好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

日本のやきもの2000年・磁器400年──有田焼を生んだ、朝鮮陶工の技術

博物館のやきものの部屋は、正直むずかしい。

「青磁」「白磁」「炻器」「施釉陶器」。キャプションを読んでも、目の前のものとどうつながるのか分からないまま通り過ぎてしまう。でも、ひとつだけ物差しを持って入ると景色が変わります。

日本のやきものは、2000年のあいだに2回だけ大きく跳んでいる。
そしてその2回とも、跳ばせたのは朝鮮半島から渡ってきた人たちだった。

1回目が5世紀の須恵器。2回目が17世紀の磁器です。この記事では、その2回を軸にして日本のやきもの全体を整理します。

AD – 読み進める前のひとやすみ

やきものは4種類しかない

原料焼く温度の目安釉薬水を通すか身近な例
土器粘土700〜900℃なし通す素焼きの植木鉢
炻器(せっき)粘土1100〜1300℃なしほぼ通さない備前焼の花入
陶器陶土(粘土)1100〜1250℃あり釉で止める萩焼の湯呑み
磁器陶石(石)1250〜1400℃あり通さない白いコーヒーカップ

※温度は資料によって幅があります。目安として見てください。

いちばん大きな境目は、土器と磁器のあいだではありません。陶器と磁器のあいだです。

  • 陶器は「をこねて焼く」
  • 磁器は「を粉にして、練って焼く」

原料からして別物なんです。だから磁器は硬く、薄く、水を通さず、光にかざすと透ける。

業界では陶器を「土もの」、磁器を「石もの」と呼び分けます。

見分け方

  • 光を透かす → 透けたら磁器
  • 高台(底の輪っか)を見る → 白く硬そうなら磁器、茶色くざらついていれば陶器
  • 縁の欠け → 陶器はぼろっと、磁器はシャープに欠ける

日本のやきもの2000年を5段階で

物差しは「何を足したか」です。

段階時期足したもの代表
① 焼くだけ縄文〜古墳縄文土器、埴輪
窯と轆轤5世紀1回目のジャンプ須恵器

a 釉薬を輸入する
8〜11世紀唐の真似奈良三彩、緑釉・灰釉

b 釉薬から離れる
12〜16世紀焼き締め六古窯(瀬戸のみ施釉)
④ 価値16世紀見る目楽、志野、織部
磁器17世紀2回目のジャンプ有田焼

②と⑤が、この記事の主役です。

② 1回目のジャンプ ── 5世紀の須恵器

それまでの日本のやきものは、地面に穴を掘って薪をくべる「野焼き」で作られていました。焚き火と同じです。温度は800℃くらいまでしか上がらない。

その「それまで」が、これです。

古墳時代の小型土師器 甕・甑・羽釜・カマドのミニチュア(東京国立博物館蔵)
小型の甕とカマド。奈良県葛城市・長迫出土、古墳時代5〜6世紀の土師器。副葬用のミニチュアです(東京国立博物館・筆者撮影)

土師器(はじき)といいます。赤茶けた色。厚みがあり、表面はざらついています。縄文土器から続く、野焼きの延長線上にあるやきものです。

そこへ5世紀、朝鮮半島南部から2つの道具が渡ってきます。

窖窯(あながま)
斜面に掘ったトンネル状の窯です。焚き火がオーブンになったと思ってください。熱が逃げないので1100℃を超える。

轆轤(ろくろ)
回転させながら成形する道具。手びねりより速く、薄く、均一に作れます。

この2つで生まれたのが須恵器です。

古墳時代の須恵器 子持脚付壺・広口壺・高杯(東京国立博物館蔵)
須恵器。左が子持脚付壺、中央が広口壺、右が高杯と器台。古墳時代5〜6世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

