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灼鼠の変とは|中宗が我が子・福城君を賜死させた冤罪事件をわかりやすく解説

朝鮮王朝で「息子を殺した王」といえば、米びつに世子を閉じ込めた英祖(ヨンジョ)が有名です。

でも、実の息子に直接死を命じた王は、もう一人います。

第11代・中宗(チュンジョン)。しかも殺したのは、いちばん可愛がっていた側室との間にできた長男でした。きっかけは、東宮の木に吊るされた一匹のネズミです。

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登場人物と年表

この事件の顔ぶれ

人物立場この事件での役どころ
中宗第11代国王判決を下した父
敬嬪朴氏(キョンビン・パクシ)中宗の側室容疑をかけられた母
福城君(ポクソングン)/李嵋中宗の庶長子容疑をかけられた息子
仁宗(インジョン)世子(後の第12代)呪われた「被害者」
金安老(キム・アルロ)権臣黒幕と目された男
金禧(キム・ヒ)金安老の息子・中宗の娘婿真犯人と名指しされた男

年表

できごと
1509年敬嬪朴氏が福城君を出産。中宗にとって最初の息子
1515年章敬王后が元子(仁宗)を産み、6日後に死去
1527年灼鼠の変。母子は廃庶人・流配
1532年儒生・李宗翼が「真犯人は金禧」と上疏 → 斬刑
1533年木牌の変。5月23日に母、26日に息子が死を賜る
1537年金安老、賜死
1541年福城君ら、名誉回復

焼けたネズミ(1527年)

中宗22年の春、東宮の北側の木に、一匹のネズミの死骸が吊るされているのが見つかりました。

ただのネズミではありません。四肢と尻尾を引きちぎられ、口と目と鼻を火であぶられていました。

なぜネズミなのか。世子(のちの仁宗)は子年の生まれでした。「お前もこうなれ」という、名指しの呪いです。「灼鼠(しゃくそ)」とは、焼かれたネズミという意味です。

中宗は、この件を深く追及したがりませんでした。当時は匿名の投書や行為は調査しないのが慣例で、王はその慣例を盾にしています。

しかし大臣たちは引き下がりません。後宮とその侍女たちが次々に尋問されましたが、犯人は出ませんでした。

それでも誰かを犯人にしなければ収まらない。そこで名前が挙がったのが、敬嬪朴氏と、その息子・福城君でした。

動機はわかりやすい話にされました。福城君は中宗の長男。世子さえいなくなれば王位が回ってくる。母の敬嬪は、かつて王妃の座を狙って退けられた過去がある——と。

二人は身分を剥奪され、宮廷を追われました。敬嬪は故郷の尚州(サンジュ)へ送られます。

敬嬪が王妃になり損ねたのは1515年。章敬王后が元子を産んで6日で亡くなり、次の王妃候補として名が挙がりました。反対したのは重臣・鄭光弼です。理由は「家柄が低い」ことと、「将来、元子と福城君が王位を争う恐れがある」こと。この時の懸念が、12年後にそのまま罪状として使い回されました。

もみ消された告発(1532年)

事件から5年後、ひとりの儒生が爆弾を投げます。

李宗翼(イ・ジョンイク)。彼は獄中から上疏し、こう主張しました。灼鼠の変は敬嬪母子とは無関係だ、真犯人は金安老の息子・金禧である、と。

金禧は、中宗の長女・孝恵公主の夫です。つまり王の娘婿。その父・金安老は、当時の朝廷を握っていた権臣でした。

朝廷はこの告発の事実関係を確認しませんでした。李宗翼はそのまま斬刑になります。

ドラマや解説記事では「後に真犯人が判明して冤罪が晴れた」とよく書かれますが、厳密には正しくありません。この事件は最後まで自白も出ず、本格的な再調査も行われていません。「金安老一派の仕業だろう」というのは、李宗翼の主張以来の有力な見方であって、確定した事実ではないのです。自白のない有罪判決——ここがこの事件の本質です。

