博物館のやきものの部屋は、正直むずかしい。
「青磁」「白磁」「炻器」「施釉陶器」。キャプションを読んでも、目の前のものとどうつながるのか分からないまま通り過ぎてしまう。でも、ひとつだけ物差しを持って入ると景色が変わります。
日本のやきものは、2000年のあいだに2回だけ大きく跳んでいる。
そしてその2回とも、跳ばせたのは朝鮮半島から渡ってきた人たちだった。
1回目が5世紀の須恵器。2回目が17世紀の磁器です。この記事では、その2回を軸にして日本のやきもの全体を整理します。
やきものは4種類しかない
| 原料 | 焼く温度の目安 | 釉薬 | 水を通すか | 身近な例 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 土器 | 粘土 | 700〜900℃ | なし | 通す | 素焼きの植木鉢 |
| 炻器(せっき) | 粘土 | 1100〜1300℃ | なし | ほぼ通さない | 備前焼の花入 |
| 陶器 | 陶土(粘土) | 1100〜1250℃ | あり | 釉で止める | 萩焼の湯呑み |
| 磁器 | 陶石(石) | 1250〜1400℃ | あり | 通さない | 白いコーヒーカップ |
※温度は資料によって幅があります。目安として見てください。
いちばん大きな境目は、土器と磁器のあいだではありません。陶器と磁器のあいだです。
- 陶器は「土をこねて焼く」
- 磁器は「石を粉にして、練って焼く」
原料からして別物なんです。だから磁器は硬く、薄く、水を通さず、光にかざすと透ける。
業界では陶器を「土もの」、磁器を「石もの」と呼び分けます。
見分け方
- 光を透かす → 透けたら磁器
- 高台(底の輪っか)を見る → 白く硬そうなら磁器、茶色くざらついていれば陶器
- 縁の欠け → 陶器はぼろっと、磁器はシャープに欠ける
日本のやきもの2000年を5段階で
物差しは「何を足したか」です。
| 段階 | 時期 | 足したもの | 代表 |
|---|---|---|---|
| ① 焼くだけ | 縄文〜古墳 | ― | 縄文土器、埴輪 |
| ② 窯と轆轤 | 5世紀 | ← 1回目のジャンプ | 須恵器 |
| ③ a 釉薬を輸入する | 8〜11世紀 | 唐の真似 | 奈良三彩、緑釉・灰釉 |
| ③ b 釉薬から離れる | 12〜16世紀 | 焼き締め | 六古窯(瀬戸のみ施釉) |
| ④ 価値 | 16世紀 | 見る目 | 楽、志野、織部 |
| ⑤ 磁器 | 17世紀 | ← 2回目のジャンプ | 有田焼 |
②と⑤が、この記事の主役です。
② 1回目のジャンプ ── 5世紀の須恵器
それまでの日本のやきものは、地面に穴を掘って薪をくべる「野焼き」で作られていました。焚き火と同じです。温度は800℃くらいまでしか上がらない。
そこへ5世紀、朝鮮半島南部から2つの道具が渡ってきます。
窖窯(あながま)
斜面に掘ったトンネル状の窯です。焚き火がオーブンになったと思ってください。熱が逃げないので1100℃を超える。
轆轤(ろくろ)
回転させながら成形する道具。手びねりより速く、薄く、均一に作れます。
この2つで生まれたのが須恵器。灰色で、硬くて、叩くと澄んだ音がする。それまでの赤茶けた土器とは別世界のものでした。
大阪南部の陶邑(すえむら)が最大の生産地で、ここから全国に広がっていきます。
日本のやきものは、ここで初めて「窯」を手に入れた。
③ 釉(うわぐすり)で、近づいたり離れたり
8世紀の奈良三彩は、唐三彩をそのまま写したものでした。ただし用途は寺院や宮廷に限られ、広がらないまま消えていきます。
中世に残った六古窯は、逆です。六つのうち瀬戸を除く五つは、釉をかけません。焼き締めです。
