好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

銅剣はなぜ刃がなくなったのか──形でたどる、弥生の青銅器

博物館の弥生コーナーに、大きな銅剣が並んでいることがあります。

長さは50センチほど。幅が広く、堂々としている。ところが説明を読むと、こう書いてあります。

「刃はつけられていません」

武器の形をしているのに、切れない。しかも一か所から何十本、何百本とまとめて出てくる。

これは一体、何だったのか。

答えは、形の変化を順番に並べると見えてきます。銅剣は海を渡ってきたあと、はっきりした方向に変わっていきました。その道すじをたどります。

AD – 読み進める前のひとやすみ

まず「石で作った剣」という話から

順番として、青銅器より少し前から始めます。

朝鮮半島の展示を見ると、つるつるに磨かれた石の剣が並んでいます。磨製石剣といいます。

磨かれた石で作られた剣が6本並ぶ展示(東京国立博物館蔵)
石剣 韓国・慶尚南道など出土 青銅器時代(前7〜前4世紀) 石(東京国立博物館・筆者撮影)

ここで素朴な疑問が出ます。石で剣を作っても、叩き合えば折れます。 なぜわざわざ作ったのか。

答えは、青銅の剣のコピーだからです。

青銅の剣は貴重品で、限られた人しか持てません。持てない人が、同じ形のものを石で作って墓に納めた。高価なブランド品と、その形をまねた品の関係に近いものです。

写真をよく見てください。握りの部分に、わざわざ段や膨らみをつけています。実際に振るうつもりなら要らない手間です。それでも作りこんである。

そして6本が並んでいることに注目してください。1本なら偶然ですが、同じ形が何本も作られている。形をまねること自体に意味があった証拠です。

つまり、こういう読み方ができます。

石なのに剣の形をしている=その社会はもう青銅器を知っている

そして大事なのは、この時点ですでに「実用ではなく、形だけを持つ」文化があったということです。このあと日本で起きることの、いわば予告編になっています。

銅剣は3段階で変わる

では本体の銅剣です。形の変化は、大づかみに3段階です。

段階呼び名形の特徴どこで
1琵琶形銅剣胴がふくらみ、途中にくびれがある。楽器の琵琶のような輪郭中国東北部〜半島。古い
2細形銅剣まっすぐ細い。すっきりした形朝鮮半島で成立。新しい
3中広形・平形銅剣幅広く、大きく、薄い。刃がない日本で変質したもの

輪郭だけを並べると、こうなります。

銅剣の輪郭 3段階 琵琶形銅剣、細形銅剣、中広形・平形銅剣の輪郭を左から順に並べた比較図。琵琶形は胴がふくらみ途中にくびれがある。細形はまっすぐ細い。中広形・平形は幅が広く大きい。 銅剣の輪郭 ── ふくらむ、まっすぐ、幅広 くびれ 琵琶形銅剣 細形銅剣 中広形・平形銅剣 中国東北部〜半島 朝鮮半島で成立 日本で変質 古い 新しい 刃がない

※ 形の違いを見るための模式図です。実物の比率をそのまま写したものではありません。

見分け方はこれだけです。

ふくらんでいたら古い。まっすぐなら新しい。幅広なら日本製。

博物館のケースの前で、この一行を思い出せれば十分です。

まっすぐで細い輪郭の青銅の剣。朝鮮半島出土(東京国立博物館蔵)
銅剣 韓国昌寧出土ほか 初期鉄器時代(前3〜前2世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

これが②です。まっすぐで、細い。ふくらみもくびれもありません。中央に稜が通っていて、断面がしっかりしているのが分かります。

展示室での注意:①の琵琶形銅剣は、日本の博物館ではなかなかお目にかかれません。中国東北部(遼寧)で生まれたもので、そもそも点数が少ないためです。「ふくらんだ剣」を探して見つからなくても、見落としではありません。

そして日本に渡ってきたのは、②の細形銅剣でした。まず北部九州に入り、稲作や鉄と一緒に上陸します。

このころ渡ってきたのは道具だけではありません。大きな石を載せた支石墓というお墓の形も、福岡・佐賀・長崎に入っています。人と技術がまとまって渡ってきた時期でした。

最初は、ちゃんと切れる武器だった

ここは誤解しやすいところなので、先に押さえておきます。

日本に来たばかりの銅剣は、飾りではありません。 細形銅剣には刃がついていて、実際に武器として通用するものでした。

柄に直角に取り付けて振り回して使う青銅の武器・銅戈(東京国立博物館蔵)
銅戈 伝韓国慶州入室里出土 原三国時代(前1世紀) 青銅 重要美術品(東京国立博物館・筆者撮影)