さっきの写真と、同じ古墳時代です。同じ時代の、同じ日本のやきもの。それがこれだけ違う。

土師器須恵器
赤茶灰色
焼き方野焼き・800℃窖窯・1100℃超
成形手びねり轆轤
鈍い叩くと澄んだ音

写真の左端、子持脚付壺を見てください。脚が高く伸び、透かし穴が並び、肩には小さな壺がいくつも付いています。

これは、手びねりでは作れない形です。回転させながら削り出さないと、こんなに細く、まっすぐには立ちません。

大阪南部の陶邑(すえむら)が最大の生産地で、ここから全国に広がっていきます。

日本のやきものは、ここで初めて「窯」を手に入れた。

技術だけでなく、モノも来ていた

もう一点、見ておきたいものがあります。

対馬 大将軍山古墳出土の把手付広口壺 朝鮮半島製の可能性がある古墳時代の陶質土器(東京国立博物館蔵)
把手付広口壺。長崎県対馬市・大将軍山古墳の箱式石棺から出土。古墳時代4〜5世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

胴に、細かい横線がびっしり入っています。板で叩いて丸く成形した跡です。

解説によれば、この叩き板の文様や耳の形から、朝鮮半島で作られて対馬にもたらされたものである可能性があるとされています。

つまり5世紀前後の日本には、技術だけでなく、半島で焼かれた器そのものも入ってきていたわけです。

この構図は、覚えておいてください。1000年以上あとに、もう一度そっくり同じことが起きます。

③ 釉(うわぐすり)で、近づいたり離れたり

a 釉薬を輸入する

須恵器は、釉をかけません。ところが7世紀ごろ、日本に施釉陶器があらわれます。

飛鳥・奈良時代7世紀の長頸壺と高台付鋺 釉のあるものとないもの(東京国立博物館蔵)
7世紀の長頸壺と高台付鋺。右の壺だけ釉がかかり、首から胴へ流れ落ちています(東京国立博物館・筆者撮影)

3点並んでいますが、右の壺だけが違います。首の下から胴へ、緑がかった筋が何本も垂れている。これが釉です。左の壺と手前の鋺には、かかっていません。そして、まだ狙って止めるところまではいっていない。肩でたまって、そのまま下へ流れてしまっています。

8世紀の奈良三彩は、唐三彩をそのまま写したものでした。ただし用途は寺院や宮廷に限られ、広がらないまま消えていきます。

そして9世紀。愛知県の猿投窯(さなげよう)で、こんなものが焼かれるようになります。

猿投窯の灰釉大壺 平安時代9世紀 肩から流れ落ちる灰釉(東京国立博物館蔵)
灰釉大壺。猿投窯(愛知県)、平安時代・9世紀。肩に垂れた点と、そこから流れ落ちる釉が淡い緑色に発色しています(東京国立博物館・筆者撮影)

解説によれば、猿投窯では9世紀に高火度の灰釉をかけた陶器を作り出していました。植物の灰から作った釉を器の上から注ぎ、高温で土と融合させたものです。

7世紀の壺と見比べてください。200年で、ここまで来ています。肩の張りも、釉の流れ方も、明らかに制御されている。

この段階の日本は、中国に追いつこうとしていました。釉をかけ、色を出し、唐のものに近づける。ところが、このあと方向が変わります。

b 釉薬から離れる ── なぜ壺と甕なのか

中世に残った六古窯(瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前)は、逆を行きます。六つのうち瀬戸を除く五つは、釉をかけません。焼き締めです。

なぜか。理由は、こういうものが日本に入ってきていたからです。

鎌倉市大町から出土した中国製の青磁鉢 南宋〜元時代13〜14世紀(東京国立博物館蔵)
青磁鉢。中国製で、神奈川県鎌倉市大町から出土したもの。鎌倉時代・13〜14世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

中国の青磁が、鎌倉の街から掘り出されています。

つるりとした青緑の釉。日本の窯には、当時これは作れません。高級な食器の市場は、輸入品が押さえていたわけです。

では日本の窯はどこで生きたか。壺・甕・擂鉢です。大きくて、重くて、わざわざ船で運ばれてこない領域。

輸入品が来ない場所で焼いていた。そしてそこで、思いがけないものが生まれます。

信楽焼の自然釉刻文大壺 室町時代15世紀 薪の灰が土と融けた自然釉(東京国立博物館蔵)
自然釉刻文大壺。信楽窯(滋賀県)、室町時代・15世紀。土に含まれた長石が焼くと白く粒立って浮かび上がります(東京国立博物館・筆者撮影)

