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飛鳥時代をわかりやすく|蘇我氏・聖徳太子・大化の改新を系図と表で整理

飛鳥時代は、592年の推古天皇の即位から、710年の平城京遷都までの約120年間です。

法隆寺、聖徳太子、大化の改新。名前は知っているのに、政治の話になると「蘇我なんとか」「なんとか皇子」がたくさん出てきて、誰が誰の味方なのかわからなくなる。そんな時代でもあります。

でも、飛鳥時代の政治は、ひとつの大きな「振れ」で説明できます。
主役が蘇我氏から天皇へ、そして最後に藤原氏へ。これさえつかめば、120年がすっきり一本の流れになります。

この記事では、天皇と豪族の系図政治の主導権の「振り子」の2つを軸に、飛鳥時代をまるごと整理します。

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飛鳥時代はいつからいつまで?

始まり592年 推古天皇が飛鳥の豊浦宮で即位(538年ごろの仏教伝来から数える見方もあります)
終わり710年 平城京に都が移る
長さ約120年
飛鳥を中心に、難波宮・近江大津宮・藤原京と何度も移る

始まりは、推古天皇が飛鳥で即位したとき。
終わりは、元明天皇が藤原京から平城京へ都を移したときです。

このころは天皇が代わるたびに、住まい兼政治の場である「宮」を建て替えるのがふつうでした。天皇が代わっても同じ都を使うようになるのは、694年の藤原京からです。

つまり飛鳥時代は、「飛鳥とそのまわりに都があった時代」
この記事では、その少し前、仏教が伝わった欽明天皇のころから話を始めます。蘇我氏が力をつけたのが、まさにこのころだからです。

飛鳥時代の天皇と蘇我氏を系図で見る

天皇家蘇我氏中臣・藤原氏つなぎ役(点線)夫婦 → 子蘇我氏の娘が天皇家へ嫁いだ線藤原氏の娘蘇我稲目大臣欽明天皇第29代堅塩媛稲目の娘小姉君稲目の娘蘇我馬子大臣敏達天皇第30代推古天皇第33代・女帝用明天皇第31代穴穂部間人皇女聖徳太子の母崇峻天皇第32代刀自古郎女馬子の娘蘇我蝦夷大臣押坂彦人大兄皇子敏達の子聖徳太子厩戸王蘇我入鹿645年に討たれる石川麻呂蘇我倉山田舒明天皇第34代茅渟王皇極・孝徳の父山背大兄王643年に自害皇極・斉明天皇第35・37代・女帝孝徳天皇第36代天武天皇第40代・大海人天智天皇第38代・中大兄遠智娘持統の母姪娘元明の母中臣鎌足のちの藤原鎌足大友皇子弘文天皇持統天皇第41代・女帝元明天皇第43代・女帝藤原不比等鎌足の子草壁皇子即位せず文武天皇第42代藤原宮子不比等の娘聖武天皇(第45代)▼ 奈良時代の系図へつづく

系図の中の、緑の太い線に注目してください。
これは全部、蘇我氏の娘が天皇家に嫁いだ線です。

娘を天皇に嫁がせ、生まれた子が天皇になれば、自分は天皇のおじいちゃん。
会社でいえば、社長の義理の父になって、経営に口を出せる立場になるようなものです。蘇我氏はこれを、稲目・馬子・石川麻呂と、100年近く続けました。

天皇在位どんな人?母は蘇我氏?
29欽明天皇539〜571仏教が伝わる。蘇我稲目の娘2人を妃にする×
30敏達天皇572〜585欽明天皇の子。妻は推古天皇×
31用明天皇585〜587聖徳太子の父
32崇峻天皇587〜592蘇我馬子に暗殺される
33推古天皇(女性)592〜628日本で最初の女性天皇
34舒明天皇629〜641天智天皇・天武天皇の父×
35皇極天皇(女性)642〜645目の前で乙巳の変が起きる×
36孝徳天皇645〜654皇極天皇の弟。都を難波へ移す×
37斉明天皇(女性)655〜661皇極天皇が2度目の即位。百済救援の途中で亡くなる×
38天智天皇668〜671中大兄皇子。661年から即位せずに政治を行う×
40天武天皇673〜686大海人皇子。壬申の乱に勝つ×
41持統天皇(女性)690〜697天智天皇の娘で、天武天皇の妻。藤原京をつくる
42文武天皇697〜707持統天皇の孫。大宝律令ができる×
43元明天皇(女性)707〜715文武天皇の母。平城京へ遷都

