学校では、世界史と日本史を別々に習います。
エジプトのピラミッド、メソポタミアの楔形文字、中国の殷王朝。かたや日本は、縄文土器と竪穴住居。この二つが頭の中でつながらないまま、大人になった人は多いと思います。
私もそうでした。「ピラミッドを作っていたころ、日本人は何をしていたんだろう」と考えたことすらなかった。
答えを先に言います。ピラミッドが建っていたころ、日本は縄文時代のまっただ中でした。
三内丸山に人がいたころ、ピラミッドは建っていた
青森県の三内丸山遺跡をご存じでしょうか。日本最大級の縄文集落で、五百年以上にわたって人が住み続けた場所です。
この集落が営まれていたのが、およそ紀元前3900年〜紀元前2200年。
そしてクフ王の大ピラミッドが建てられたのが、紀元前2500年ごろ。
つまり、こういうことになります。
三内丸山のムラで人が暮らしていたそのとき、
地中海の向こうでは、石を積んでピラミッドを建てていた。
同じ地球の、同じ時間です。片方は縄文の森、片方は古代エジプト。教科書のページは何十ページも離れているのに、時計の針は同じところを指していた。
この感覚が、私には欠けていました。

これは上野で撮った、シュメルの定礎神像です。建物を建てるとき、基礎に埋めて工事の無事を祈った像だとされます。前2400年ごろ。
この像が地面に埋められていたころ、青森では三内丸山のムラがまだ続いていました。
対照年表:紀元前1万年から紀元後1年まで
まずは並べて眺めてみてください。細かい年号は覚えなくて大丈夫です。「へえ、同じころか」と思ってもらえれば、それでこの表の役目は果たせています。
| 年代 | 世界のできごと | 日本のできごと |
|---|---|---|
| 前14000年ごろ | 氷期が終わりに向かう | 縄文時代がはじまる(土器の使用) |
| 前9000年ごろ | 西アジアで麦の栽培・牧畜がはじまる | 狩猟・採集・漁労の暮らし |
| 前5000年ごろ | メソポタミアで灌漑農業 | 縄文前期。貝塚が各地にできる |
| 前3900年ごろ | エジプトで都市が育つ | 三内丸山の集落がはじまる |
| 前3200年ごろ | メソポタミアで文字が生まれる | 縄文前期。文字はまだない |
| 前3000年ごろ | エジプト統一。ミイラ作りが本格化 | 縄文中期へ。火焔型土器の時代が近づく |
| 前2500年ごろ | クフ王の大ピラミッド/ストーンヘンジ | 三内丸山はまだ健在。大型住居や墓列 |
| 前2200年ごろ | エジプト古王国が崩れる | 三内丸山の集落が終わる |
| 前1750年ごろ | ハンムラビ法典 | 縄文後期。環状列石(ストーンサークル)が作られる |
| 前1600年ごろ | 中国・殷王朝。甲骨文字 | 縄文後期 |
| 前1330年ごろ | ツタンカーメン | 縄文晩期へ。遮光器土偶の時代が近づく |
| 前1000年〜前400年ごろ | ギリシャの都市国家が育つ | 稲作が伝わる。弥生時代へ(時期には幅あり) |
| 前221年 | 秦の始皇帝が中国を統一 | 弥生中期。ムラがクニにまとまりはじめる |
| 前27年 | ローマ帝国がはじまる | 弥生後期。倭が中国の史書に載りはじめる |
| 57年 | 後漢の光武帝 | 奴国の王が金印を授かる |
眺めてみて、いちばん驚くのはこのあたりではないでしょうか。
メソポタミアで文字が生まれてから、日本に稲作が来るまで、二千数百年ある。
文字を持った社会が、二千年以上も記録を積み上げていたあいだ、日本列島では土器を作り、ドングリを拾い、シカを追っていた。そう書くと、なんだか日本がずいぶん遅れていたように見えます。
でも、そう単純な話ではありません。
なぜ「ずれ」て見えるのか──ものさしが違う
世界史と日本の先史を並べると違和感があるのは、時代を刻むものさしが、そもそも違うからです。
世界史のものさし=王朝・都市・文字
エジプトやメソポタミアの歴史は、こう区切られます。
- 誰が王だったか
- どの都市が栄えたか
- 何が記録に残っているか
これができるのは、文字があるからです。王の名前が石に刻まれ、税の記録が粘土板に残る。だから「第4王朝のクフ王の治世」という細かさで時代を語れます。
日本の先史のものさし=土器の形
いっぽう、縄文時代に文字はありません。王の名前も、年号も、事件の記録も残っていない。
では何で時代を測るのか。土器の形です。