信楽の大壺です。表面に、緑がかったガラス質の膜がかかっているのが見えます。

これは、人が塗ったものではありません。薪窯で何日も焼くうちに、燃えた灰が器に降り積もり、高温で土と融けてガラスになった。自然釉といいます。猿投の灰釉と、材料は同じ「灰」です。塗ったか、降ってきたかの違いだけ。

釉をかけないと決めた窯で、勝手に釉ができた。しかも赤茶けた土肌に、白い長石の粒がぷつぷつ浮かぶ。

そしてもう一段先へ行くのが、備前です。

備前焼の火襷大壺 安土桃山〜江戸時代 藁を巻いて焼いた緋色の筋(東京国立博物館蔵)
火襷大壺。備前窯(岡山県)、安土桃山〜江戸時代・16〜17世紀。器同士がくっつかないよう藁を巻いて焼いた跡です(東京国立博物館・筆者撮影)

表面に、赤い筋がななめに走っています。

これが火襷(ひだすき)。解説によれば、焼成中に器同士がくっつくのを防ぐため、藁を巻いて焼いた。すると藁のアルカリ分と土が化学変化を起こし、こういう赤い筋になるのだそうです。

釉ですらありません。くっつき防止の作業跡が、そのまま模様になっている。

3枚を並べると、こうなります。

誰が表面に起きたこと
猿投(9世紀)人がかける灰釉が流れて緑に発色
信楽(15世紀)勝手にかかる薪の灰が融けて自然釉に
備前(16世紀)かけない工夫が残る藁の跡が赤い筋に

「釉から離れた」というより、離れた先で別の技を見つけた。この見方をしておくと、次の④の話がまっすぐつながります。

ただし瀬戸だけは、釉をかけ続けた

瀬戸窯の黄釉唐草文四耳壺 南北朝時代14世紀 中国の白磁四耳壺を写した器形(東京国立博物館蔵)
黄釉唐草文四耳壺。瀬戸窯、南北朝時代・14世紀。静岡県沼津市の森町出土(東京国立博物館・筆者撮影)

六古窯で唯一、釉をかけ続けたのが瀬戸です。

解説によれば、中国製の白磁四耳壺は武士のあいだで人気が高く、その写しが作られました。瀬戸ではこの四耳壺が最も重要な形のひとつだったそうです。

胴には、線彫りの唐草文。中国のものに寄せる道を、瀬戸だけが続けていたわけです。

④ 価値が生まれる ── 茶の湯が「ゆがみ」を値打ちに変えた

ここで日本には、他の国にない出来事が起きます。モノより先に、見る目のほうが変わったんです。

削ぎ落とすこと、足りないことを味わうこと——茶の湯の「わび」は、禅が持ち込んだ考え方を、日本人が300年かけて美意識に育てたものでした。茶を最初に持ち帰ったのも、禅僧の栄西です。

もともと日本人も完璧主義だった

室町時代、最高格のやきものは唐物、つまり中国からの渡来品でした。左右対称で、寸分の狂いもない。それが「良いもの」の基準だった。

さきほどの鎌倉の青磁を思い出してください。あれが「上」だったわけです。

ところが16世紀、茶の湯の世界で基準が3段階で変わっていきます。

何をしたか中身代表
仰ぐ中国のものを最上とする天目茶碗、青磁
読み替える朝鮮の日用の器を茶碗に見立てる井戸茶碗
自分で崩すゆがみを設計する楽、志野、織部

読み替える ── 井戸茶碗

高麗茶碗とは、朝鮮半島で焼かれた器のうち、日本の茶人が茶碗として用いたものの総称です。作り方の分類ではなく、日本側から見た使い道の分類。井戸茶碗は、そのなかの一種です。

大井戸茶碗 銘 佐野井戸 朝鮮時代16世紀 梅花皮のある高台(東京国立博物館蔵)
大井戸茶碗 銘「佐野井戸」。朝鮮半島、朝鮮時代・16世紀。かつての所有者にちなむ銘です(東京国立博物館・筆者撮影)