紙で作った生首(1533年)

そして中宗28年5月17日。今度は東宮の南側の垣根で、もっと悪質なものが見つかります。

紙で人間の頭を作り、目・鼻・口と髪を描いて、木の札に突き刺したもの。札の表には三行の文字がありました。

このように世子を切り刻み、このようにその父である王を絞め殺し、このように中宮を斬れ——。

裏面には日付と、実行者15人の実名まで書かれていました。兵曹の下級役人・韓忠輔ら、という具合に。

人の頭を模したので「仮作人頭の変」、木札に刺さっていたので「木牌の変」と呼ばれます。

ここが巧妙なところです。5年前、中宗は「匿名だから調べない」と言って逃げました。今回は実名が書いてある。逃げ道が塞がれています。

それでも中宗は、この札を焼き捨てて事件を揉み消そうとしました。相手が金安老である以上、藪をつついても勝ち目がないとわかっていたのでしょう。

5月23日と、5月26日

そして王は折れます。

5月23日、中宗は敬嬪朴氏に薬を下しました。

ここが、この記事でいちばん見てほしいところです。
中宗は同じ日、息子については殺していません。「母が連座しただけで、福城君自身は関わっていない。遠方に移して住まわせよ」——そう命じています。
ところが、それでは足りないという上疏が止まりませんでした。
3日後の5月26日、中宗はついに福城君に死を命じ、二人の娘(恵順翁主・恵静翁主)も庶人に落とします。
この3日間の落差こそ、中宗がぎりぎりまで抵抗した証拠です。逆に言えば、王は自分の息子ひとり守れなかった。

福城君、満23歳。1509年に生まれ、1533年に死にました。妻は文定王后の取りはからいで娶った坡平尹氏、娘がひとりいました。

『中宗実録』のこの日の記事には、悪臣どもが偽りの公論を笠に着て君主を脅し、王の愛する息子を殺しながら朝廷に口を開かせなかった、という趣旨の一節が残されています。

8年後、弁護したのは「呪われた」当人

その後の展開を、年だけ追ってみます。

1537年、金安老が賜死。事件の構図を作った男が、自分も同じ薬を飲まされました。

1541年、灼鼠の変で使われた文書の筆跡が、金禧のものと一致すると指摘されます。この年の11月、福城君は「福城君」という君号を取り戻しました。

弁護に立ったのは、意外な人物でした。世子——つまり、呪われたはずの当人、のちの仁宗です。

しかも訴え方が泣かせます。「無実だった」と正面から言い切るのではなく、「福城君の残された娘が不憫な暮らしをしている」と、父の同情に訴える形をとりました。王の判断そのものを否定すれば、話がこじれるとわかっていたのでしょう。

敬嬪朴氏の遺体は、尚州に仮埋葬されたままでした。きちんと改葬されたのは1571年。事件から38年後、外孫の上疏によってです。

朝鮮王朝500年で、二度だけ

朝鮮王朝には暴君も粛清も山ほどあります。兄が弟を、叔父が甥を殺した例は数えきれません。

それでも、王が実の息子に直接死を命じた例となると、記録上ふたつしかありません。

息子事件名
1533年中宗福城君木牌の変
1762年英祖思悼世子壬午禍変

その間、229年。

二人とも「やりたくてやった」わけではないことです。英祖には英祖の追い詰められ方があり、中宗には中宗の追い詰められ方がありました。中宗にいたっては、そもそも臣下のクーデターで担がれて王になった人です。即位の日から、自分より強い臣下を見上げて生きてきました。

最初の妻も7日で取り上げられ、最後は長男まで取り上げられた王。それが中宗です。

この事件を正面から描いたドラマが『女人天下』です。敬嬪朴氏と福城君の母子が物語の柱のひとつになっています。中宗は『宮廷女官チャングムの誓い』の王、『七日の王妃』の夫としても登場しますが、灼鼠の変まで踏み込む作品は多くありません。

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