「兄弟」がいる

表の四段目、しまう。ガラスの旅の最後です。

正倉院の宝物のなかで、いちばん有名なガラスといえば白瑠璃碗(はくるりのわん)でしょう。半球形で、表面を蜂の巣のように削り出したカットガラスの碗。ササン朝ペルシャで6世紀ごろに作られたと考えられています。もちろん「削る」側です。

実は、これとそっくり同じ碗が、もう一つ日本にあります。しかも上野にあります。

大阪府羽曳野市の高屋築山古墳(安閑天皇陵とされている古墳)から江戸時代の半ばに出土したと伝わる、伝・安閑陵古墳出土の白瑠璃碗です。

伝・安閑陵古墳出土のガラス碗 ササン朝ペルシャのカットガラス(東京国立博物館蔵)
伝・安閑陵古墳出土のガラス碗。円いくぼみを削り出したササン朝ペルシャの技法。黒い筋は、割れたものを接いだ跡です(東京国立博物館・筆者撮影)

上から下まで、丸いくぼみがきれいに段になって並んでいます。

同じ「削る」でも、126号墳の碗とは別タイプ

ここで一つだけ、区別しておきたいことがあります。

126号墳の碗も、この白瑠璃碗も、どちらも「削る」側のペルシャ系カットガラスです。でも、手に持ったときの印象はまるで違うはずです。

126号墳の碗白瑠璃碗タイプ
時期5世紀後半の古墳から出た6世紀ごろのササン朝で現れる
厚み器の壁が約1.5ミリ。とても軽い底の厚さが最大1.5センチ。ずっしり重い
日本での例新沢千塚126号墳正倉院、伝・安閑陵古墳

1.5ミリと、1.5センチ。10倍違います。同じ円い切子でも、薄いガラスに軽く削りを入れたものと、分厚い塊をごりごり彫り込んだものとでは、別のタイプなのです。

このあとの話に関わるので、「白瑠璃碗タイプ=分厚いほう」とだけ覚えておいてください。

どれくらい似ているか

正倉院の白瑠璃碗伝・安閑陵の白瑠璃碗
高さ8.5 cm8.6 cm
口の直径12 cm11.9 cm
底の直径3.9 cm3.9 cm
模様亀甲文に見える円形の文様
重さやや重い409.2 g

寸法も、材質も、切子の数も、そして削られた面のカーブの曲率半径まで、ほぼ一致します。

同じ工房で、同じ時期に作られた可能性が高い。あまりに似すぎているため、この二つは別々に日本へ来たのではなく、同時にやって来たのではないかと考えられているほどです。

一つは天皇の蔵に伝わり、一つは古墳の中へ。同じ日に日本に着いたかもしれない兄弟が、1000年以上、別々の場所で眠っていた。

そのうえ、この碗は一度行方不明になっている

伝・安閑陵の碗には、もう一段おまけの物語があります。

この碗は近くの西琳寺という寺に伝わっていましたが、明治の廃仏毀釈で寺そのものが廃絶。当時の住職によって売られ、行方がわからなくなりました。

その後あらためて発見され、クラブ関西という団体が買い取り、東京国立博物館に寄付。1956年に重要文化財に指定されて、今に至ります。

写真の黒い筋が、いつついた傷なのかはわかりません。ペルシャから運ばれる途中か、古墳の中でか、それとも行方知れずだったあいだか。ただ、この碗が無傷ではなかったこと、それでも捨てられずに接がれて残ったことだけは、見ればわかります。

そして2019年、この碗と正倉院の白瑠璃碗が、史上はじめて並べて展示されました。ペルシャの工房で隣り合っていた(かもしれない)二つが、1400年ぶりに再会したわけです。