枇杷色の、大ぶりの茶碗です。

解説によれば、この碗は「梅花皮(かいらぎ)」のある高台から素直に立ち上がった形で、胴には轆轤挽き(ろくろびき)の跡が軽く残るとされています。

そして英文の解説には、もう一歩踏み込んだことが書かれていました。1500年代に朝鮮の茶碗が日本の茶人に強く求められたこと。自然で手づくりの見た目が、慎ましさと不完全さの美を感じさせたこと。そして——

表面の細かなひび割れは、釉と土の収縮率が違うために焼成後に生じたものだが、それもまた魅力とされた。

博物館の解説札が、はっきり「これは焼き上がりのズレです」と書いている。そのうえで、それが魅力だと書いている。

産地では日常生活用の雑器または祭器として使われたと推測されています。いずれにせよ、名品として作られたものではない。

その「作りっぱなし」の部分に、日本の茶人が次々と名前をつけていきました。

茶人が呼んだ名前実態
枇杷色(びわいろ)鉄分の多い土がそう発色しただけ
轆轤目(ろくろめ)削って消す手間を省いた跡
竹節高台(たけのふしこうだい)ざっくり削っただけ
梅花皮(かいらぎ)釉が縮んだ失敗

作り手にとっては直す理由のなかった部分が、買い手にとっては見どころになった。

名もない器が、国宝になった

大井戸茶碗 銘 喜左衛門(京都・大徳寺孤篷庵蔵)。朝鮮・李朝時代、16世紀のもので、口径は15.5cm。

慶長のころ大阪の町人・竹田喜左衛門が持っていたのでこの名がつき、本多能登守、松平不昧らの手を渡って江戸後期に大徳寺へ納められました。1933年に重要文化財、1951年に国宝に指定されています。

朝鮮での用途は確定しておらず、作り手の名前も残っていません。分かっているのは、日本で価値がついたということだけです。

ゆがみが、名前になる

もう一碗、見てください。

柿の蔕茶碗 銘 唐衣 朝鮮時代16〜17世紀 口が歪んだ高麗茶碗(東京国立博物館蔵)
柿の蔕茶碗 銘「唐衣」。朝鮮半島、朝鮮時代・16〜17世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

柿の蔕(かきのへた)茶碗といいます。日本で茶碗に見立てられた高麗茶碗の一種です。

解説によれば、濃い茶褐色を帯びた胎で、口は大きく歪んでおり、その侘びた雰囲気が茶人に好まれたのだろう、とされています。

そして名前の由来です。伏せてみると、高台から腰の折れ部分にかけて大きく削られている。その形が柿のへたに似ているから「柿の蔕」

歪んだ口を「侘び」と呼び、雑な削りに「柿の蔕」と名づける。名前をつけた瞬間に、それは欠点ではなくなります。

自分で崩す ── 楽・志野・織部

そして日本は、崩れたものを設計して作り始めます。

  • 楽茶碗(らくちゃわん)… 轆轤を使わず手で捏ねる。黒一色。文様なし
  • 志野(しの)… 日本で初めて白い釉をかけた焼き物。ぼってり厚く、縁に緋色が差す
  • 織部(おりべ)… 器をわざとひしゃげさせ、緑釉を片側だけにかける

楽茶碗は、中国磁器の完全な裏返しです。左右対称にしない、白くしない、絵を描かない。わざと反対をやっている

そしてもうひとつ、③bで見たあの備前が、ここで戻ってきます。

備前焼の反鉢 江戸時代17世紀 黄胡麻と牡丹餅の窯変(東京国立博物館蔵)
反鉢。備前窯、江戸時代・17世紀。丸く抜けた3つの跡が「牡丹餅」です(東京国立博物館・筆者撮影)

17世紀前半の備前焼懐石道具のひとつ。口縁を立ち上げた独創的な形で、解説には茶人の好みが反映されているとあります。

器の表面に注目してください。焼成中に薪の灰が降りかかってできる「黄胡麻(きごま)」と、丸い小物を置いて重ね焼きをした跡の「牡丹餅(ぼたもち)」が、くっきり浮かび上がっています。

窯の中で置いたものの跡に、和菓子の名前がついている。

そして大事なのは、これが狙って起こされていることです。小物を置けば丸い跡が残ると知っていて、置いている。火襷も同じで、藁を巻けば筋が出ると知っていて、巻いている。

