山陰、丹後、但馬、若狭、越前。日本海側にも、半島とつながる入口があったことが、発掘や古い伝説から見えてきています。
古代の日本と朝鮮半島のつながり、と聞くと、たいていは北部九州の話になります。対馬、壱岐を飛び石にして、半島南端の金海へ。教科書に出てくるのも、ほとんどこの「表のルート」です。
表のルートについては、こちらで詳しく書いています。
狗邪韓国とは? 弥生時代の日本と金海を結んだ海の玄関口「弥生時代」と聞くと、稲作、銅鐸、卑弥呼あたりが浮かびます。「金海(キメ)」と聞くと、韓国の空港がある街、くらいでしょうか。 この二つ、実はまったく別の話ではあ…
でも、玄関はひとつではありませんでした。
この記事では、その「もうひとつの道」について、わかっていることとまだわからないことを分けて整理します。弥生時代から、6世紀の継体天皇までの話です。
まず、これだけ
家にたとえると、北部九州は表玄関、日本海側は勝手口です。
表玄関から入ったお客さんは、来客名簿(中国や日本の歴史書)に名前が残ります。勝手口の出入りは名簿に残りにくい。でも、人もモノもたしかに出入りしていて、その跡が土の中と伝説に残っています。
| 表玄関(北部九州ルート) | 勝手口(日本海ルート) | |
|---|---|---|
| 主な場所 | 対馬・壱岐・博多・糸島 | 出雲・因幡・丹後・但馬・若狭・越前 |
| 半島側の相手 | 加耶・百済が中心 | 半島の東南部(のちの新羅・加耶のあたり) |
| 残り方 | 歴史書の記録 | 出土品と、神話・伝説 |
| 性格 | 国と国の外交 | 地域と地域の行き来 |
記録に残りにくいだけで、勝手口はずっと開いていた。
なぜ日本海側に着くのか──海流と風
対馬海流という「動く歩道」
九州と朝鮮半島のあいだを、南から北へ流れる暖かい海流があります。対馬海流です。この流れは、対馬海峡を抜けたあと、本州の日本海沿いを北東へ進んでいきます。
空港の「動く歩道」を思い浮かべてください。乗ってしまえば、歩かなくても先へ運ばれる。半島の南東部から船を出して流れに乗ると、山陰や北陸の海岸へ向かいやすいのです。
いまでも山陰の海岸には、ハングルが書かれたペットボトルなどの漂着物がたくさん流れ着きます。海は、昔も今も同じ方向に運んでいます。
潟湖(せきこ)という天然の港
日本海側には、砂州で海と仕切られた湖、潟湖がいくつもありました。波が静かで、船を着けるのにちょうどいい。
丹後の網野や久美浜、鳥取の青谷、そして敦賀。古代の遺跡や大きな古墳は、こうした天然の港の近くに集まっています。
モノが語ること
ここからが、証拠がある話です。
弥生時代・鉄とガラスが集まっていた
弥生時代の後期、鉄器が特に多く見つかるのは北部九州です。そして、それに次ぐほど多いのが山陰や丹後なのです。
| 場所 | 何が出たか |
|---|---|
| 大風呂南墳墓群(京都府与謝野町) | 青く透きとおったガラスの腕輪、たくさんの鉄剣 |
| 奈具岡遺跡(京都府京丹後市) | 水晶や碧玉の玉作り工房と、大量の鉄の道具・鉄片 |
| 函石浜遺跡(京都府京丹後市) | 中国・新の時代の銭「貨泉」 |
| 妻木晩田遺跡(鳥取県大山町・米子市) | 日本最大級の弥生集落。鉄器が多数 |
鉄も、ガラスの材料も、当時の列島では作れません。海の向こうから入ってきたものです。丹後は、それを受け取り、玉に加工して、さらに内陸へ流す中継と加工の拠点だったと考えられています。
四隅突出型墳丘墓・日本海沿いに広がったお墓