ところが、この碗だけ道が消える

同じ日に日本へ着いたのかもしれない兄弟。では、どうやって来たのでしょうか。

ふつうに考えれば、道は一本しかありません。

ペルシャ → 中央アジア → 中国 → 朝鮮半島 → 倭

実際、5世紀の倭に入ってきた鉄も、馬も、須恵器も、金の装身具も、この道を通ってきました。126号墳もその例外ではありません。展示解説によれば、金・銀の冠飾金具や耳飾、腕輪、指輪、歩揺といった装身具は朝鮮半島の新羅の工房の出土品と同水準のもの。龍文の金銅製帯金具は、中国東北地方から半島南部にかけて盛んに作られた典型的な形です。

つまりこの墓の副葬品の大半は、半島ルートで説明がつきます。

ガラスの器も、途中に足あとを残している

玉だけではありません。器もです。

新羅の慶州の古墳からは、ローマ系の技法で作られたガラスの器が出ています。朝鮮半島最大の古墳・皇南大塚から出たガラスの水差しは、韓国の国宝です。

「編む」側のガラスという点では、126号墳の皿の仲間が、半島にもちゃんと残っているわけです。道は見えています。

分厚い碗だけ、中継所の記録が真っ白

ところが、さきほどの白瑠璃碗タイプ(分厚いほう)だけは、この説明がうまくいきません。

このタイプは、日本では正倉院と伝・安閑陵古墳にあるのに、中国での出土は西域で1個(形の違うものを含めても2個)。朝鮮半島にいたっては、1つも見つかっていません。

朝鮮半島に例が
ガラス玉ある
ローマ系のガラス器ある(皇南大塚の水差しなど)
白瑠璃碗タイプの碗ゼロ

玉にも、ローマ系の器にも、途中の足あとが見えるのに。この碗だけ、道が消えるわけです。

駅伝でたとえるなら、スタートとゴールにはたすきの記録が残っているのに、途中の中継所の記録だけが真っ白という状態です。

考えられることはいくつかあります。

  • 中継地では大切にされず、割れて捨てられた(=残らなかっただけ)
  • 陸ではなく、海のルートを通った
  • 使節や商人が、途中で開けずにそのまま持ち抜いた「贈り物」だった

どれも決め手はありません。わからない、というのが今のところの正解です。

「古いから貴い」のではなく、「遠いから貴い」

ただ、三つ目の「贈り物だった」という見方だけは、少し腑に落ちるところがあります。

いま骨董品に値段がつくのは、時間に対してです。「18世紀の品」と分かるから高い。つまり、いつどこで作られたかという記録が残っていることが前提になっています。

でも古墳時代の人に、そのガラスがどこで、いつ作られたものかは知りようがありません。では、何に値打ちを感じたのか。おそらく距離です。

  • 透きとおっている。石でも土でもない
  • こんなものは、この国の誰にも作れない
  • どこか、とんでもなく遠いところから来たものらしい

古いから貴いのではなく、遠いから貴い。骨董とは値打ちの出どころが違います。

そして、値打ちが距離にあるということは、途中で降ろしたら値打ちが消えるということでもあります。売り買いされる商品なら、儲かる場所で売られて旅は終わる。けれど「遠くから運ばれてきたこと」そのものが意味である贈り物は、王から王へ、使者から使者へ、開けられないまま最後まで運ばれる。

だから中継地に落ちていない──そう考えると、真っ白な記録も少しだけ読める気がします。もちろん、これは証拠のある話ではありません。

トーハクでの歩き方──東洋館3室で上流、平成館で下流

ここまでの話、東京国立博物館の中だけで、ほぼ全部たどれます。これがこのテーマのいちばん贅沢なところです。

おすすめは、上流から下流へという順で見ることです。

① 東洋館 3室(西アジア・エジプトの美術)=上流

東洋館3室に並ぶ東地中海地域の古代ガラスの展示ケース(東京国立博物館蔵)
東洋館3室「東地中海地域の古代ガラス」。香油や酒を入れる小さな器が中心です(東京国立博物館・筆者撮影)

ガラスが生まれた側の世界です。並んでいるのは、香油瓶や酒を注ぐ器といった小さなもの。紀元前から紀元後数世紀にかけての品です。

見るポイント:

