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思悼世子の息子たち|正祖の異母弟たちはどうなった?王朝最後の王へつながる細い糸

米びつ事件で父を失った思悼世子の息子たち。長男の正祖は王になりましたが、残る3人の弟は、全員が非業の死を遂げました。

流刑地での病死。19歳での賜死。47歳での賜死。

そして不思議なことに、朝鮮王朝最後の2人の王(哲宗・高宗)は、この滅ぼされた弟たちの家から出ています。

思悼世子の息子たち

名前最期
懿昭世孫恵慶宮洪氏3歳で夭折
正祖恵慶宮洪氏第22代王として即位
恩彦君(ウノングン)粛嬪林氏47歳で賜死
恩信君(ウンシングン)粛嬪林氏16歳で病死(流刑地)
恩全君(ウンジョングン)景嬪朴氏19歳で賜死
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① 恩信君(1755〜1771)── 16歳、済州島で

3人のうち、いちばん先に世を去りました。

1771年、兄の恩彦君とともに済州島へ流刑。その地で風土病にかかり、16歳で亡くなります。

罪状は「市廛(都の商人)に借金を作った」というものでした。しかし、その背後にあったのはやはり派閥の争いです。

🔥 弾劾したのは、あの家だった
兄弟を弾劾したのは、金亀柱(キム・グジュ)らでした。金亀柱は、英祖の後妻・貞純王后の兄です。
一方、兄弟に資金を援助していたのは洪鳳漢──正祖の母・恵慶宮洪氏の父。
つまりこれは、慶州金氏と豊山洪氏という二つの外戚が、子どもたちを駒にして争った事件でした。父を殺した対立が、そのまま息子の代へ持ち越されています。

恩信君には子がいませんでした。ここで、この家の血はいったん完全に途切れます。

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② 恩全君(1759〜1778)── 19歳、担ぎ上げられて

3人のなかで、最も救いのない生涯を送った人かもしれません。

母を、父・思悼世子に殺されています。
母の景嬪朴氏は、精神を病んだ思悼世子に撲殺されました。恩全君はまだ幼児でした。

そして1777年、正祖の即位翌年に起きた丁酉逆変。宮中に刺客が侵入した正祖暗殺未遂事件で、首謀者たちは恩全君を「次の王」として担ぎ上げる計画を立てていました。

本人は何も知りませんでした。 それでも、名前を使われたという一点で罪人になります。

⚠️ 正祖は最後まで抵抗した
正祖は弟を助けようとしました。臣下たちが連日「処断を」と迫っても、頑として応じません。
しかし圧力は止まず、最終的に恩全君は死を賜ります。享年19。
「父を殺した祖父」と対比されがちな正祖ですが、この件では弟を守れなかった兄でした。

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③ 恩彦君(1754〜1801)── 47歳、江華島で

3兄弟でただ一人、子を残した人です。

  • 1786年:息子の常渓君が謀反事件に関与したとして死亡。恩彦君も江華島へ流刑
  • 1801年:辛酉迫害。妻の宋氏と、息子の嫁である申氏がカトリック信者であることが発覚
  • 二人は処刑され、恩彦君も連座して賜死。享年47

宋氏と申氏は王族として初めてカトリックの信仰ゆえに命を落とした女性たちで、2014年、教皇フランシスコが訪韓した際に、福者に列せられました。

そしてこの恩彦君の家から、第25代王・哲宗が出ます。罪人として島にいた少年が、そのまま王座へ運ばれました。

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系図で見る「血の細さ」

思悼世子の息子たちから哲宗・高宗へ至る系図思悼世子の四人の息子のうち三人が非業の死を遂げ、恩彦君の孫が哲宗、恩信君の死後養子である南延君の孫が高宗となった流れを示す系図 英祖 第21代 思悼世子 米びつで死去 正祖 第22代 恩彦君 47歳で賜死 恩信君 16歳で病死 恩全君 19歳で賜死 純祖 第23代 全渓大院君 恩彦君の子 子がないまま 家系が途切れる ここで断絶 憲宗 第24代 哲宗 第25代 南延君 死後養子・1815年 南延君の実の血筋 第16代・仁祖の三男 麟坪大君の6代孫 1849年 跡継ぎなく断絶 興宣大院君 南延君の四男 高宗 第26代
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哲宗と高宗は、どれくらい「遠い」のか

図の左の列を見てください。正祖 → 純祖 → 憲宗と続いた本家の血は、1849年に完全に途切れます。 憲宗に跡継ぎがいなかったからです。

哲宗は、まだ血がつながっている

第25代・哲宗は、恩彦君の孫。思悼世子から見れば曾孫にあたります。

即位を決めた純元王后は、彼のことをこう表現しました。

「英祖の唯一の血脈」

罪人の家として流刑地に置かれた家系が、気づけば王家に残った最後の一本になっていたのです。江華島で農作業をしていた19歳の青年が、そのまま王座に運ばれました。

高宗は、血がつながっていない

恩信君は16歳で、子を残さずに亡くなりました。この家系は、そこで終わっているはずでした。

ところが1815年──恩信君の死から44年後──朝廷は、絶えた家に跡継ぎを立てる手続きをとります。選ばれたのが南延君です。

そしてこの南延君、血の上では英祖の子孫ではありません。

実の血筋第16代・仁祖の三男、麟坪大君の6代孫
恩信君との関係系譜上は13親等の叔父にあたる(つまり、ほぼ他人)
縁組の実態本人の死後44年に成立した、書類上の手続き

その南延君の四男が興宣大院君。その息子が、第26代・高宗です。

🔥つまり、こういうことです
高宗の実際の血をさかのぼると、英祖にも思悼世子にもたどり着きません。第16代・仁祖の時代まで戻ってしまいます。
王家との接点は、44年前に死んだ少年の家に紙の上で入った、たった一度の養子縁組だけ。
朝鮮王朝最後の王は、ほとんど他人だった——これが図の点線が意味していることです。

実はもう一段ややこしい
正祖は後年、恩信君を別の王族(延齢君)の家の跡継ぎとして出しています。恩信君は書類上、思悼世子の家から出て、延齢君の家の人になったとも考えられるのですが、それでも興宣大院君の一族は、「わが家は思悼世子の血筋である」と主張し続けます。

💡どの家系に属するかは、血ではなく政治で決まる。 朝鮮王朝末期の王位継承は、そういう世界でした。

まとめ

正祖の3人の異母弟は、誰ひとり天寿をまっとうできませんでした。

けれど皮肉なことに、朝鮮王朝を最後まで担ったのは、この滅ぼされたはずの家々でした。

  • 流刑地で死んだ恩彦君の家から → 哲宗
  • 16歳で絶えた恩信君の家(の名前)から → 高宗

米びつの中で思悼世子が息絶えたとき、その庶子の家系がやがて王朝の最後を看取ることになるとは、誰も想像しなかったはずです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