当時、中国から青磁や白磁が大量に輸入されていて、高級な食器の市場はそちらが押さえていました。日本の窯が生き残ったのは、壺・甕・擂鉢という、大きくて重くて、わざわざ船で運ばれてこない領域です。
輸入品が来ない場所で焼いていた。そしてその土くさい器を、16世紀の茶人が見つけることになります。
室町時代の日本が「唐物」として珍重した器の多くは、宋の時代のものです。
中国陶磁の見分け方|色をどこで出すかで1300年がわかる博物館の中国陶磁の部屋は、たぶん一番くじけやすい場所です。 唐、宋、元、明、清。1300年分のやきものが一列に並んでいて、キャプションには聞いたことのない窯の名…
④ 価値が生まれる ── 茶の湯が「ゆがみ」を値打ちに変えた
ここで日本には、他の国にない出来事が起きます。モノより先に、見る目のほうが変わったんです。
もともと日本人も完璧主義だった
室町時代、最高格のやきものは唐物、つまり中国からの渡来品でした。左右対称で、寸分の狂いもない。それが「良いもの」の基準だった。
ところが16世紀、茶の湯の世界で基準が3段階で変わっていきます。
| 何をしたか | 中身 | 代表 |
|---|---|---|
| 仰ぐ | 中国のものを最上とする | 天目茶碗、青磁 |
| 読み替える | 朝鮮の日用の器を茶碗に見立てる | 井戸茶碗 |
| 自分で崩す | ゆがみを設計する | 楽、志野、織部 |
読み替える ── 井戸茶碗
高麗茶碗とは、朝鮮半島で焼かれた器のうち、日本の茶人が茶碗として用いたものの総称です。作り方の分類ではなく、日本側から見た使い道の分類。井戸茶碗は、そのなかの一種です。
産地では日常生活用の雑器または祭器として使われたと推測されています。いずれにせよ、名品として作られたものではない。
その「作りっぱなし」の部分に、日本の茶人が次々と名前をつけていきました。
| 茶人が呼んだ名前 | 実態 |
|---|---|
| 枇杷色(びわいろ) | 鉄分の多い土がそう発色しただけ |
| 轆轤目(ろくろめ) | 削って消す手間を省いた跡 |
| 竹節高台(たけのふしこうだい) | ざっくり削っただけ |
| 梅花皮(かいらぎ) | 釉が縮んだ失敗 |
作り手にとっては直す理由のなかった部分が、買い手にとっては見どころになった。
名もない器が、国宝になった
大井戸茶碗 銘 喜左衛門(京都・大徳寺孤篷庵蔵)。朝鮮・李朝時代、16世紀のもので、口径は15.5cm。
慶長のころ大阪の町人・竹田喜左衛門が持っていたのでこの名がつき、本多能登守、松平不昧らの手を渡って江戸後期に大徳寺へ納められました。1933年に重要文化財、1951年に国宝に指定されています。
朝鮮での用途は確定しておらず、作り手の名前も残っていません。分かっているのは、日本で価値がついたということだけです。
なお、茶人が見立てた朝鮮の器は井戸茶碗だけではありません。三島・粉引・刷毛目と呼ばれる一群は、朝鮮側では粉青沙器と呼ばれる技法のものです(井戸茶碗は白化粧土を使わないので、粉青沙器には含みません)。
朝鮮では日常の器だった粉青沙器を、16世紀の日本の茶人は、ゆがみやムラ、刷毛の跡まで「景色」として愛でました。
高麗青磁と粉青沙器──日本の茶碗の「実家」をたずねる博物館の朝鮮半島コーナーで、金ぴかの装身具のケースを抜けると、やきものが始まります。 ここは時代の幅がとても広い。原三国時代から朝鮮王朝まで、1500年分が一続…
自分で崩す ── 楽・志野・織部
そして日本は、崩れたものを設計して作り始めます。
- 楽茶碗(らくちゃわん)… 轆轤を使わず手で捏ねる。黒一色。文様なし
- 志野(しの)… 日本で初めて白い釉をかけた焼き物。ぼってり厚く、縁に緋色が差す
- 織部(おりべ)… 器をわざとひしゃげさせ、緑釉を片側だけにかける