③bでは偶然だったものが、④では設計になりました。楽・志野・織部と、まったく同じ発想です。

このあと日本は磁器を手に入れますが、この「ゆがみを愛でる目」は消えずに並走し続けます。ここが日本のやきものの面白いところです。

⑤ 2回目のジャンプ ── 陶工たちが海を渡る

何が起きたか

文禄・慶長の役(1592・1597/韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱)。

朝鮮に出兵した西国の大名たちが、撤退のときに現地の陶工を組織的に連れ帰りました。日本では俗に「やきもの戦争」と呼ばれますが、実態は技術移転ではなく連行です。ここは言葉を選びたいところ。

連れて来られた人たちが、そのまま産地の祖になります。

産地大名陶工その後
有田(佐賀)鍋島直茂李参平ら日本初の磁器
薩摩(鹿児島)島津義弘沈当吉ら苗代川に定着。薩摩焼
(山口)毛利輝元李勺光・李敬高麗茶碗の写しを作る
上野・高取(福岡)細川・黒田尊楷、八山茶陶の産地に
三川内(長崎)松浦巨関平戸焼へ

※唐津だけは事情が違います。倭乱以前から半島系の技術が入っていたとされ、「倭乱で始まった産地」には含めないのが一般的です。

薩摩の陶工たちが住んだ苗代川(現在の日置市美山)では、明治まで朝鮮の姓と祭祀が守り続けられました。司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』の舞台がここです。

何が渡ってきたのか

ここは正確にしておきたいところです。ゼロから入ったのではなく、性能が段違いに上がったというのが実際です。

5世紀に来たもの17世紀に来たもの
窖窯(1室のトンネル)連房式登窯(部屋を連ねる)
轆轤手回しの轆轤蹴轆轤(足で蹴る。速く均一)
原料陶石(石を砕いて磁器の原料に)

決定的だったのは3つめの陶石です。日本にも粘土はどこにでもありましたが、磁器になる石がどこにあるか、誰も知らなかった。

伝承では1616年、李参平が有田の泉山で良質の陶石を発見したとされます。ただし、これは地元の言い伝えに基づく話で、有田町の公式説明も「17世紀初頭、李参平ら」という幅のある書き方をしています。考古学的には1610年代に有田周辺の複数の窯で磁器生産が始まったとされ、李参平は象徴的な代表者と考えるのが実際に近いようです。

初期伊万里 ── 高台が、小さすぎる

1610年代から1630年代の製品を初期伊万里と呼びます。

染付山水図大鉢 初期伊万里 江戸時代17世紀 日本最初期の磁器(東京国立博物館蔵)
染付山水図大鉢。伊万里、江戸時代・17世紀。日本の磁器のもっとも初期の例のひとつです(東京国立博物館・筆者撮影)

解説を読んで、はっとしました。

口縁に対して小さな高台という、典型的な初期伊万里染付大鉢の形。英文には、窯の高温で器が歪むのを防ぐため、あえて狭い高台で作られたとあります。

この形は、デザインではありません。技術がまだ足りなかったことの、正直な記録です。

1250℃を超える温度で焼くと、磁器はへたります。だから接地面を小さくして、歪みを逃がした。

絵のほうも見てください。中国の画風を写した山水図が、器の内側いっぱいに描かれています。ただし、遠近や大小の正確さにはとらわれない、のびやかな描き方です。

手本は中国、腕はまだ追いついていない。それがこの1枚に全部出ています。

初期伊万里に残った「朝鮮の指紋」

もうひとつ、決定的な証拠があります。

砂目積み。窯の中で器同士がくっつかないよう、あいだに砂を挟む技法です。これは中国磁器には見られない、朝鮮独特の技法でした。焼き上がった器の高台には、砂の跡が点々と残る。

