朝鮮王朝の第11代〜第13代は、「女性たち」が時代を動かした、といっても言い過ぎではありません。中宗の3人の王妃、宮廷に実在した医女チャングム、そして息子を王にするために争った2つの王妃の実家——。ドラマ『女人天下』『オクニョ』『チャングム』の舞台となったこの時代を、まずは系図から眺めてみましょう。
系図
時代背景——女性たちが動かした宮廷
① 中宗を支え、翻弄した3人の王妃
中宗には、性格も運命もまるで違う3人の王妃がいました。
- 端敬王后(チェギョン)…最初の王妃。中宗反正のとき父が燕山君側についていたため、即位からわずか7日で泣く泣く離縁させられました(『七日の王妃』の主人公)。
- 章敬王后(チャンギョン)…2番目の王妃で、のちの第12代・仁宗の母。しかし産後まもなく亡くなってしまいます。※ 中宗反正の中心人物・朴元宗(パク・ウォンジョン)が叔父です。
- 文定王后(ムンジョン)…3番目の王妃で、のちの第13代・明宗の母。この人が、後半のラスボスです。息子を王にし、20年にわたって宮廷に君臨しました。
宮廷にいた実在の医女・チャングム
この中宗の時代、宮中に「大長今(テジャングム)」という医女が実在しました。『中宗実録』に10箇所ほど記録があり、中宗が「余の病は彼女がよく知っている」と語ったほど信頼された人物です。章敬王后のお産にも立ち会ったとされます。
※ドラマ『チャングム』の料理人時代などは、ほぼ創作です。
② 束の間の改革——趙光祖と己卯士禍
中宗反正は臣下(朴元宗ら)が主導したクーデターで、中宗自身が起こしたものではありませんでした。そのため即位当初から、功臣たちの力が強すぎて王が思うように動けない状態が続きます。
そこで中宗が抜擢したのが、若き士林派の改革者・趙光祖(チョ・グァンジョ)。「儒教の理想どおりの国を」と燃える彼を頼り、功臣の特権削減などの改革を進めますが……既得権益を奪われた勲旧派が猛反発。1519年の己卯士禍で趙光祖一派は粛清され、改革は志半ばで潰えました(趙光祖は流刑地で賜薬)。
③ 大尹 vs 小尹——二人の王妃の実家戦争(乙巳士禍)
同じ坡平尹氏の一族が、「どちらの王妃の子を王にするか」で真っ二つ。
- 大尹(テユン)…章敬王后(仁宗の母)の実家。兄・尹任が中心。
- 小尹(ソユン)…文定王后(明宗の母)の実家。弟・尹元衡が中心。
中宗が亡くなると、章敬王后の子・仁宗が即位。
ところが病弱で、わずか8か月で崩御(享年30・毒殺説もあり)。一気に立場が逆転。
仁宗殺害説について:文定王后が仁宗を毒殺したという説が後世に語られましたが、史料的な根拠は薄く確定はしていません。ドラマ『女人天下』ではこの疑惑も描かれています。
跡を継いだのが、文定王后の子・明宗です。まだ幼かったため、母・文定王后が摂政として実権を握りました。明宗が即位すると、勝った小尹が、負けた大尹を一斉に粛清します。これが1545年の乙巳士禍です。
文定王后とともに権勢をふるったのが、弟・尹元衡と、その妻となった鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)。※ 鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)は朝鮮王朝”三大悪女”の一人に数えられ、『女人天下』『オクニョ』でおなじみの顔ぶれです。
④ 女人天下のあと——士林派の時代へ
1565年、文定王后が世を去ると、後ろ盾を失った尹元衡は失脚・追放。そして——4度も士禍で叩かれ続けた士林派が、ついに政治の実権を握ります。
明宗は息子の順懐世子に先立たれ、王位を継ぐ実子がいませんでした。中宗の後宮の子・徳興君の息子(甥にあたる河城君)を後継者に指名しました。これが第14代・宣祖です(明宗の養子として即位)。※宣祖は朝鮮王朝で初めて傍系から即位した国王です。
ただし、士林派の天下は平穏には向かいませんでした。今度は彼ら自身が東人・西人に割れ、やがて南人・北人・老論・少論へ——終わりのない「党争(朋党政治)」の始まりです。
次の宣祖の時代、内で党争が渦巻くさなか、外からは海を越えて未曾有の戦乱が迫っていました。宮廷の権力争いと、国の存亡を賭けた戦——朝鮮王朝は、いよいよ激動の時代へ突入します。
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タイムライン(時系列を追う)
| 1506年 | 中宗即位 中宗反正で燕山君廃位。端敬王后も7日後に廃位 |
| 1515年頃 | チャングム(大長今)登場 章敬王后のお産に立ち会った記録が中宗実録に初登場 |
| 1519年 | ③己卯士禍 趙光祖一派が勲旧派に粛清される(四大士禍の3つ目) |
| 1515年 | 章敬王后 産後に崩御 第12代仁宗の母。産後すぐに亡くなる |
| 1544年 | 中宗 崩御(在位38年・享年56歳)。チャングムが最後まで側に付き添った記録あり |
| 1544年 | 第12代仁宗即位 病弱で在位わずか8か月で崩御(享年30歳)。章敬王后の子 |
| 1545年 | 第13代明宗即位・④乙巳士禍 文定王后が摂政。尹元衡が反対勢力を粛清(四大士禍の4つ目・最後) |
| 1565年 | 文定王后 崩御 尹元衡追放。士林派が政権を掌握 |
| 1567年 | 第14代宣祖即位 明宗に世継ぎなく、養子となり即位。朋党政治の時代へ |