※第39代の弘文天皇(大友皇子)は、明治時代になってから天皇に数えられたため、表からは外しています。

この表で注目してほしいのは、いちばん右の列です。

○が前半と最後に固まっています
前半の○は、蘇我氏がいちばん強かった時代。そして最後の○、持統天皇と元明天皇は、645年に蘇我本家が滅びたあとも残った「蘇我の血」です(そのわけは場面2で説明します)。

もうひとつ、女性の天皇が4人(5回の即位)います。
そのうち推古天皇・持統天皇・元明天皇の3人は、母が蘇我氏です。

ひとことで言うと
飛鳥時代は、「蘇我氏が天皇家に入りこみ、その蘇我氏を天皇家がはねのけた」120年でした。

主導権は「振り子」だった──豪族と天皇

飛鳥時代の政治を動かしたのも、天皇だけではありません。
実権をにぎった人たちを、順番に並べてみます。

時期実権をにぎった人豪族?どう終わった?
6世紀半ば〜626蘇我稲目・馬子馬子が亡くなる
626〜645蘇我蝦夷・入鹿乙巳の変で本家が滅びる
645〜671中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足×天智天皇が亡くなる
672〜686天武天皇と皇族たち×天武天皇が亡くなる
686〜697持統天皇×孫の文武天皇に位をゆずる
697〜藤原不比等奈良時代へ続く

○○×××○。
奈良時代は藤原氏とそれ以外が小刻みに交互でしたが、飛鳥時代は一度だけ大きく振れて、また戻ってくる形です。

蘇我氏の側に振れきった振り子が、645年の乙巳の変でガクンと天皇の側へ。
そこから約50年、天皇と皇族が政治の中心にいました。

そして最後に登場するのが、中臣鎌足の息子・藤原不比等です。
不比等は、娘の宮子を文武天皇に嫁がせました。系図の紫の線です。

これは、蘇我氏の緑の線とまったく同じやり方
蘇我氏を倒した鎌足の息子が、蘇我氏と同じ方法で力をつけていく。歴史の皮肉です。

4つの場面で流れをつかむ

120年を4つの場面に分けると、振り子の動きと天皇の交代が重なって見えてきます。

場面1 蘇我氏と聖徳太子の時代(587〜626年ごろ)

天皇:崇峻・推古
主役:蘇我馬子・聖徳太子

仏教を受け入れるかどうかで対立した豪族どうしの争いに、蘇我氏が勝ったところから始まります。

できごと
587蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
592馬子が崇峻天皇を暗殺させる。推古天皇が即位
593聖徳太子が推古天皇を助ける立場になる
596飛鳥寺(法興寺)ができる
603冠位十二階
604十七条憲法
607小野妹子を隋へ送る。法隆寺が建てられたと伝わる
622聖徳太子が亡くなる
626蘇我馬子が亡くなる

天皇を暗殺させても罰せられない。それほど馬子の力は強大でした。

その馬子と並んで政治を進めたのが、聖徳太子です。
系図で見ると、太子は父方・母方の両方から蘇我稲目の血を引いています。つまり蘇我氏の身内でもありました。

なお「聖徳太子」は亡くなったあとに広まった呼び名で、生きていたころは厩戸王(うまやとおう)などと呼ばれていたと考えられています。十七条憲法などの業績がどこまで太子本人のものかについても、研究者のあいだで議論があります。

法隆寺は、この太子が建てたと伝わるお寺です。
『日本書紀』には670年に焼けたという記録があり、いまの西院伽藍はそのあと建て直されたとする見方が有力です。それでも、現存する世界最古級の木造建築であることに変わりはありません。

場面2 蘇我本家が滅びる(626〜649年)

天皇:舒明・皇極・孝徳
主役:蘇我蝦夷・入鹿 → 中大兄皇子・中臣鎌足

できごと
629舒明天皇が即位
643蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、一家が自害
645乙巳の変。入鹿が宮中で討たれ、翌日に父の蝦夷も自害。孝徳天皇が即位
646改新の詔が出される
649蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いをかけられ自害

馬子の子・蝦夷と、孫・入鹿の時代、蘇我氏はさらに強くなります。
聖徳太子の息子・山背大兄王の一家を滅ぼしたことで、まわりの反発は決定的になりました。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、皇極天皇の目の前で入鹿を斬ります。
これが乙巳の変です。

ただし、蘇我氏がまるごと消えたわけではありません。中大兄の側についた蘇我一族もいました。そのひとりが蘇我倉山田石川麻呂で、娘たちを中大兄に嫁がせています。

ところが649年、石川麻呂は謀反の疑いをかけられて自害します。
『日本書紀』には、中大兄の妃だった石川麻呂の娘が、悲しみのあまり亡くなったとも書かれています。この妃を、持統天皇の母・遠智娘と同じ人とみる説が有力です。

