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朝鮮半島の仏教美術の見分け方──三国・統一新羅・高麗

博物館で「朝鮮半島の仏教美術」と書かれた一角に来ると、正直、足が止まりにくい場所です。

金の冠や馬具のような派手さがない。似たような金色の小さな仏像が並んでいて、キャプションには「三国時代」「統一新羅時代」と、聞き慣れない時代名が書いてある。

見分け方は、実はそんなに難しくありません。顔つき・瓦の模様・鐘の龍の数。この3つだけで、かなりのところまで読めるようになります。

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まず「届いた順番」だけ覚える

仏教は中国から半島へ、半島から日本へと伝わりました。その順番だけ、表で押さえてしまいます。

どこへどこから
372年高句麗前秦(五胡十六国時代・北の王朝)から僧・順道
384年百済東晋(中国の南の王朝)から僧・摩羅難陀
527年新羅(国として公認)半島の内側から。伝わったのは5世紀
538年倭(日本)百済の聖明王から

ここで一つ、面白い違いがあります。

高句麗と百済では、仕入れ先の中国が違う

高句麗は陸続きの北。百済は海を渡った南。同じ「中国」でも、当時の中国は南北に分かれていて、仏像の作り方も好みも違っていました。

たとえるなら、同じパンでもフランスから習った店とドイツから習った店があるようなものです。どちらもパンですが、焼き上がりが違う。半島の最初期の仏像も、南北で顔つきが少し違います。

新羅527年、倭538年──たった11年差

もう一つ、表を眺めていると気づくことがあります。

新羅が仏教を国として認めたのが527年。倭に伝わったのが538年。わずか11年しか違いません。

新羅だけ、伝来と公認のあいだが100年近く空いています。仏教が民間に先に染み込み、それを貴族が押しとどめていたためです。日本でも蘇我氏と物部氏が争いました。新しい信仰の受け入れは、政治問題だったわけです。

そして加耶(伽耶)は、この表に名前がありません。仏教国家になる前に、新羅に飲み込まれてしまったからです。

仏像は「顔」で時代がわかる

ここが本題です。金色の小さな仏像がずらりと並んでいても、顔と体つきを見れば、だいたいの時代がわかります。

時代顔と体つきひとことで言うと
三国時代(6〜7世紀)面長。口元にうっすら笑み。体は板のように平ら。背中の光背が大きい微笑んで、薄い
統一新羅(8世紀)丸顔。肉づきがよく、腰をひねって立体的むっちり、立体的
高麗(10〜14世紀)ふたたび面長に。装飾が細かく、線が神経質細くて、飾りが多い

覚え方はこうです。

薄い → ふくらむ → また細くなる。

三国時代の仏像は、正面から見ると微笑んでいるのに、横から見ると驚くほど薄い。まだ「彫刻」というより「金属の板を曲げたもの」に近いのです。

それが統一新羅になると、急に肉がつきます。これは唐(中国)の影響です。唐の仏像はふっくらして立体的で、半島もそれに揃えました。

高麗になると、また細くなり、そのかわり装飾が増えます。

💡ひとつ補足を。
半島の仏像が日本の「上流」だったのは、三国時代までです。 7世紀後半に日本が遣唐使で唐と直接つながると、統一新羅と奈良時代の日本は、同じ唐を手本にする横並びの関係になります。統一新羅の仏像がふっくらするのも、奈良の仏像がふっくらするのも、原因は同じ唐です。

「薄い」を、実物で確かめる

中尊と2体の脇侍が1枚の光背の中に収まる、三国時代の小さな金銅の三尊像
如来及び両脇侍像 朝鮮半島 三国時代・7世紀 銅造鍍金(東京国立博物館/筆者撮影)

手のひらに乗るほどの小さな像です。中尊の左右に脇侍が立ち、3体まとめて1枚の光背の中に収まっています

この形式を一光三尊像(いっこうさんぞんぞう)といいます。光背は上部を失っていますが、もとは舟形光背と呼ばれる大きなものだったはずです。

そして、ここが日本とつながります。

一光三尊という形式は、日本の飛鳥時代、止利様式の仏像でも採用されています。

法隆寺の釈迦三尊像を思い浮かべてください。中尊と両脇侍が、1枚の大きな光背の前に並んでいます。あれと同じ設計です。

衣の着方にも道すじが残っています。大衣を右肩から左前腕部にかけるこの着方は、中国の南北朝時代に源流が求められるものです。

中国の南北朝 → 半島の三国時代 → 日本の飛鳥。1体の小さな仏像に、3つの土地が入っています。

半跏思惟像は、立ち止まってください

もし展示ケースの中に半跏思惟像があったら、そこで時間を使う価値があります。

踏み下げた左足の上に右足をのせ、右手の指をそっと頬に添えた姿。考えごとをしているような姿勢です。

左足の上に右足をのせ、右手を頬に添えて考えこむ姿の金銅の菩薩半跏像
菩薩半跏像 朝鮮半島 三国時代・7世紀 銅造鍍金(東京国立博物館/筆者撮影)──京都・広隆寺の宝冠弥勒、奈良・中宮寺の菩薩半跏像と見比べてみてください

