韓国で歴代興行収入1位になった映画『王と生きる男』。日本では2027年1月8日に公開されます。
「あの村長、本当にいたの?」
「王さまの遺体を川から引き上げた話は本当?」
答えを先に言うと、骨組みは実話、細かい人間ドラマは映画の創作です。この記事では、映画の舞台になった「1457年の4か月」と、その後の「241年」を、史実だけでたどります。
ひと目でわかる「どこまで実話?」早見表
| 映画の場面・設定 | 判定 | 史実では |
|---|---|---|
| 王位を追われた少年王イ・ホンウィ(端宗) | ○ | 朝鮮王朝の第6代王。叔父の首陽大君(世祖)に王位を奪われた |
| 寧越(ヨンウォル)の清泠浦(チョンニョンポ)に流された | ○ | 1457年6月、三方を川に囲まれた清泠浦に送られた |
| 村長オム・フンド | △ | 実在の人物。ただし「村長」ではなく、寧越の役所の地元役人「戸長(ホジャン)」 |
| 村を豊かにするため、流刑地に名乗り出た | × | 映画のオリジナル設定 |
| 川に捨てられた遺体を、フンドが葬った | ○ | 記録と伝承の両方に残る |
| フンドが王の死に手を貸した | × | 作家の想像とされる |
| 粛宗の時代に名誉が回復された | ○ | 1698年、正式に「端宗」として王に戻された |
映画の主人公の名前「イ・ホンウィ(李弘暐)」は、端宗の本名です。「端宗」は亡くなってから241年後に贈られた名前なので、生きていた本人は一度もそう呼ばれていません。映画が本名を使っているのは、そのためです。
① 寧越の4か月|少年王の最後の日々
王さまから「魯山君」へ
端宗(タンジョン)は、ハングルを作った第4代王・世宗(セジョン)の孫にあたります。父の第5代王・文宗(ムンジョン)が即位からわずか2年で亡くなり、満10歳(数え12歳)で第6代王になりました。
ところが、叔父の首陽大君(スヤンデグン)がクーデターで実権を握り、端宗は王位を譲らされます。さらに、端宗を王に戻そうとした計画(死六臣事件)が発覚し、1457年6月に「魯山君(ノサングン)」という王族の位まで格下げされました。
1457年の流れ
| 時期(陰暦) | できごと |
|---|---|
| 6月22日 | 都の景福宮を出発 |
| 6月28日 | 7日かけて寧越の清泠浦に到着 |
| 夏 | 大雨で川があふれ、町の役所の建物「観風軒(クァンプンホン)」に移される |
| 9月 | 別の叔父・錦城大君(クムソンデグン)による復位計画が発覚 |
| 10月 | 魯山君からさらに庶人(ただの平民)へ格下げ |
| 10月24日 | 観風軒で亡くなる。満16歳 |
清泠浦にいたのは、わずか2か月ほどでした。映画の舞台はこの短い期間です。
亡くなり方は、記録によって違う
公式の記録『朝鮮王朝実録』には「自ら首をくくった」と書かれています。一方、ほかの記録では「死を命じる使者の王邦衍(ワン・バンヨン)が言い出せずにいる間に、端宗が弓の弦を首に巻き、そばの者に引かせた」と伝えています。
どちらにしても、王の命令による死(賜死)だったと見るのが一般的です。
② オム・フンドという人|遺体を葬った寧越の役人
「村長」ではなく「戸長」
オム・フンド(嚴興道)は、寧越の役所で働く地元の役人「戸長」でした。戸長は代々受け継がれることが多い職で、フンドの家も祖父・父と続く戸長の家柄です。
戸長は、都から来るお役人(郡守)の下で、地元の実務を取り仕切る役です。たとえるなら「町役場のベテラン課長」。村のまとめ役という意味では、映画の「村長」もそれほど外れてはいません。
清泠浦には今も、フンドが毎日あいさつに通ったと伝わる「オム・フンドの松」があります。
「葬った者は三族を滅ぼす」の中で
端宗が亡くなったあと、世祖は「遺体を葬った者は三族(本人・父方・母方の一族)を滅ぼす」と命じたと伝わります。遺体は寧越の川に捨てられ、誰も近づけませんでした。
そんな中、フンドは2人の息子とともに、夜中にこっそり遺体を引き上げます。そして、自分の一族の山に葬りました。その場所が、今の端宗の墓「荘陵(チャンヌン)」です。
このとき、フンドが言ったと伝わる言葉があります。
「善いことをして災いにあうなら、甘んじて受けよう」
命と家族をかけた、たった一人の決断でした。
埋める場所を探していると、雪の中で一か所だけ雪が溶けている場所があった。大きな鹿が寝そべっていた跡で、そこに墓を作った。子孫に伝わる、こんな言い伝えもあります(史実ではなく伝承です)。
その後のフンド
フンドは寧越にいられなくなり、家族とともに身を隠しました。息子たちは各地に散らばったと伝わります。
フンドの墓は寧越にもありますが、子孫は「本当の墓は大邱の軍威(クニ)にある」としています。
③ 241年後の名誉回復|粛宗が動いた
「魯山君」のまま放っておかれた端宗の墓は、少しずつ見直されていきます。
| 年 | 王 | できごと |
|---|---|---|
| 1516年 | 11代 中宗 | 国が墓を探し出し、盛り土を整える |
| 1580年 | 14代 宣祖 | 墓の前に石の飾りを置き、祭祀を始める |
| 1681年 | 19代 粛宗 | 「魯山大君」に格上げ |
| 1698年 | 19代 粛宗 | 「端宗」の名を贈り、王に戻す。墓は「荘陵」に |
| 1791年 | 22代 正祖 | 荘陵に、端宗のために命を落とした268人を一緒に祀る祭壇(配食壇)をつくる |
亡くなってから241年。 端宗はやっと王に戻りました。
フンドも、のちに讃えられた
| 時代 | フンドへの扱い |
|---|---|
| 18代 顕宗 | 宋時烈(ソン・シヨル)の進言で、子孫が役人に取り立てられる |
| 19代 粛宗 | 寧越の彰節祠(チャンジョルサ)に祀られる |
| 22代 正祖 | 荘陵の配食壇に祀られ、功績をたたえる碑(旌閭)が建つ |
のちに大臣クラスの位(工曹判書)も贈られました。今の荘陵には、フンドをたたえる建物「旌閭閣」もあります。
端宗の墓「荘陵」は2009年、ほかの朝鮮王陵とともにユネスコ世界遺産に登録されました。映画のヒット後、清泠浦へ渡る船着き場には行列ができているそうです。
まとめ|「実話」なのは、二人が生きた事実
| 実話 | 映画の創作 | |
|---|---|---|
| 端宗 | 寧越への流刑、4か月後の死、241年後の名誉回復 | 村人との日々のやりとり |
| オム・フンド | 実在の戸長、遺体を葬ったこと、身を隠したこと | 「村長」として流刑地に名乗り出る設定、王の死への関わり |
映画は、記録に残らない「二人の時間」を想像でつないだ物語です。でも、少年王の遺体を命がけで葬った人がいたことは、500年以上たった今も、墓そのものが証明しています。
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