——ところで、この「くっつかないようにする工夫が跡になる」という話、さっき出てきました。備前の火襷牡丹餅です。

やっていることは同じなのに、片方は茶人が愛でる景色になり、片方は産地を特定する手がかりになった。同じ「作業の跡」でも、誰が見るかで役割が変わります。

なお、呉須(コバルト)で絵を描く染付の技法のほうは中国由来と考えられています。当時の朝鮮の磁器は、文様のない白磁が主流だったからです。

成形と窯は朝鮮、絵付けは中国、原料は日本の土地。
有田は最初から、三国の混合物として生まれた。

そして世界へ ── 注文主が変わると器が変わる

磁器を持った日本は、あっという間に世界市場に出ます。物差しは「誰のために作ったか」です。

時期注文主作られたもの
1610〜30年代国内初期伊万里。素朴で厚い染付
1640年代国内色絵の獲得
1659〜1690年代オランダ東インド会社柿右衛門様式。余白の美
1690年代〜ヨーロッパの宮殿金襴手。金で埋め尽くす
同時期将軍・大名鍋島。売らない磁器

中国が止まり、順番が回ってきた

1644年に明が滅亡。1656年には清が遷界令を出して商船の航行を禁じ、中国磁器の輸出が途絶えます。

ヨーロッパに中国磁器を売っていたオランダ東インド会社は困りました。当時のヨーロッパには磁器を焼く技術がない。磁器は「白い金」と呼ばれる贅沢品でした。

そこで目をつけられたのが有田です。1659年、約56,700個という大量注文が入ります。以後も毎年のように数万個の注文が続きました。

出島を出た船は、バタビア(ジャカルタ)を経てインド洋を渡り、ケープタウンを回って大西洋を北上する。往復に2年近くかかる航海でした。

日本が磁器を焼き始めてから、わずか40年ほどで、有田の皿がアムステルダムに並んだ。

柿右衛門様式 ── 余白が売れた

1670年代、温かみのある乳白色の素地「濁手(にごしで)」に繊細な色絵を施した磁器が柿右衛門窯で生まれます。

色絵花鳥文大深鉢 伊万里 柿右衛門様式 江戸時代17世紀 重要文化財(東京国立博物館蔵)
色絵花鳥文大深鉢。伊万里(柿右衛門様式)、江戸時代・17世紀。重要文化財(東京国立博物館・筆者撮影)

やや青みを帯びた白色の素地に、赤・緑・黄・群青・黒で、岩に羽を休める2羽の鳥と、大輪の牡丹。

この鉢について、英文の解説にこう書かれていました。輸出向けに作られたと思われるが、日本を出ることはなかった。同種の品の多くは、いま各地のヨーロッパのコレクションにある、と。

ここが面白いところです。

中国(景徳鎮)柿右衛門様式
白の色青みのある冴えた白乳白色の温かい白
構図器面を埋め尽くす余白を大きく残す
配置左右対称非対称

中国磁器の代用品として始まった有田が、途中から朝鮮寄りの感覚で勝負をかけた。そしてそれがヨーロッパで受けたわけです。

柿右衛門様式は好評を博し、後にドイツのマイセン窯、フランスのセーヴル窯、イギリスのチェルシー窯でも倣製品が作られました。ザクセン選帝侯アウグスト強王が伊万里を熱心に集めたのもこの時期です。

鍋島 ── 日本が「官窯」を持った

同じ頃、佐賀藩は売らない磁器を作っていました。大川内山の藩窯で焼かれた鍋島焼です。

青磁染付水車文大皿 鍋島 江戸時代17〜18世紀 規則的に並ぶ水車文(東京国立博物館蔵)
青磁染付水車文大皿。鍋島、江戸時代・17〜18世紀。青磁と染付を組み合わせ、水車と流水を描いています(東京国立博物館・筆者撮影)

水車が、規則正しく並んでいます。青磁の緑と染付の青で流水を表し、そこに水車を配置する。

解説によれば、この律動的な水車と流水の意匠は、夏の宴席に涼を運ぶものだったのだろう、とされています。

井戸茶碗のあとに、これを見てください。同じ国の、同じやきものとは思えないはずです。

鍋島は将軍家や大名への献上専用で、市場には出しません。不出来なものは藩の役人と相談のうえ割り捨てるよう指示が出ていました。売らないから値段がつかず、値段がつかないから採算を無視できる。皿の直径は1尺・7寸・5寸・3寸に規格化され、歪みはそのまま不合格を意味しました。

