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難波宮とは?前期と後期の違いをわかりやすく|孝徳天皇と聖武天皇の2つの都

大阪城のすぐ南、NHK大阪放送会館や大阪歴史博物館のとなりに、広い芝生の公園があります。
ここは、1300年以上前に「都」があった場所。
しかも、都が置かれたのは1回ではなく2回です。

この記事では、「難波宮(なにわのみや)」を、ざっくり3分でつかめるように整理しました。
大阪歴史博物館や難波宮跡公園に行く前の予習にどうぞ😊

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3分でわかる難波宮:大阪に都が2回あった

難波宮は、ひとことで言うと次の2つです。

  • 前期難波宮:大化の改新のあと、孝徳天皇がつくった「改革の都」
  • 後期難波宮:奈良時代に、聖武天皇が建て直した「もうひとつの都」

同じ場所に、約80年の時間差で、2つの都が重なって建てられました。

前期難波宮後期難波宮
時代飛鳥時代(7世紀なかば)奈良時代(8世紀前半)
天皇孝徳天皇聖武天皇
別名難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)
建物柱を地面に埋める「掘立柱」、瓦なし石の上に柱を立てる「礎石建ち」、瓦ぶき
役割新しい政治を見せる本拠地平城京とならぶ「副都」
その後686年に火事で焼失長岡京へ移るときに建物が運ばれる

💡 例えるなら…
前期は「改革のために建てた新本社」、後期は「本社(平城京)とは別に構えた大型の支社」のようなイメージです。

なぜ大阪だったの?「海の玄関口」という立地

古代の大阪は、今とはまったく違う景色でした。

今の大阪平野の多くは海や湖で、上町台地(うえまちだいち)だけが、南から北へ細長く突き出した「陸の半島」のようになっていました。
難波宮は、その台地の北の先っぽ
に建てられています。

台地のふもとには「難波津(なにわづ)」という港がありました。

  • 瀬戸内海を通ってきた船が、最初に着く港
  • 朝鮮半島や中国からの使節が、上陸する場所
  • 遣隋使・遣唐使が、出発していく場所

💡 例えるなら…
難波は、古代日本の「国際空港+港」。外国のお客さまを最初に迎える、国の玄関でした。

玄関に立派な建物があれば、外国の使節に「日本はこんな国ですよ」と見せつけることができます。
都をここに置いた理由のひとつは、そこにあったと考えられています。

📍コラム:千里丘陵から、都へ水を引いた一族

平安時代初めにまとめられた氏族の名簿『新撰姓氏録』には、こんな話が残っています。

孝徳天皇のころ、日照りで水が足りなくなったとき、阿利真公(ありまのきみ)という人物が、垂水岡(いまの吹田市垂水)から難波長柄豊碕宮まで、高い木の樋(とい)で水を引いた――。
この功績で「垂水公(たるみのきみ)」の姓をもらったと伝えられています。

淀川をはさんだ北の丘から見れば、湿地に浮かぶ上町台地の宮は、まるで島の上のお城のように見えたかもしれません。

👉 垂水と難波の関係は、こちらの記事でくわしく書いています

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前期難波宮:大化の改新と孝徳天皇の都

645年、都が飛鳥から難波へ

645年、飛鳥で乙巳の変(いっしのへん)が起こり、権力をにぎっていた蘇我氏の本家が滅びました。
そのあと即位した孝徳天皇
は、同じ年のうちに都を難波へ移します。

翌646年には、新しい政治の方針「改新の詔(かいしんのみことのり)」が出されました。
土地や人を豪族ではなく国が治める、という大改革の宣言です。

当時としては破格の大きさ

発掘でわかった前期難波宮は、それまでの宮とくらべてけた違いの規模でした。
役人たちが集まって政治をおこなう広い区画が、きっちりと左右対称に配置されています。

💡 例えるなら…
小さな事務所で仕事をしていた会社が、いきなり大企業並みの本社ビルを建てたようなもの。
「これからは国のしくみで政治をするぞ」という決意を、建物の形で見せたのです。

ひとり難波に残された天皇

ところが653年、中大兄皇子(のちの天智天皇)は「飛鳥に戻りたい」と申し出ます。
孝徳天皇が許さないと、中大兄皇子は、皇極上皇(孝徳天皇の姉)や、孝徳天皇の皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ)まで連れて、飛鳥へ戻ってしまいました。