草創期、早期、前期、中期、後期、晩期。この六つの区分は、土器の作り方や模様の変化で引かれています。考古学者は土の層から出てくる土器のかけらを見て、「これは中期のもの」と判断する。土器が時計の役割をしているわけです。
写真の並びを左から右へ目で追ってみてください。口の広がり方、胴のふくらみ、飾りの付き方が、少しずつ変わっていきます。この変化が、そのまま年代の物差しになっている。
そしてもう一つ、気づいてほしいことがあります。この一枚の写真の中に、すでに数千年が入っています。手前と奥、左と右では、作られた時期が千年以上ちがう。「縄文土器」という一語は、それくらい大きな袋なのです。
このあたりは、縄文と弥生の見分け方の記事でも詳しく書きました。
博物館で何を見る?──縄文1万年と、弥生600年で変わった日本博物館の考古展示室って、正直むずかしくないですか。 土器がずらっと並んでいる。土偶がある。銅鐸がある。教科書で見たものだと分かるけれど、そのまま次の部屋へ──。…
つまり、「ピラミッド」と「縄文中期」を並べるという行為は、ストップウォッチと砂時計を並べて比べているようなものなんです。どちらも時間を測っていますが、目盛りの細かさがまるで違う。
キャプションを見比べると、差がわかる
この「目盛りの細かさ」、博物館の解説札を見比べるだけで実感できます。

まず、東洋館にあるこの日干し煉瓦。年代の表記は「前2125〜前2110年ごろ」です。
幅は十五年。
ただの日干し煉瓦にここまで細かい年代がつくのは、表面に文字が刻まれているからです。誰の治世に、どの建物のために焼かれたか。文字がそれを教えてくれる。

いっぽう、平成館にあるこちらの石器。埼玉県所沢市や東京都昭島市から出た、槍の先です。年代の表記は「前11000〜前7000年」。
幅は四千年。
十五年と、四千年。
この差が、そのまま文字のあるなしの差です。
縄文時代が一万年以上も一つの名前でくくられているのは、日本に何も起きなかったからではありません。起きたことを記録する文字がなかったから、大きな塊でしか区切れないのです。
四千年の幅のなかで、この石器を作った人たちにも、名前があり、家族があり、その日の獲物があったはずです。ただ、それを書き留める手段がなかった。だから四千年が、ひとかたまりになっている。
遅れていたのではなく、選ばなかった
もうひとつ、ものさしをずらすと見え方が変わる話をします。
世界史の教科書は、たいていこの順番で進歩するという前提で書かれています。
狩猟採集 → 農耕がはじまる → 定住する → 都市ができる → 文字ができる
西アジアではまさにこの順で進みました。麦を育てるようになったから、一か所に住むようになり、余った作物を管理するために記録が必要になって、文字が生まれた。きれいな一本道です。
ところが、日本列島はこの順番どおりに進んでいません。
縄文人は、農耕を本格的にはじめないまま、定住していました。ムラを作り、家を建て、墓地を持ち、何百年も同じ場所に住み続けた。それでいて、主食は木の実と魚と獣です。
これは世界的に見ても、かなり珍しいことです。
理由は、日本列島が豊かすぎたから。秋になればクリやドングリが山ほど落ち、川にはサケがのぼり、海には貝がいる。土を耕して麦を育てる苦労をしなくても、暮らしが成り立ってしまった。
※もっとも、まったく手をかけなかったわけではありません。三内丸山では、人がクリの林を管理していた跡が見つかっています。育てはじめてはいたのです。ただ、それが社会を変えるほどの規模にはならなかった。
さらに言えば、土器では日本のほうが先を行っていました。
日本最古級の土器は、およそ一万六千年前のもの。西アジアで土器が作られはじめるより、何千年も早い。世界最古級の土器は、東アジアに集まっているのです。
同じ土器でも、進んだ方向が違う
器に絵を描くという発想が、縄文にはほとんどありません。かわりに、粘土をつまみ、渦を巻かせ、盛り上げる。その極みが、これです。

解説によれば、これは煮炊きの道具です。木の実や肉を煮るための鍋。日々の道具に、ここまでの装飾を施した。
口のまわりで炎のように反り返る突起。胴には渦巻きが幾重にも巡り、その間を細い線が埋めています。色は使っていません。すべて粘土の凹凸だけで作られた模様です。
ちなみに、この突起が何をあらわしているのかはわかっていません。炎に見えるので「火焔型」と呼ばれていますが、それは現代のわたしたちがつけた名前です。作った人が何のつもりだったのかは、記録がないので永遠にわかりません。
ここでも、文字がないということが効いてきます。
いっぽう、西アジアの土器はどうだったか。