同じ時期の半島には、銅戈(どうか)も入っています。長い木の柄の先に、ほぼ直角に着けて、振り回して使う武器です。

これは中国からの流れです。大陸では、剣より戈のほうが主力でした。半島や日本に届いた青銅の武器は、一本道で来たのではなく、いくつもの系統が別々に流れこんでいます。

さて、日本の話に戻ります。渡ってきた銅剣の多くは、甕棺墓――大きな土器を棺にしたお墓――のなかから、鏡や玉と一緒に出てきます。

つまり、この段階の銅剣は特定の個人の持ち物でした。ムラのなかで抜きん出た誰かが、生前に持ち、死後もその人と一緒に埋められた。

このとき銅剣には、二つの顔がありました。切るための道具という顔と、その人が特別だと示す道具という顔です。

このあと起きるのは、単純な話です。二つのうち、片方だけが残る。

日本に来てから起きたこと

輸入品だった細形銅剣は、やがて日本国内でも作られるようになります。

青銅器を鋳造するために使われた石製の鋳型(東京国立博物館蔵)
銅戈鋳型 福岡県出土 弥生時代 石製(東京国立博物館・筆者撮影)

その証拠が、これです。石で作った鋳型。九州北部では、石製の鋳型を用いて数多くの青銅器が作られました。

2枚を合わせ、隙間に溶けた青銅を流しこんで鋳造します。そして重要なのは、この鋳型の表裏面に、高温の溶けた青銅があたった痕が残っていることです。

つまりこれは見本や模型ではなく、実際に使われた道具です。日本で青銅器を作っていた現場が、ここにあります。

ここからが本題です。国産になったとたん、銅剣は方向を変えます。

輸入された細形銅剣日本で作られた銅剣
長さ30センチ前後50センチを超えるものも
細いどんどん広くなる
厚みしっかりある薄くなる
ついているつけられていない
出てくる場所墓のなか山の斜面などにまとめて
使い道武器・個人の象徴集団の祭りの道具
幅の異なる銅剣や銅矛が並ぶ展示ケース。手前の台には錆びた鉄剣も置かれている(東京国立博物館蔵)
銅剣・銅矛の展示。細いものから幅広のものまで並んでいます(東京国立博物館・筆者撮影)

左から右へ、幅を見比べてみてください。同じ「銅剣」という名前で呼ばれるものの間に、これだけの開きがあります。

大きくなり、幅が広がり、薄くなり、そして刃が消える。

武器として進化したのではなく、「見せるもの」として進化したわけです。

大きくすれば目立つ。幅を広げれば見栄えがする。実際に振るわないのなら、薄くても構わないし、刃を研ぐ手間も要らない。

刀の形をした看板、と言ってしまってもいいかもしれません。

銅鐸も、まったく同じ道をたどった

面白いのは、銅鐸もそっくり同じ変化をしていることです。

銅鐸のもとは、朝鮮半島の小さな鈴でした。

幾何学文様のある小さな青銅の鈴・馬鐸が2点(東京国立博物館蔵)
馬鐸 伝韓国慶州入室里出土 原三国時代(前1世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

名前のとおり、馬につける鈴です。英語の解説も Horse Bells となっています。手のひらに収まる大きさで、表面に細かい幾何学文様が刻まれています。

家畜の首につけて、歩くたびに鳴らす。これが出発点です。

手のひらサイズの小さな銅鐸が2点並ぶ展示(東京国立博物館蔵)
小銅鐸 1:静岡県沼津市出土(弥生後期・1〜3世紀)/2:栃木県小山市出土(弥生〜古墳前期・3〜4世紀)(東京国立博物館・筆者撮影)

日本に入った直後の姿が、これです。まだ小さい。静岡と栃木から出たもので、いずれも握れる大きさです。

それが、こうなります。

小さなものから大きなものへ、サイズ順に並べられた銅鐸の展示(東京国立博物館蔵)
銅鐸がサイズ順に並ぶ展示。左端と右端で、これだけ違います(東京国立博物館・筆者撮影)