ほっそりとしたプロポーションと、やや角ばった体つき。これが7世紀の朝鮮半島の仏像に見られる特徴です。さきほどの「薄い」が、ここにも出ています。

そして、この姿。

京都・広隆寺の宝冠弥勒、奈良・中宮寺の菩薩半跏像とそっくりなのです。

ちなみに広隆寺の宝冠弥勒には、アカマツの一木造りという特徴があります。当時の日本の仏像はクスノキが主流で、アカマツは朝鮮半島でよく使われた材でした。このため「新羅から贈られたものではないか」という説が有力です。ただし日本にもアカマツはあるため、渡来した工人が日本で彫ったという見方もあり、決着はしていません。中宮寺のほうはクスノキで、日本製とされています。

では、なぜ似ているのか。

この姿が表しているのは弥勒菩薩です。はるか未来に現れて人々を救うとされる「次の仏」で、それまでは天上でずっと考えごとをして待っている。その「待機中の思索」が、頬に指を当てた姿になりました。

この形が流行したのは、中国の南北朝時代です。それが半島を経て日本に届きました。6〜7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅のいずれにおいても半跏思惟像が盛んに作られています。

広隆寺も中宮寺も、半島の半跏思惟像も、どれも7世紀前半のもの。唐の建国が618年ですから、これは唐の様式ではありません。 唐より前の南北朝時代の流行から生まれた兄弟です。

とくに盛んに作られたのが新羅でした。新羅には花郎(ファラン)という青年貴族の集団があり、弥勒の化身とみなされていました。深く思索にふける優美な半跏思惟像は、その花郎たちのイメージと重なっていたと考えられています。仏像が、理想の若者の姿でもあったわけです。

瓦は「花びらの太さ」で見る

仏像の隣に、瓦や塼(せん=焼きレンガ)が並んでいることがあります。地味に見えますが、ここも読めます。

見るのは軒丸瓦(のきまるがわら)の模様、屋根の先端に来る丸い瓦です。

模様時代の目安
花びらが太く、少ない。素朴古い(三国時代・飛鳥)
唐草や花模様がびっしり詰まっている新しい(統一新羅・奈良以降)

つまり、素朴なら古い、賑やかなら新しい。

統一新羅の時代になると、軒丸瓦だけでなく、その間をつなぐ軒平瓦にも文様が入るようになります。鳥、獅子、麒麟。屋根の先端そのものが飾りの場になっていきました。

そして日本の話につながります。奈良の飛鳥寺や大阪の四天王寺の瓦は、この「太い花びら」のタイプです。

それもそのはずで、『日本書紀』には588年、百済から瓦の技術者が送られてきたと書かれています。寺を建てる大工と一緒に、瓦を焼く専門家が海を渡ってきた。

日本最初の本格的な寺の屋根は、百済の職人が葺いたものだったわけです。

鬼瓦は、東アジアの最新流行だった

瓦のケースで、いちばん目を引くのがこれです。

目を見開き口を開けて威嚇する、統一新羅時代の土製の鬼瓦
鬼瓦 伝・韓国 慶州の寺院跡出土 統一新羅時代・7〜8世紀 土製(東京国立博物館/筆者撮影)

目を大きく見開き、口を開けて威嚇しています。日本の鬼瓦とよく似た表情ですね。

細かく見ると、決まりごとがあります。

  • ——目と口の間から派生して庇(ひさし)をなし、上または下へ強く屈曲する
  • ——2股に分かれている

これらの特徴は、隋唐時代の鬼の造形にも通じます。つまりこの鬼瓦は、当時の東アジアにおける最新の意匠でした。田舎びた土着の顔ではなく、流行の先端だったわけです。

唐から新羅へ、そして日本へ。屋根の上の鬼にも、同じ道すじが通っています。

レンガで塔を建てた──百済にない技法

もう1点、見落としやすいものがあります。(せん)、焼きレンガです。

雲の上に建つ楼閣が浮き彫りされた、統一新羅時代の土製の塼
雲上殿堂文塼 韓国・慶山市 中山洞の寺院跡出土 統一新羅時代・7〜8世紀 土製(東京国立博物館/筆者撮影)

雲の上に、屋根の反った建物が浮かんでいます。雲上殿堂文塼という名前のとおりです。

これは飾りの板ではありません。塼を積み上げて築く塔、塼塔(せんとう)の一部です。慶州と隣接する清道に、文様のよく似た塼を使った塔が残っていることから、用途が明らかになりました。