細長い注ぎ口、輪になった取っ手、表面に描かれた幾何学の模様。解説によれば、こうした器は集落の有力者が宴に用いたもので、ワインなどを注ぐのに使われたのだろうとされています。
ここでひとつ、お断りしておきます。この二つは同じ時代のものではありません。イランの土器は前1200〜前500年ごろ、火焔型土器は縄文中期ですから前3000〜前2000年ごろ。千年以上のひらきがあります。
もっとも、さきほど見たとおり「縄文土器」という言葉自体が、すでに数千年をひとまとめにした呼び方です。そこにイランの土器を並べて「同時代の比較」を名乗るのは、はじめから無理があります。
ですからここで見たいのは、時代を合わせた比較ではありません。どちらへ向かって工夫を重ねたか、方向の比較です。
| イランの彩文土器 (前1200〜前500年ごろ) | 火焔型土器 (前3000〜前2000年ごろ) | |
|---|---|---|
| 形 | 注ぎ口、取っ手、脚。用途ごとに形が違う | 深い鉢。煮炊きが中心 |
| 飾り | 表面に絵を描く | 粘土そのものを盛る・貼る・彫る |
| 色 | 塗り分ける | 使わない |
| わかっていること | 宴で酒を注いだらしい、と解説に書ける | 煮炊きの鍋。ただし飾りの意味は不明 |
片方は「注ぎやすく、持ちやすく、見栄えよく」という工夫の方向へ進みました。もう片方は、そういう用途ごとの分化をあまりせず、器の表面を粘土でどこまで飾れるかという方向へ進んだ。
表のいちばん下の行にも、注目してみてください。同じ「土器」という展示品なのに、わかっていることの量が違います。片方は使われ方まで説明できて、もう片方は飾りの意味すら不明。ここでもまた、文字のあるなしが顔を出します。
「遅れていた」のではなく、進む方向が違った。私はそう考えるほうが、事実に近い気がしています。
ずれが消える日
長く続いた「ものさしの違い」は、あるとき急に埋まります。
稲作が伝わり、弥生時代がはじまったときです。
田んぼで米を作るようになると、余りが出ます。余りが出ると、それを管理する人が要る。管理する人が偉くなり、蓄えをめぐって争いが起き、ムラがクニにまとまっていく。西アジアが数千年かけて通った道を、日本列島は数百年で駆け抜けました。
なお、稲作がいつ伝わったかには幅があります。紀元前十世紀ごろとする説と、紀元前五〜四世紀ごろとする説があり、研究者のあいだでも決着していません。年表に一本の線を引きたくなりますが、ここは「幅がある」と覚えておくのが正直なところです。
そして決定的な瞬間が来ます。
紀元57年、奴国の王が後漢の光武帝から金印を授かった。
このできごとは、『後漢書』という中国の歴史書に書かれています。つまりこの年、日本列島の出来事が、はじめて文字の記録に乗ったわけです。
土器という砂時計で測っていた日本の時間が、ここで世界のカレンダーと接続された。私は、この瞬間がとても好きです。
※ちなみにこの金印は、福岡市の志賀島で見つかった国宝で、現在は福岡市博物館にあります。
博物館で見比べる
ここまで読んでくださった方に、おすすめしたい体験があります。
東京国立博物館なら、この「ずれ」を一日で体感できます。
- 東洋館 3室:エジプト・西アジアの出土品。文字を持った社会が残したもの
- 平成館 1階 考古展示室:縄文土器、石器、土偶。文字を持たなかった社会が残したもの
同じ建物のなかを歩いて移動するだけで、紀元前2500年の西アジアと、紀元前2500年の日本を、続けて見られるわけです。
そのとき、展示品より先に、解説札の年代を見てください。この記事でいちばん言いたかったことは、たぶんそこに全部出ています。片方は十五年、片方は四千年。同じ博物館の、同じ日の展示です。
そのうえで展示品に目を戻すと、見え方が変わります。西アジアの器の前で「このころ日本では縄文土器を作っていた」と思い、縄文土器の前で「このころメソポタミアにはもう文字があった」と思う。それだけで、いつもの展示室が違う場所になります。
注意:どちらも展示替えがあります。お目当てがある日は、事前に公式サイトの展示作品リストで確認してからどうぞ。
まとめ
- ピラミッドが建った紀元前2500年ごろ、日本は縄文時代のまっただ中だった
- 世界史は「王朝・文字」で、日本の先史は「土器の形」で時代を刻む。ものさしが違う
- 解説札の年代の幅を見比べると、その差がわかる。煉瓦は十五年、石器は四千年
- 「縄文土器」という一語も、数千年をひとまとめにした呼び方でしかない
- 日本は農耕を経ずに定住した。遅れていたのではなく、順番が違った
- 土器に限れば、日本のほうが数千年早い。ただし進んだ方向が違う
- 稲作と、紀元57年の金印で、日本の時間は世界のカレンダーとつながった