楽茶碗は、中国磁器の完全な裏返しです。左右対称にしない、白くしない、絵を描かない。わざと反対をやっている。
このあと日本は磁器を手に入れますが、この「ゆがみを愛でる目」は消えずに並走し続けます。ここが日本のやきものの面白いところです。
⑤ 2回目のジャンプ ── 陶工たちが海を渡る
何が起きたか
文禄・慶長の役(1592・1597/韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱)。
朝鮮に出兵した西国の大名たちが、撤退のときに現地の陶工を組織的に連れ帰りました。日本では俗に「やきもの戦争」と呼ばれますが、実態は技術移転ではなく連行です。ここは言葉を選びたいところ。
連れて来られた人たちが、そのまま産地の祖になります。
| 産地 | 大名 | 陶工 | その後 |
|---|---|---|---|
| 有田(佐賀) | 鍋島直茂 | 李参平ら | 日本初の磁器 |
| 薩摩(鹿児島) | 島津義弘 | 沈当吉ら | 苗代川に定着。薩摩焼 |
| 萩(山口) | 毛利輝元 | 李勺光・李敬 | 高麗茶碗の写しを作る |
| 上野・高取(福岡) | 細川・黒田 | 尊楷、八山 | 茶陶の産地に |
| 三川内(長崎) | 松浦 | 巨関 | 平戸焼へ |
※唐津だけは事情が違います。倭乱以前から半島系の技術が入っていたとされ、「倭乱で始まった産地」には含めないのが一般的です。
薩摩の陶工たちが住んだ苗代川(現在の日置市美山)では、明治まで朝鮮の姓と祭祀が守り続けられました。司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』の舞台がここです。
何が渡ってきたのか
ここは正確にしておきたいところです。ゼロから入ったのではなく、性能が段違いに上がったというのが実際です。
| 5世紀に来たもの | 17世紀に来たもの | |
|---|---|---|
| 窯 | 窖窯(1室のトンネル) | 連房式登窯(部屋を連ねる) |
| 轆轤 | 手回しの轆轤 | 蹴轆轤(足で蹴る。速く均一) |
| 原料 | ― | 陶石(石を砕いて磁器の原料に) |
決定的だったのは3つめの陶石です。日本にも粘土はどこにでもありましたが、磁器になる石がどこにあるか、誰も知らなかった。
伝承では1616年、李参平が有田の泉山で良質の陶石を発見したとされます。ただし、これは地元の言い伝えに基づく話で、有田町の公式説明も「17世紀初頭、李参平ら」という幅のある書き方をしています。考古学的には1610年代に有田周辺の複数の窯で磁器生産が始まったとされ、李参平は象徴的な代表者と考えるのが実際に近いようです。
初期伊万里に残った「朝鮮の指紋」
1610年代から1630年代の製品を初期伊万里と呼びます。生地は厚く、ゆがみや指の跡が残り、絵付けの発色も安定しない。正直、かなり粗いものです。
でもここに決定的な証拠があります。
砂目積み。窯の中で器同士がくっつかないよう、あいだに砂を挟む技法です。これは中国磁器には見られない、朝鮮独特の技法でした。焼き上がった器の高台には、砂の跡が点々と残る。
一方で、呉須(コバルト)で絵を描く染付の技法のほうは中国由来と考えられています。当時の朝鮮の磁器は、文様のない白磁が主流だったからです。
成形と窯は朝鮮、絵付けは中国、原料は日本の土地。
有田は最初から、三国の混合物として生まれた。
そして世界へ ── 注文主が変わると器が変わる
磁器を持った日本は、あっという間に世界市場に出ます。物差しは「誰のために作ったか」です。
| 時期 | 注文主 | 作られたもの |
|---|---|---|
| 1610〜30年代 | 国内 | 初期伊万里。素朴で厚い染付 |
| 1640年代 | 国内 | 色絵の獲得 |