もしそうなら持統天皇は、数え5歳で祖父と母を失ったことになります。
そして持統天皇と、異母妹の元明天皇(母は石川麻呂のもうひとりの娘・姪娘)を通じて、蘇我の血は奈良時代の天皇たちへと流れていきます

学校で習った「大化の改新」は、乙巳の変のあとに進められた改革のことです。
ただし、646年に出されたという「改新の詔」の文章は、そのまま当時のものではないと考えられています。藤原京の跡から見つかった木簡では、地方の単位が「評(こおり)」と書かれていて、詔にある「郡」は、のちの大宝律令の言葉で書き直されたものとわかったからです。

場面3 白村江の戦い(660〜671年)

天皇:斉明・天智
主役:中大兄皇子(天智天皇)

できごと
660百済が唐と新羅に滅ぼされる
661百済を助けるため九州へ向かった斉明天皇が亡くなる
663白村江の戦い。倭の軍が唐・新羅の連合軍に大敗
664〜665九州に水城や大野城などの守りをつくる
667都を近江大津宮へ移す
668中大兄皇子が即位(天智天皇)
671天智天皇が亡くなる

百済は、倭(日本)と長くつきあってきた朝鮮半島の国です。
その百済が滅びると、中大兄皇子は百済を立て直すために大軍を送りました。

結果は大敗。今度は唐と新羅が攻めてくるかもしれない。
中大兄は九州に守りの城を築き、都を内陸の近江へ移します。

たとえるなら、長年の親友の家を助けに行って返り討ちにあい、あわてて自分の家の戸締まりを固めたようなもの。
この「外からの危機」が、国をひとつにまとめる仕組みづくりを一気に進めるきっかけになりました。

場面4 壬申の乱と天皇の時代(672〜710年)

天皇:天武・持統・文武・元明
主役:天武天皇・持統天皇 → 藤原不比等

できごと
672壬申の乱。大海人皇子が大友皇子に勝つ
673大海人皇子が即位(天武天皇)
681国の歴史書づくりを命じる(のちの『日本書紀』につながる)
686天武天皇が亡くなる
690持統天皇が即位
694藤原京に遷都
697文武天皇が即位。藤原不比等の娘・宮子が嫁ぐ
701大宝律令ができる
707元明天皇が即位
710平城京に遷都

天智天皇が亡くなると、息子の大友皇子と、弟の大海人皇子が争います。
古代最大の内乱、壬申の乱です。

勝った大海人皇子は天武天皇となり、大臣を置かず、皇族を中心に政治を動かしました。振り子が天皇の側にいちばん大きく振れた時代です。「天皇」という呼び名が使われるようになったのも、このころと考えられています。

天武天皇のあとを継いだのは、妻の持統天皇。
本当は息子の草壁皇子に継がせるつもりでしたが、草壁皇子は即位する前に亡くなってしまいます。持統天皇は自分が天皇となり、孫の文武天皇が育つのを待ちました。

奈良時代の系図が「天智系」と「天武系」から始まるのは、この兄弟の争いがあったからです。
そして文武天皇に娘を嫁がせた藤原不比等が、次の時代の主役になっていきます。

飛鳥時代はなぜ終わったのか

710年、元明天皇は藤原京を離れ、平城京へ都を移します。理由は、ひとつではありません。

ひとつは、大宝律令にふさわしい都が必要になったため。法律で国を動かすには、たくさんの役人が働く大きな都が必要でした。
もうひとつは、唐の都・長安の姿が伝わったため。702年、約30年ぶりに唐へ渡った遣唐使は、藤原京とはまるで違う都のつくりを持ち帰ったと考えられています。

こうして、飛鳥のまわりを転々とした都は奈良の平城京に落ち着き、飛鳥時代は幕を下ろします。

百済から来た人たちが、国づくりを支えた

最後に、ひとつおまけの話を。

白村江の戦いのあと、たくさんの百済の人々が日本へ逃れてきました。
九州の大野城などの山城は、百済から来た人たちの指導でつくられたと『日本書紀』に書かれています。

百済の王族・善光(ぜんこう)は日本にとどまり、持統天皇から「百済王(くだらのこにきし)」という姓をさずけられます。
そしてその曾孫・百済王敬福は、奈良時代に陸奥国で金を見つけ、聖武天皇の大仏づくりに献上しました。

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