弥生時代の中ごろから後期にかけて、四角いお墓の四隅がヒトデの足のように飛び出した、独特の形の墓が作られました。四隅突出型墳丘墓です。
いまの広島県北部で生まれ、出雲(島根県出雲市の西谷墳墓群など)で大型化し、そこから因幡、伯耆、そして北陸の越まで、日本海沿いに広がっています。
同じ形の墓が海沿いに点々と並ぶ。日本海沿岸の人たちが、船で行き来しながら、同じ文化を共有していたしるしです。
青谷上寺地遺跡・人そのものの証拠
鳥取市の青谷上寺地遺跡は、「地下の弥生博物館」と呼ばれるほど保存状態のよい遺跡です。弥生人の脳まで残っていました。
ここで見つかった人骨のDNAを調べたところ、多くが大陸・半島から渡ってきた人々の系統を持っていたと発表されています。
モノだけでなく、人も渡ってきていたことが、科学の目で確かめられつつあります。
古墳時代・丹後に巨大古墳が現れる
4世紀から5世紀のはじめにかけて、丹後の海沿いに、とびぬけて大きな前方後円墳が築かれます。
| 古墳 | 場所 | 全長 |
|---|---|---|
| 網野銚子山古墳 | 京都府京丹後市 | 約198メートル |
| 神明山古墳 | 京都府京丹後市 | 約190メートル |
| 蛭子山古墳 | 京都府与謝野町 | 約145メートル |
日本海側で最大級の3つで、「日本海三大古墳」と呼ばれます。どれも潟湖や海を見下ろす場所にあります。
これほどの古墳を作れる力が、丹後にはあった。そこから、ヤマトとは別の独立した勢力があったのではないかという「丹後王国」説も唱えられています。ただし、これはあくまで仮説で、ヤマトの有力な仲間だったとみる研究者も多くいます。
海の向こうのモノが集まる場所に、大きな力が生まれた。
伝説にも残る「もうひとつの道」
モノだけではありません。『古事記』『日本書紀』や風土記、そして韓国の『三国史記』にも、日本海をはさんだ行き来の記憶が残っています。
| 伝説 | 誰が | どこへ |
|---|---|---|
| 天日槍(アメノヒボコ) | 新羅の王子 | 但馬(兵庫県北部)に住む。出石神社にまつられる |
| ツヌガアラシト | 加耶の王子 | 敦賀に着く。「敦賀」の地名の由来とされる |
| 国引き神話 | 出雲の神 | 新羅の岬から、土地を引いてくる |
| 脱解(『三国史記』) | 「倭国の東北」の国で生まれた人 | 新羅に流れ着き、王になる |
伝説で「新羅」と書かれていても、実際には加耶もふくむ半島東南部の人々だったと考えるほうが自然です。
どれも、そのまま史実とは言えません。でも、出雲・但馬・敦賀と、半島の東南部を結ぶ話が、日本と韓国の両方の本に残っているのは見逃せません。
しかも脱解の話は、日本の側から半島へ渡るという逆向きの話です。
勝手口は、一方通行ではなかった。
日本の伝説では、天日槍の子孫が神功皇后の母になります。新羅の伝説では、脱解が王位につきます。どちらも、相手の国の人が王家にまで入り込んでいるのです。
じつは半島の国々のなかで、こうした伝説が王家にまで絡むのは、新羅がとびぬけて目立ちます。深い関係だった百済でさえ、つながりはほとんど「伝説」ではなく「記録」として残っているのです。これは何を意味しているのか。こちらで推理しています。
神功皇后は新羅の子孫?天日槍から継体天皇へ、日本書紀の『新羅』の謎『日本書紀』や『古事記』を読んでいると、ある国だけ、なんだか扱いが変だと気づきます。 新羅(しらぎ)です。 新羅は、倭にとって長いあいだ「敵」でした。ところが記…
継体天皇──日本海側から迎えられた大王
こうした日本海側のつながりが、6世紀のはじめ、ヤマトの中心に届きます。