| 1659〜1690年代 | オランダ東インド会社 | 柿右衛門様式。余白の美 |
| 1690年代〜 | ヨーロッパの宮殿 | 金襴手。金で埋め尽くす |
| 同時期 | 将軍・大名 | 鍋島。売らない磁器 |
中国が止まり、順番が回ってきた
1644年に明が滅亡。1656年には清が遷界令を出して商船の航行を禁じ、中国磁器の輸出が途絶えます。
ヨーロッパに中国磁器を売っていたオランダ東インド会社は困りました。当時のヨーロッパには磁器を焼く技術がない。磁器は「白い金」と呼ばれる贅沢品でした。
そこで目をつけられたのが有田です。1659年、約56,700個という大量注文が入ります。以後も毎年のように数万個の注文が続きました。
出島を出た船は、バタビア(ジャカルタ)を経てインド洋を渡り、ケープタウンを回って大西洋を北上する。往復に2年近くかかる航海でした。
日本が磁器を焼き始めてから、わずか40年ほどで、有田の皿がアムステルダムに並んだ。
柿右衛門様式 ── 余白が売れた
1670年代、温かみのある乳白色の素地「濁手(にごしで)」に繊細な色絵を施した磁器が柿右衛門窯で生まれます。
ここが面白いところです。
| 中国(景徳鎮) | 柿右衛門様式 | |
|---|---|---|
| 白の色 | 青みのある冴えた白 | 乳白色の温かい白 |
| 構図 | 器面を埋め尽くす | 余白を大きく残す |
| 配置 | 左右対称 | 非対称 |
中国磁器の代用品として始まった有田が、途中から朝鮮寄りの感覚で勝負をかけた。そしてそれがヨーロッパで受けたわけです。
柿右衛門様式は好評を博し、後にドイツのマイセン窯、フランスのセーヴル窯、イギリスのチェルシー窯でも倣製品が作られました。ザクセン選帝侯アウグスト強王が伊万里を熱心に集めたのもこの時期です。
鍋島 ── 日本が「官窯」を持った
同じ頃、佐賀藩は売らない磁器を作っていました。大川内山の藩窯で焼かれた鍋島焼です。
将軍家や大名への献上専用で、市場には出さない。不出来なものは藩の役人と相談のうえ割り捨てるよう指示が出ていました。売らないから値段がつかず、値段がつかないから採算を無視できる。皿の直径は1尺・7寸・5寸・3寸に規格化され、歪みはそのまま不合格を意味しました。
これは中国の官窯とまったく同じ発想です。日本もまた、相手さえ選べば完璧主義をやる国でした。
ゆがみを許すかどうかは、買い手が決める
ここまでで、同じ日本のやきものに正反対の顔が出てきました。
| 買い手 | 歪みは | |
|---|---|---|
| 井戸茶碗、楽、志野 | 茶人 | 見どころ |
| 初期伊万里 | 国内の町人 | 気にしない |
| 輸出向け古伊万里 | オランダ東インド会社 | ほどほどに |
| 鍋島 | 将軍・大名 | 不合格 |
並べてみると、歪みへの態度を決めているのは、作り手の美意識ではなく買い手が誰かだと分かります。
- 売らなくていい相手(将軍)が付けば、失敗作を割って捨てられる
- 年に数万個さばく相手が付けば、そこそこで通す
- そして、歪みを見どころとして読める目を持った買い手が付いたときだけ、歪みは価値になる
茶の湯という装置が、「不揃いを読む目」を育てた。
鍋島が寸法を1尺・7寸・5寸・3寸に揃えていた同じ江戸時代に、楽茶碗も萩も唐津も、変わらず作られ続けています。
完璧を作る技術と、完璧を求めない目。この2つを、どちらも捨てずに持ち続けた。
ただし、この「不揃いを読む目」は日本の専売特許ではありません。同じ器が、時代と立場によって、まったく違う名前で呼ばれていきます。
同じ壺を、3つの時代が別のものとして見た
最後に、朝鮮の大きな白磁の壺の話をします。
大きすぎて一度に成形できないので、上半分と下半分を別々に作って接ぐ。だから完全な丸にはならず、胴の真ん中に継ぎ目が残る。
