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ガンダーラとは?仏像はなぜギリシャ風なのか|仁王像のモデルはヘラクレスだった

東大寺の南大門に、あの二体が立っています。

上半身は裸。筋肉が盛り上がり、血管まで浮いている。片方は口を開け、片方は結んでいる。仁王(金剛力士)です。

口を開き、腕を振り上げた金剛力士立像(阿形)
口を結び、手のひらを開いて構える金剛力士立像(吽形)

金剛力士立像 平安時代後期 高さ約3メートル(東京国立博物館/筆者撮影)

写真は東京国立博物館の一対です。かつては門に安置されていたもので、災害などで何度も傷みながら、修理を重ねて伝えられてきました。

日本のお寺の門番として、あまりにも見慣れた姿です。

ところが、この筋肉質の守護者をずっとさかのぼっていくと、思いがけない人物に行き当たります。

ギリシャ神話の英雄、ヘラクレスです。冗談のような話ですが、そう考えられています。今日はその道のりをたどります。

💡ギリシャから来たのは姿だけです。
仁王そのものはインド生まれの神で、その中身は最後まで変わりません。
変わったのは、体つきと顔——つまり見た目のほうです。

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まず、仏像は500年間なかった

出発点として、意外な事実から始めます。

釈迦が亡くなってから約500年間、仏像は作られていません。

釈迦自身が偶像崇拝を禁じていたからとも、姿を刻むことが恐れ多いと考えられたからとも言われます。いずれにせよ、人の形では表しませんでした。

かわりに、記号で表します。

記号何を意味するか
法輪教えを説いたこと
仏足石(足跡)そこを歩いたこと
菩提樹悟りを開いた場所
誰も座っていない台座そこに釈迦がいる

最後のものが、いちばん胸に来ます。

空っぽの椅子を彫って、そこに釈迦がいることにした。

博物館で古いレリーフを見ると、人々が空の座に向かって手を合わせている場面があります。そこに姿はありません。でも、いる。

かわりに拝んだもの──ストゥーパ

では、当時の人は何に向かって拝んでいたのか。

釈迦の遺骨です。仏舎利(ぶっしゃり)といいます。

そして、その遺骨を納めた墳墓がストゥーパ(仏塔)です。像がない時代、信仰の中心はここにありました。

お椀を伏せた形のふたと、円い受け皿からなる石製のストゥーパ型舎利容器
ストゥーパ型舎利容器 パキスタン・ガンダーラ クシャーン朝・3世紀 石(東京国立博物館/筆者撮影)

お椀を伏せたようなふたと、円い受け皿。ストゥーパそのものを、手のひらサイズにした容れ物です。

面白いのは年代で、これは3世紀のもの。仏像はすでに生まれています。それでも舎利容器は作られ続けました。

つまり、仏像が登場してもストゥーパ信仰が消えたわけではありません。上書きではなく、両方が並んで続いた。日本の五重塔も、もとをたどればこのストゥーパです。

さて、紀元1世紀ごろ、その沈黙が破られます。

仏像は、2か所で同時に生まれた

しかも、一か所ではありませんでした。離れた2つの土地で、ほぼ同時に人の姿の仏像が現れます。

ガンダーラマトゥラー
場所今のパキスタン北部インド中部
石の色灰色〜黒っぽい赤い
彫りが深く、鼻筋が通る丸顔で、おだやか
波打つウェーブ巻貝のような粒(螺髪)
厚く、ひだが深い薄く、体の線が透ける
手本にしたものギリシャ・ローマ彫刻インド在来の造形

博物館での見分け方は、たった一行で足ります。

灰色ならガンダーラ、赤ならマトゥラー。

実物で確かめます。まず、ガンダーラ。

灰色の片岩で彫られた、衣のひだが深いガンダーラの如来立像
如来立像 パキスタン・ペシャワール周辺 クシャーン朝・2〜3世紀 片岩(東京国立博物館/筆者撮影)

見るべきは3か所です。

  • 彫りの深い顔——眉から鼻筋にかけての立体感
  • 波型の頭髪——粒ではなく、うねっている
  • 両肩をおおう衣——流れるようなひだが、体の上を滑っていく

とくに衣です。ギリシャ・ローマの彫刻を見たことがあれば、あの布の彫り方とそっくりだと気づくはずです。腹部のふくらみや、左膝をわずかに曲げた様子が、衣ごしに分かるように彫られています。

次に、マトゥラー。

赤い砂岩で作られた、螺髪をもつマトゥラーの如来頭部
如来頭部 インド・マトゥラー クシャーン朝・2〜3世紀 砂岩(東京国立博物館/筆者撮影)