そして、ここに大事な一文があります。

塼塔は、新羅に造塔技術を伝えた百済にはみられない技法です。

塔の建て方を教えたのは百済でした。ところが新羅は、教えた側が持っていなかった建て方を生み出しています。新羅独自の仏塔造営の展開を示すもの、と説明されています。

この記事の前半で、百済から日本へ瓦の技術者が渡ったと書きました。技術は百済から周囲へ流れていった。けれど、受け取った側がそこで止まったわけではないのです。

梵鐘は「龍が1匹なら朝鮮鐘」

朝鮮の鐘と日本の鐘は、遠目でも一発で見分けられます。

覚え方は一つだけで足ります。

龍が1匹で、そのとなりに筒が立っていたら朝鮮鐘。

吊り手に龍が1匹と細い筒が立つ、高麗時代の青銅の小さな梵鐘
梵鐘 朝鮮半島 高麗時代・13〜14世紀 青銅(東京国立博物館/筆者撮影)

吊り手を見てください。龍が1匹。そしてそのとなりに、細い筒が立っています。

日本の鐘は、龍が2匹で背中合わせになっています。筒はありません。

ちなみに中国の鐘も龍は1匹ですが、筒はなく、鐘の口が波打っていることが多い。

つまり、

  • 龍1匹+筒あり → 朝鮮
  • 龍1匹+口が波打つ → 中国
  • 龍2匹 → 日本

これを知っていると、お寺に行くたびに鐘を見上げてしまうようになります。実際、日本のお寺にも朝鮮鐘が伝わっているところがあり、「あれ、龍が1匹だ」と気づく瞬間があります

鐘の吊り手にいるのは蒲牢(ほろう)という龍の子。大声で鳴くとされ、鐘にふさわしいと考えられました。朝鮮と中国は伝承どおり1匹、日本は吊ったときの安定を優先して2匹にしたと考えられています。
となりの筒が何なのかは、実ははっきりしていません。

銘があっても、年が決まらないことがある

この鐘には、もうひとつ面白いところがあります。

中央に「癸酉」(きゆう)という銘が入っています。文字が刻まれているのだから、年代が分かりそうなものです。

ところが、決まりません。

干支は60年で一巡します。だから癸酉だけでは、1273年か1333年かを絞りきれない。装飾や仏像の作りから高麗後期であることは確かなのですが、そのどちらであるかは、まだ分かっていません。

展示の解説が「分かりません」と正直に書いている。こういう一文に出会うと、私はむしろ嬉しくなります。分からないことを分からないまま置いておくのが、いちばん誠実な展示だと思うからです。

展示ケースの前で見るチェックリスト

まとめると、この一角では次の順番で見ていけば迷いません。

見るもの何を確認するか
金銅仏顔は面長か丸顔か。横から見て薄いか厚いか
三尊像1枚の光背に3体が収まっていないか(一光三尊)
半跏思惟像あれば最優先。広隆寺・中宮寺を思い出しながら
花びらが太いか、模様がびっしりか。鬼瓦の角は2股か
塼(レンガ)建物や仏が彫ってあれば、塔の部品かもしれない
梵鐘・仏具龍は何匹か。となりに筒はあるか

そしてキャプションの時代名は、頭の中でこう変換します。

半島の時代だいたい同じ頃の日本
三国時代古墳〜飛鳥
統一新羅奈良〜平安のはじめ
高麗平安後期〜鎌倉・南北朝
朝鮮王朝室町〜江戸

「統一新羅時代」と書いてあったら「あ、日本は奈良か」。この変換ができるだけで、展示室の時間の流れが体に入ってきます。

おわりに

朝鮮半島の仏教美術は、日本の仏像を見るための「前の章」です。

知識ゼロからの仏像入門——お寺めぐりが10倍おもしろくなる3つの視点お寺や博物館で仏像の前に立って、「立派だなあ」で終わってしまう。ありがたい気持ちにはなるけれど、それ以上進めない。 でも、見るポイントを知っているだけで、目の前…

薄くて微笑んでいる三国時代の仏像を見てから、日本の飛鳥仏を見る。花びらの太い瓦を見てから、飛鳥寺の瓦を見る。龍が1匹の鐘を見てから、お寺の鐘を見上げる。

順番を守って見るだけで、同じ展示がまったく違って見えてきます。

ただ、「前の章」という言い方だけでは足りません。半島は、通り道ではありませんでした。

百済が伝えた造塔技術から、百済にない塼塔が生まれる。中国由来の半跏思惟像が、新羅では花郎という若者たちの理想の姿になる。受け取ったものを、その土地なりに作り替えている。

それは、飛鳥の日本がやったことと同じです。

派手さのない一角ですが、ここを飛ばしてしまうのは、少しもったいない場所です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