  • 模様が「色」でできているか、「削り」でできているか。このケースの多くは前者=「編む」側です
  • 器の壁の薄さ。吹いて膨らませた器は、驚くほど薄い
  • 大きさ。ほとんどが手のひらに乗る。当時のガラスは、量を作れる素材ではありませんでした

ここは「皿」の上流です。ペルシャの切子碗の上流ではありません。126号墳の二点セットは、別々の流れの合流点に置かれていました。

② 平成館 1階 考古展示室=下流

日本の土の中から出てきた側です。この順で見ると、記事の流れがそのままなぞれます。

  • まず玉のケース。縄文のヒスイ → 古墳のガラス勾玉 → 5世紀の青い小玉、の順で目を作る
  • 水晶切子玉で「削って面をつくる」を先に覚えておく
  • 新沢千塚126号墳の碗と皿(金の装身具もこの一群です)
  • 伝・安閑陵の白瑠璃碗。126号墳の碗と厚みを比べる
  • そして瑠璃骨壺。ガラスが最後にたどりついた「かたち」です

上流で3分、下流で10分。それだけで、目の中に一本の線が引けます。

注意:どちらも展示替えがあります。お目当てがある日は、事前に公式サイトの展示作品リストで確認してからどうぞ。

おわりに──終着点は、土の中と蔵の中にあった

シルクロードというと、砂漠を行くラクダの隊商を思い浮かべます。でもその道は、中国で終わりではありませんでした。

海をもうひとつ渡って、奈良の小さな古墳の、誰とも知れない人の枕元まで来ていた。

そして、その道を最初に通ってきたのは、碗ではなく小さな青い玉でした。粒として届いたものが、やがて器になり、最後は人の骨を納める壺になる。

ただ、いちばん重いあの碗だけは、途中のどこにも足あとを残していません。

誰が運んだのか。何回持ち主が変わったのか。どんな気持ちで枕元に置いたのか。ぜんぶわかりません。わからないまま、モノだけが残っています。

上野に行かれたら、東洋館の3室と、平成館の考古展示室を、ぜひ続けて歩いてみてください。1500年を、階段の上り下りだけでまたげます。

コラム:「編む」と「削る」が同居した、天理のもう一つの碗

奈良県天理市の天理大学附属天理参考館に、ササン朝ペルシャ伝来とされる「円形切子碗」があります。高さ6.5センチと白瑠璃碗より小ぶりで、厚みも5ミリ前後と薄い。

面白いのは模様で、上半分は白瑠璃碗と同じ円のくぼみ、下半分は四角いくぼみになっています。

円だけを使うのはササン朝の特徴、四角や線など複数のモチーフを組み合わせるのは、それより古いローマの特徴だそうです。つまりこの碗は、ローマ風とペルシャ風が一つの器の中で同居している。この記事でずっと分けてきた二つの流れが、ここでは混ざっているわけです。

分析の結果、作られた時期は4世紀より古い可能性が高く、白瑠璃碗の「原型」にあたるのではないかと指摘されています。

ローマからペルシャへ、ペルシャから日本へ。細い糸の、さらに細い枝分かれです。

参考・出典

  • e国宝/文化遺産オンライン「新沢千塚126号墳出土品」(東京国立博物館蔵)
  • 東京国立博物館 平成館 考古展示室 展示解説(玉生産の展開/骨蔵器)
  • 東京国立博物館 1089ブログ(2019年/正倉院の碗との比較)
  • 由水常雄『正倉院ガラスは何を語るか』中公新書、2009年

このあたりが気になった方へ

博物館で何を見る?──奈良時代、宝物は埋めずに蔵に残された博物館で時代順に展示を歩いていくと、奈良時代のケースの前で、ふと違和感を覚えることがあります。 そこだけ、モノがきれいなんです。 古墳時代のコーナーは、土の色を… 東京国立博物館の回り方|平成館・東洋館で古代をたどる1日モデルコース上野の東京国立博物館、通称「トーハク」。日本でいちばん古い博物館です。 トーハクをもっと楽しむために、私が事前に調べて書いた記事を、この1ページにまとめました。…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