色が違います。赤い砂岩です。

弓形の眉を隆起した線で表し、口元にうっすら微笑みを浮かべる。小ぶりの肉髻(にっけい、頭の上の盛り上がり)。これがマトゥラーの仏の特徴です。

髪の毛だけを、見比べてみます

この記事でいちばん見てほしいのが、ここです。

漆喰で作られた如来頭部。頭髪が粒ではなく波打つ束で表される
如来頭部 アフガニスタン・ハッダ 3〜5世紀 ストゥッコ(東京国立博物館/筆者撮影)

アフガニスタンのハッダで作られた仏の頭です。石ではなくストゥッコ(漆喰)で、型を使って大量に作られ、仏塔の壁面などに取りつけられました。

頭を見てください。波打つ髪が、束になってうねっています。

ひとつ前のマトゥラーの頭は、巻貝のような粒がびっしり並んでいました。これが螺髪(らほつ)です。

同じ「仏の頭」なのに、系統がまったく違います。そして——

日本の仏像の頭は、粒のほう。マトゥラー側です。

一方で、顔立ちと衣のひだ、そして守護神の姿はガンダーラ側から来ています。

日本の仏像を見上げたとき、そこには2本の川が合流しています。

ガンダーラの菩薩は、王侯貴族の姿

如来だけでなく、菩薩も見ておきます。

足を交差させて坐り、装身具とターバン飾りをつけたガンダーラの菩薩交脚像
菩薩交脚像 パキスタン・マルダン地方 クシャーン朝・2〜3世紀 片岩(東京国立博物館/筆者撮影)

首飾り、腕輪、頭のターバン飾り。装身具だらけです。

シリーズ①で「如来は何も着けない、菩薩はアクセサリーだらけ」と書きましたが、その原型がここにあります。菩薩は出家する前、王子だったころの姿。だから当時の王侯貴族の格好で表されるのです。

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ちなみにこの像、名前が確定していません。ガンダーラの菩薩像は観音菩薩とされる作例が多いのですが、足を交差させて坐る交脚の姿は弥勒菩薩に多い。そのため意見が分かれています。

弥勒といえば、日本では片脚を組んだ半跏思惟の姿で作られました。姿勢はまるで違うのに、同じ仏を指している。土地ごとに「未来の仏」の描き方が変わっていったわけです。

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なぜ、ギリシャなのか

ガンダーラにギリシャ彫刻の技術があった理由は、はっきりしています。

アレクサンドロス大王が来たからです。

紀元前4世紀、東征でこの地域に到達しました。大王自身はすぐ引き返しますが、残されたギリシャ人たちはそのまま住み着きます。

その子孫が数百年かけて根を下ろし、街を作り、神殿を建て、彫刻を彫り続けました。ギリシャ系の王が仏教僧と問答した記録まで残っています。

そこへ「仏の姿を彫ろう」という機運が来た。

手元にあった彫刻技術が、たまたまギリシャ式だった。

料理でたとえるなら、レシピはインド、調理器具はギリシャ、というところです。同じ材料でも、道具が違えば仕上がりが変わります。

仁王とヘラクレス

さて、本題です。

ガンダーラのレリーフには、釈迦のすぐ後ろに立つ、筋肉質の男がたびたび登場します。上半身は裸で、手には棍棒。

これは執金剛神(しゅこんごうじん)、釈迦を護衛する守護神です。

ところが、その姿がどう見てもギリシャの英雄なのです。

棍棒を持ち、ライオンの毛皮を下げた石灰岩のヘラクレス立像
ヘラクレス立像 イラク・ハトラ出土 パルティア時代・1〜2世紀 石灰岩(東京国立博物館/筆者撮影)

これです。

上半身は裸で、堂々とした体つき。左手に棍棒、そして体の両脇に垂れているのがライオンの毛皮です。ヘラクレスの目印になる持ち物が、そろっています。

もう一度、この記事の冒頭の写真を思い出してください。上半身裸、筋肉が主役、堂々と立つ。ほとんど同じ設計です。

出土地が、道すじを示しています

この像が出たのは、イラク北部のハトラです。ガンダーラではありません。

ハトラはパルティア王国の対ローマ軍事都市であり、シルクロードの隊商都市として1〜3世紀に栄えた街でした。メソポタミア、イラン、地中海世界の文化が集まり、東西の交流が進んだ場所です。

ギリシャで生まれたヘラクレスが、ギリシャの外でも彫られていた。この像は、その途中経過そのものです。ハトラでこれが立っていたなら、さらに東のガンダーラに届いていても不思議はありません。