越前で育った、応神天皇5世の孫
先代の武烈天皇には、跡継ぎがいませんでした。そこで迎えられたのが、男大迹王(おおどのおおきみ)、のちの継体天皇です。
『日本書紀』によると、父は近江の高島の人、母は越前の三国の人。父を早くに亡くし、母の故郷・越前で育ちました。応神天皇の5世の孫とされますが、その血筋には謎も多く残ります。
敦賀、琵琶湖、淀川──一本の水の道
継体天皇の地盤を地図で見ると、あることに気づきます。
| 場所 | 役割 |
|---|---|
| 越前・敦賀 | 日本海の港 |
| 近江 | 琵琶湖。敦賀から峠ひとつで出られる |
| 淀川 | 琵琶湖から流れ出て、大阪湾へ |
日本海から大阪湾まで、ほぼ水の上でつながる道です。日本海側に入ったモノや人を、ヤマトのすぐそばまで運べるルートでした。
即位したのは507年、河内の樟葉宮(大阪府枚方市)。そして継体天皇の本当の墓とする説が有力な今城塚古墳は、大阪府高槻市、淀川のほとりにあります。
ただし、すんなりとは入れなかった
『日本書紀』によれば、継体天皇が大和の地(磐余玉穂宮)に宮を置くのは526年。即位から約20年もかかっています。大和には、この大王を受け入れない勢力がいたのかもしれません。
日本海側の交易ルートを握っていたからこそ迎えられ、よそ者だったからこそ抵抗された。そんな見方もできますが、ここはまだ仮説の段階です。
日本海側から来た王は、百済を選んだ
面白いのは、ここからです。
継体天皇の時代、倭は512年に加耶の土地(任那四県)を百済に譲り、527年には半島へ兵を送ろうとしています。外交は、はっきり百済寄りでした。
日本海側から来た王なら、新羅や加耶と近かったのでは、と考えたくなります。でも実際には、ヤマトの王になってからは、表玄関の相手である百済を選んでいる。
出身がどこかと、王としてどちらを選ぶかは、別の話だった。
わかっていること・わからないこと
最後に、この記事の話を仕分けしておきます。
| 分類 | 内容 |
|---|---|
| わかっていること(モノで確かめられる) | 弥生後期、山陰・丹後に鉄器やガラスが多く集まっていた |
| 四隅突出型墳丘墓が、日本海沿いに越まで広がった | |
| 青谷上寺地遺跡の人骨に、大陸・半島系の人々が多く含まれていた | |
| 4〜5世紀はじめ、丹後に日本海側最大級の古墳が築かれた | |
| 書かれているが、確かめられないこと | 天日槍・ツヌガアラシト・脱解などの伝説が、実際の出来事かどうか |
| 継体天皇の血筋 | |
| 議論が続いている仮説 | 「丹後王国」がヤマトから独立していたか |
| 継体天皇が、日本海側の勢力を背景に即位したのか | |
| 気をつけたい思い込み | 「日本海側=新羅系」とひとまとめにすること(加耶の伝承もある) |
| 「日本海側出身の継体天皇は新羅寄り」とすること(外交は百済寄り) |
おわりに
朝鮮半島がいくつもの国に分かれていたように、日本列島も、はじめからひとつだったわけではありません。
北部九州には北部九州の、出雲には出雲の、丹後には丹後の、それぞれの海の出入り口がありました。ヤマトはそのうちのひとつにすぎず、表玄関を握ることで、少しずつ上に立っていった。
そして6世紀、勝手口の側から来た王が、ヤマトの王になります。
「日本」がひとつにまとまっていく話は、いくつもの玄関がひとつの家になっていく話でもあるのかもしれません。
このあたりが気になった方へ
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