これは中国の官窯とまったく同じ発想です。日本もまた、相手さえ選べば完璧主義をやる国でした。

ゆがみを許すかどうかは、買い手が決める

ここまでで、同じ日本のやきものに正反対の顔が出てきました。

買い手歪みは
井戸茶碗、楽、志野茶人見どころ
初期伊万里国内の町人気にしない
輸出向け古伊万里オランダ東インド会社ほどほどに
鍋島将軍・大名不合格

並べてみると、歪みへの態度を決めているのは、作り手の美意識ではなく買い手が誰かだと分かります。

  • 売らなくていい相手(将軍)が付けば、失敗作を割って捨てられる
  • 年に数万個さばく相手が付けば、そこそこで通す
  • そして、歪みを見どころとして読める目を持った買い手が付いたときだけ、歪みは価値になる

茶の湯という装置が、「不揃いを読む目」を育てた。
鍋島が寸法を1尺・7寸・5寸・3寸に揃えていた同じ江戸時代に、楽茶碗も萩も唐津も、変わらず作られ続けています。

完璧を作る技術と、完璧を求めない目。この2つを、どちらも捨てずに持ち続けた。

ただし、この「不揃いを読む目」は日本の専売特許ではありません。同じ器が、時代と立場によって、まったく違う名前で呼ばれていきます。

同じ器を、朝鮮では何と呼んだか

「月壺」

18世紀に作られた大きな白い壺。満月のように丸い壺ですが、よく見ると真円ではありません。少しゆがんでいて、胴の真ん中に接いだ跡がうっすら見えます。

これは失敗ではありません。大きすぎて一度に成形できないので、上半分と下半分を別々に作って接いでいるのです。だから完全な丸にならない。そのゆがみごと美しい

ちなみにこの壺が「美しいもの」として扱われるようになったのは、そう古い話ではありません。「月壺(タルハンアリ)」という呼び名がついたのは1950年代とされます。

中国陶磁の、寸分の狂いもない完璧主義とは正反対の価値観です。

そして思い出してください。井戸茶碗も、柿の蔕茶碗も、朝鮮で焼かれたものでした。日本の茶人が「侘び」と呼んだものの実家は、海の向こうにあります。

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博物館での歩き方

東京国立博物館なら、この記事の内容を1日でひととおり見られます。

場所見えるものこの記事の段階
平成館1階 考古縄文土器、弥生土器、土師器と須恵器①②
本館2階 14室「茶の美術」天目、高麗茶碗、楽、志野
本館1階 3室「陶磁」六古窯、桃山、有田、鍋島③⑤
東洋館 3階5室中国陶磁比較用
東洋館 5階10室高麗青磁、粉青沙器、朝鮮白磁比較用

※本館の展示室番号は2026年4月から変更されています(1階は旧11〜19室が1〜9室、2階は旧1〜10室が11〜20室)。やきものは展示替えが多いので、当日の展示内容は公式サイトでご確認ください。

おすすめの見方を、2つだけ。

  • 平成館で、土師器と須恵器を続けて見る。赤茶と灰色。5世紀に何が起きたかが、色だけで分かります
  • 本館2階14室の井戸茶碗を見てから、1階3室の鍋島へ降りる。歪みが見どころだった器と、歪みが不合格だった器。同じ江戸時代です

そしてもう一日ぶんの余力があれば、東洋館5階10室で朝鮮の白磁を見てから、本館1階3室で初期伊万里の高台を見てください。

同じ砂の目跡が、海を渡って残っているのが分かるはずです。

まとめ

  • やきものは土器・炻器・陶器・磁器の4種類。境目は「土か、石か」
  • 日本のやきものは2回跳んだ。5世紀の須恵器17世紀の磁器
  • 2回とも、跳ばせたのは朝鮮半島から渡ってきた人たち
  • 中世は釉から離れたが、その先で自然釉と火襷を見つけた
  • そのあいだに日本は、茶の湯で「ゆがみを価値にする目」を独自に手に入れた
  • 有田は成形が朝鮮、絵付けが中国、原料が日本という混合物として生まれた
  • 磁器を持って40年でヨーロッパに輸出、しかも売れたのは「余白」だった

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