説明が要らない写真だと思います。左端の小さな鈴から、右端の巨大なものまで、同じ「銅鐸」です。

そして右端。高さ134センチ、重さ45キロ。これが現存する日本最大の銅鐸です。近畿地方を中心に分布することから「近畿式」とも呼ばれます。

左端の鈴と、右端の45キロ。同じ名前で呼ばれる道具の、始まりと終わりが1枚に入っています。

半島の小さな鈴日本の銅鐸(後期)
高さ10センチ前後1メートルを超えるものも
内側舌(ぜつ)があって鳴る舌が消える
吊り手丈夫で実用的薄く飾りになり、吊れない
性格鳴らす道具置いて見るもの

研究者はこれを「聞く銅鐸から、見る銅鐸へ」と表現します。

銅剣は「振るう剣」から「見る剣」へ。銅鐸は「鳴らす鈴」から「見る鈴」へ。

同じことが、二つの道具で同時に起きています。 偶然ではなく、青銅という素材そのものの立場が変わったということです。

吊り手が、飾りになった

銅鐸の変化は、大きさだけではありません。吊り手を見比べると、もっとはっきりします。

平たい輪の吊り手をもち、身に区画と絵画がある扁平鈕式銅鐸(東京国立博物館蔵)
扁平鈕式銅鐸 伝香川県出土 弥生時代(中期)前2〜前1世紀 青銅製 国宝(東京国立博物館・筆者撮影)

まず古いほうです。上に立つ半円形の部分が鈕(ちゅう)、紐を通して吊るすための持ち手。平たい輪のままで、まだちゃんと機能します。この形から扁平鈕式と呼ばれます。

そしてこの一点は国宝です。身の表面が格子状に区切られていて、その区画のなかに絵が描かれています。

  • 魚をついばむ鳥
  • イノシシを狩る様子
  • 杵で臼をつく人物
  • 高床の建物

生活の風景です。とくに臼をつく人物と高床建物が描かれていることから、銅鐸は農耕祭祀と深い関わりをもった祭器だと考えられています。

この段階の銅鐸は、吊るして鳴らし、そして絵を見せるものでした。

では、200年ほど後はどうなったか。

鈕が渦巻き飾りのついた板状になった突線鈕式銅鐸(東京国立博物館蔵)
突線鈕式銅鐸 三重県津市高茶屋小森町出土 弥生時代(後期)1〜3世紀 青銅製(東京国立博物館・筆者撮影)

銅鐸の変化は、大きさだけではありません。吊り手を見てください。

上に立っている半円形の部分が鈕(ちゅう)、もとは紐を通して吊るすための持ち手です。ところがこの銅鐸では、鈕のまわりに突起の帯が何重にも走り、両脇には渦巻きの飾りが並んでいます。

この突起の並びから、突線鈕式と呼ばれます。銅鐸の分類のなかでは、いちばん新しい段階です。

ここまで飾りをつけたら、もう吊るせません。持ち手が、持ち手ではなくなっている。

刃のない剣と、同じことが起きています。機能のあった部分が、見せるための形に置き換わった。

この一点は、集落跡から土木工事中に偶然発見されたものです。掘削で一部が損なわれましたが、内側の砂の付き方から、鰭(ひれ)を上下にして横倒しに埋納されていたと考えられています。集落から銅鐸が見つかった、きわめて貴重な例です。