翌654年、孝徳天皇は難波宮でひとり亡くなります。
改革の都は、ちょっと切ない結末を迎えたのでした。

その後の前期難波宮

都が飛鳥に戻ったあとも、難波宮の建物は残されていました。
天武天皇の時代には「都は一か所ではなく、2〜3か所つくる。まず難波に」という方針も出されています。

しかし686年、火事で焼失してしまいます。

👉 飛鳥時代の流れ(蘇我氏・中大兄皇子・天皇家の系図)は、こちらで整理しています

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後期難波宮:聖武天皇と「副都」の時代

焼け跡の上に、瓦の都を

焼失から約40年後の726年、聖武天皇は難波宮の建て直しを始めます。
工事の責任者に任じられたのは、藤原四兄弟のひとり・藤原宇合(うまかい)でした。

新しい難波宮は、前期とは建て方がまったく違います。

  • 柱を石の上に立てる「礎石建ち」
  • 屋根は瓦ぶき
  • 中心には、天皇が儀式をおこなう「大極殿(だいごくでん)

平城京とならぶ「副都(ふくと)」として整えられました。

都を転々とした聖武天皇

聖武天皇は、740年ごろから恭仁京・紫香楽宮・難波宮と、都を次々に移しました。
744年には、難波宮が正式に都(皇都)とされます。
ただし、それも長くは続かず、翌年には平城京へ戻っています。

長岡京へ引っ越した建物

784年、桓武天皇が都を長岡京へ移すとき、後期難波宮の建物は解体されて運ばれ、再利用されたと考えられています。
長岡京の跡からは、難波宮と同じ種類の瓦が見つかっています。

👉 聖武天皇がなぜ都を転々としたのかは、こちらで

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難波宮はどうやって見つかった?

実は難波宮は、長いあいだ場所がわからない「幻の都」でした。

転機は1950年代。
大阪市法円坂(ほうえんざか)の工事現場付近で、屋根飾りの瓦(鴟尾:しび)のかけらが見つかったことをきっかけに、本格的な発掘が始まりました。

調査が進むと、奈良時代の大極殿の跡が見つかり、さらにその下から、焼けた柱の跡をもつ、もうひとつの宮が出てきました。
これが、686年に焼けた前期難波宮です。

💡 イメージ図

┌────────────────────────────┐
│ 今の地面(難波宮跡公園) │
├────────────────────────────┤
│ 後期難波宮(奈良時代・瓦の都) │
├────────────────────────────┤
│ 前期難波宮(飛鳥時代・焼けた跡) │
└────────────────────────────┘

地面の下に、都がミルフィーユのように重なっているのです。

現地で何を見る?難波宮跡公園と大阪歴史博物館

① 難波宮跡公園:大極殿の「土台」に立つ

公園には、後期難波宮の大極殿の基壇(土台)が復元されています。
上にのぼると、1300年前に天皇が立っていた場所の高さを体感できます。

② 大阪歴史博物館10階:朱色の柱の大極殿

10階の古代フロアには、後期難波宮の大極殿の内部が実物大で再現されています。
朱色の太い柱と、儀式に並ぶ役人たちの人形は必見です。
窓からは難波宮跡公園を見下ろせるので、「さっき歩いたのはあそこか!」と答え合わせができます。

③ 地下の「遺跡探訪」コース

博物館の地下では、発掘された遺構をそのまま見られるコースがあります(無料)。

🆕 今行くならこれ:特集展示「新発見!なにわの考古学2026」

2026年9月9日〜11月23日まで、最新の発掘成果を紹介する特集展示が開催中です。
後期難波宮の瓦も並んでいるので、この記事で「前期は瓦なし、後期は瓦ぶき」を知ってから見ると、ぐっと面白くなります。
常設展示の観覧料で見られます。

まとめ

  • 難波宮は、大阪・上町台地の北端に2回置かれた都
  • 前期:孝徳天皇、大化の改新の「改革の都」。瓦のない掘立柱の建物。686年に焼失
  • 後期:聖武天皇が建て直した「副都」。瓦ぶきの大極殿。長岡京へ建物が運ばれた
  • 難波が選ばれたのは、外国とつながる「海の玄関口」だったから

公園の芝生の下には、2つの都が今も眠っています。
予習してから歩くと、ただの広場が「都の跡」に見えてきますよ😊

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