この壺が、300年ほどのあいだに3回、見られ方を変えています。
① 18世紀・朝鮮 ── 名前はなかった
もとは王室用の白磁を焼く官窯で作られた大型の壺で、穀物などを入れる実用の器でもありました。特別な呼び名はなく、「白磁の大きな壺」でした。
② 1920〜30年代・日本 ── 「雑器」に目が向く
きっかけは小さな器でした。1914年、朝鮮で教師をしていた浅川伯教が、千葉県我孫子の柳宗悦を訪ねます。このとき手土産に持参したのが、13cmほどの染付の小壺でした。
柳はこの壺に「形の美しさ」を見て、朝鮮の工芸に引き込まれていきます。1916年以降くり返し朝鮮半島へ渡り、1924年には浅川兄弟とともにソウルに朝鮮民族美術館を開きました。柳が向き合ったのは大きな名品ではなく、名もない職人が作った日用品でした。
当時、李朝の陶磁器はほとんど美的価値を認められていません。柳はそこに価値を見た先駆者の一人です。この見方を「用の美」と呼びます。
16世紀に茶人が井戸茶碗にしたことと、構図は似ています。作り手が価値だと思っていなかったものを、外から来た目が持ち上げた。
ただし決定的に違うのは、このとき朝鮮が日本の統治下にあったことです。柳が朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したことについては、支配する側の眼差しだという批判が韓国側にあり、評価は今も割れています。
ただし、この段階でも壺に名前はついていません。名前がつくのは、次の段階です。
③ 1950年代以降・韓国 ── 「月壺」になる
「月壺(タルハンアリ)」という呼び名がついたのは1950年代とされます。解放後、韓国の人々が自分たちの文化を見つめ直すなかで、この壺が注目されるようになりました。画家の金煥基(キム・ファンギ)がくり返し描き、やがて国の美を代表する存在になります。
現在、韓国では複数の月壺が国宝・宝物に指定されています。2018年の平昌オリンピックの聖火台も、この壺から着想を得たものとされます。
同じ壺です。中身は300年変わっていない。
実用の器であり、統治する側が見つけた美であり、そして今は、韓国自身が選んだ自分たちの象徴です。
土と釉と火のことだけではなく、誰がそれを見ていたのかを一緒に見る。やきものを見るというのは、たぶんそういうことなのだと思います。
博物館での歩き方
東京国立博物館なら、この記事の内容を1日でひととおり見られます。
| 場所 | 見えるもの | この記事の段階 |
|---|---|---|
| 平成館1階 考古 | 縄文土器、弥生土器、須恵器 | ①② |
| 本館2階 14室「茶の美術」 | 天目、高麗茶碗、楽、志野 | ④ |
| 本館1階 3室「陶磁」 | 六古窯、桃山、有田、鍋島 | ③⑤ |
| 東洋館 3階5室 | 中国陶磁 | 比較用 |
| 東洋館 5階10室 | 高麗青磁、粉青沙器、朝鮮白磁 | 比較用 |
※本館の展示室番号は2026年4月から変更されています(1階は旧11〜19室が1〜9室、2階は旧1〜10室が11〜20室)。やきものは展示替えが多いので、当日の展示内容は公式サイトでご確認ください。
東洋館5階10室で朝鮮の白磁を見てから、本館1階3室で初期伊万里の高台を見る。
同じ砂の目跡が、海を渡って残っているのが分かるはずです。
まとめ
- やきものは土器・炻器・陶器・磁器の4種類。境目は「土か、石か」
- 日本のやきものは2回跳んだ。5世紀の須恵器と17世紀の磁器
- 2回とも、跳ばせたのは朝鮮半島から渡ってきた人たち
- そのあいだに日本は、茶の湯で「ゆがみを価値にする目」を独自に手に入れた
- 有田は成形が朝鮮、絵付けが中国、原料が日本という混合物として生まれた
- 磁器を持って40年でヨーロッパに輸出、しかも売れたのは「余白」だった