そして、この突線鈕式をもって銅鐸は姿を消します。大きくなり続け、飾り立てられた果てに、作られなくなった。

なぜ、そうなったのか

理由は一つではありません。大きく三つあります。

① 鉄が、ほとんど同時に来てしまった

いちばん大きいのはです。

ここで、半島と日本を並べてみます。

青銅器が登場鉄器が登場その差
朝鮮半島紀元前10〜8世紀ごろ紀元前4〜3世紀ごろ500年以上
日本列島紀元前4〜3世紀ごろほぼ同じころほとんどなし

半島には、青銅が唯一の金属だった時代が長くありました。ほかに硬い金属がないのだから、青銅が武器であり、工具であり、それで社会が回っていた期間がある。

日本には、その期間がありません。青銅が上陸したときには、すでに鉄が横に立っていた。そして鉄は、青銅よりはるかに硬い。

さきほどの展示ケースの写真を、もう一度見てください。手前の台に、赤茶けた剣が置かれています。あれが鉄です。青銅の緑と、鉄の錆の色が、同じケースの中に並んでいる。

教科書で「日本には青銅器時代がない」と書かれるのは、これが理由です。青銅が主役を張る番が、回ってこなかった。

中途採用で入社してみたら、同期にもっと屈強な人がいた。そういう状況です。

② 材料が、輸入頼みだった

もう一つ、地味ですが効いている事情があります。

青銅は、銅と錫を混ぜた合金です。ところがこの時代の日本では、銅も錫もほとんど採れません。国内で銅が本格的に採れるようになるのは、ずっとあとの708年(和銅元年)です。

つまり原料は、海の向こうから運ばれてくる貴重品でした。

すり減っては研ぎ直す消耗品――つまり日常の工具や武器――に、その貴重品を回すのは割に合いません。高いからこそ、大事に見せる方へ回った。そういう経済の話でもあります。

③ 青銅には「光る」という取り柄があった

役目を失った青銅は、では捨てられたかというと、そうはなりませんでした。

私たちが博物館で見る銅剣や銅鐸は、たいてい青緑色をしています。あれは長い年月でついた錆の色です。作られたばかりのころは、磨かれた金色でした。

そこで青銅は、戦う道具から、祭りの道具へ配置転換されたわけです。

会社でいえば、現場の主力製品ではなくなったけれど、見栄えがいいので式典用に残された、というところでしょうか。

そして式典用になった以上、目的は「よく効くこと」ではなく「よく見えること」に変わります。だから大きくなる。だから薄くなる。だから刃が要らなくなる。

形の変化は、用途の変化の記録なのです。

358本まとめて出た場所

この「祭りの道具」という性格をいちばんはっきり示すのが、島根県の荒神谷遺跡です。

1984年、山の斜面から銅剣が358本、整然と並べて埋められた状態で見つかりました。それまで日本全国で見つかっていた銅剣の総数を、一か所で上回ってしまった発見です。

さらに翌年、すぐ近くから銅鐸6個と銅矛16本。3キロほど離れた加茂岩倉遺跡からは、銅鐸が39個。

ここで、さきほどの甕棺墓と比べてみてください。

弥生前期(北部九州)弥生後期(荒神谷など)
どこから出るかお墓のなか山の斜面など、墓ではない場所
何本まとめて1〜数本数十〜数百本
誰のものか個人集団

なぜ埋めたのかは、いまも決着していません。祭りのたびに掘り出して使ったという説、役目を終えて葬ったという説、争いの時に隠したという説。

ただ、少なくとも一つは確実に言えます。
この358本を、一人が一本ずつ持って戦っていたわけではない。
銅剣は、個人の墓から出て、集団が共有する特別な道具になっていた。

実はここが、日本らしいところです。青銅器が祭りの道具に変わっていくこと自体は、朝鮮半島でも起きています。ただし半島の青銅器は、最後まで「有力者の墓に納めるもの」でした。墓を離れて、集団でまとめて土に埋める――この形は、列島で生まれたものです。

展示ケースの前で見るところ

見るもの確認すること
石の剣「石なのに剣の形」=すでに青銅器を知っている社会
銅剣の輪郭ふくらむ(古い)/まっすぐ(新しい)/幅広(日本製)
ついているか、いないか。ここが分かれ目
厚み横から見て薄い=もう振るう気がない
銅鐸の大きさ小さい(鳴らす)/大きい(見る)。内側に舌があるかも
吊り手(鈕)実用的か、飾りになっているか。飾りなら吊れない=置いて見るもの
出土のしかた墓の中か、まとめて埋められたか

最後の一つが、実は効きます。墓に納められていたなら個人のもの、山にまとめて埋められていたなら集団のもの。 同じ銅剣でも、意味がまるで違います。

おわりに

刃のない銅剣は、失敗作でも手抜きでもありません。

海を渡ってきた武器が、この列島では主役の座を鉄に譲り、そのかわりに別の役目をもらった。その途中経過が、あの幅広の一本です。

博物館で銅剣を見たら、まず輪郭を見てください。ふくらんでいるか、まっすぐか、幅広か。

それだけで、その一本がどのあたりの時間に立っているかがわかります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