ギリシャ系の職人たちは、「強い守護者を彫れ」と言われたとき、自分たちがいちばんよく知っている強い男を持ってきた。それがヘラクレスでした。

そして棍棒は、やがて仏教の武器である金剛杵(こんごうしょ)に置き換わります。

ガンダーラ日本
ヘラクレス姿の執金剛神東大寺法華堂の執金剛神像
棍棒金剛杵
釈迦の護衛山門に立つ仁王

奈良の門番は、ギリシャの英雄が東へ旅をした姿だったということになります。

ほかにも紛れこんでいるギリシャ

仁王だけではありません。日本の仏像や仏教美術には、思いのほかギリシャ由来と考えられているものが混ざっています。

日本で見るものもとをたどると
衣の流れるようなひだギリシャ彫刻の衣の表現
風神が背負う大きな袋風の神ボレアス。翻るマントが風袋になったとされる
天女や飛天のなびく衣勝利の女神ニケの表現が源流という見方
仏の背後の光背太陽神の輪。オリエント〜ギリシャに広く見られる

京都・三十三間堂の風神像も、俵屋宗達の風神雷神図の風神も、あの布の袋を担いでいます。あれがギリシャの風の神のマントだった、という説明を聞くと、絵の見え方が少し変わります。

中国で、仏は着替える

インドから中国に入ると、仏像はもう一段変化します。

中国風の服に着替えるのです。

時代顔と体つき
北魏(5〜6世紀)面長、細身、うっすら微笑む中国の役人の服。幅広の帯が垂れる
北斉・隋(6世紀後半)丸みが戻る薄く、体に沿う
(7〜8世紀)丸顔、肉づき豊か、腰をひねる薄く、動きがある

北魏の仏像が着ているのは、インドの薄い衣ではなく、中国の士大夫(役人)の礼服です。

中国に入った時点で、仏はいったん中国人の格好になった。それだけ、その土地の「立派な人の姿」に寄せて作られたということです。

そして、この北魏の姿が日本に来ます。

日本の時代手本特徴
飛鳥(7世紀前半)北魏面長、微笑み、衣が左右に張り出す
白鳳(7世紀後半)隋〜初唐丸みが出る
天平(8世紀)盛唐写実的でふっくら

法隆寺の釈迦三尊像が、なぜあんなに面長で、あんな微笑みを浮かべているのか。

答えは、中国の北魏にあります。

余談:中国の仏像は、山にいた

ガンダーラの仏像は、寺院に置く独立した石像でした。

ところが中国では、仏像を彫る場所そのものが変わります。山の岩肌です。

敦煌、雲崗、龍門、天龍山──石窟寺院と呼ばれるものです。崖に穴を掘り、その壁面から仏を彫り出す。堂を建てて仏を安置するのではなく、山を掘って堂にしてしまうわけです。

もちろん中国にも金銅仏や木彫の像はあります。ただ、この時代を代表する仏像の多くは、山の中にありました。

さて、博物館で中国の仏像を見ると、首から上だけという展示によく出会います。

あれは壊れたのではありません。石窟の壁から切り出されたものです。20世紀の前半に多くが持ち出され、世界各地の博物館に散りました。

日本の仏像の多くが「動かせるもの」として作られたのに対し、中国の石窟の仏は、もともと動かないものだった。

ケースの中の仏頭は、山から切り離された断片です。

まとめると、こういう道のりです

場所そこで起きたこと
インド500年間、仏像を作らなかった。拝んだのは仏舎利とストゥーパ
ガンダーラギリシャの技術で、初めて人の姿に。守護神はヘラクレス
マトゥラー同じ頃、インド在来の造形で。螺髪はこちら
中国中国の役人の服に着替える。北魏の面長と微笑み
朝鮮半島三国時代の薄い金銅仏。半跏思惟像
日本飛鳥は北魏、天平は唐。仁王が門に立つ

一本の線でつながっています。

博物館でのチェックポイント

見るもの確認すること
1.石の色灰色ならガンダーラ、赤ならマトゥラー
2.顔鼻筋が通って彫りが深いか
3.髪波打つウェーブか、粒(螺髪)か
4.レリーフの脇役筋肉質で棍棒を持った男がいないか
5.空の台座誰も座っていない椅子=仏像以前の表現
6.中国の仏像面長で幅広の帯なら北魏

とくに4番目です。釈迦のとなりに立つ筋肉質の男を見つけたら、そこが仁王のふるさとです。

おわりに

仏教はインドで生まれ、中国で服を着替え、朝鮮半島を通って日本に来ました。

その途中、ギリシャの彫刻家たちが仏の顔を彫り、自分たちの英雄を護衛として脇に立たせた。その姿が2000年かけて東へ運ばれ、門に立っています。

次にお寺の山門をくぐるとき、仁王を見上げてみてください。

あの筋肉は、地中海からきたものです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