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景宗→英祖→正祖|秘密の扉・イ・サン・赤い袖先の時代が5分でわかる

兄と弟が別々の党派に担がれ、王になった弟が我が子を米びつで死なせ、その孫が「朝鮮ルネサンス」を咲かせる——景宗から正祖までの80年は、朝鮮王朝でいちばん濃い80年です。

まずは系図で全体像を、そのあと4ステップの流れとタイムラインでどうぞ。英祖と正祖それぞれの「なぜ?」は、専用のコラムに分けてあります。

系図

第19代 粛宗 在位 1674〜1720 禧嬪張氏 景宗の母 淑嬪崔氏 英祖の母 (トンイ) 第20代 景宗 在位 1720〜1724 ▲ 子なし・毒殺説 第21代 英祖 在位 1724〜1776 歴代最長52年・蕩平策 王世弟 (1721) 思悼世子 1762 壬午禍変 ▲ 米びつで餓死 (28歳) 第22代 正祖(チョンジョ) 在位 1776〜1800 ▶ 次の時代:第23代 純祖(11歳即位) 貞純王后の垂簾聴政 →「勢道政治期」へ続く
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時代背景——80年の流れをざっくり

第19代・粛宗には二人の息子がいました。禧嬪張氏(チャン・ヒビン)が産んだ兄と、淑嬪崔氏(ドラマ『トンイ』のモデル)が産んだ弟です。

この兄弟に、そのまま党派がくっつきました。

老論(ノロン) 淑嬪崔氏が産んだ王子(後の英祖)を支持

少論(ソロン) 張禧嬪が産んだ王子(後の景宗)を支持

前の時代、粛宗は換局によって政権を丸ごと入れ替え、派閥同士を争わせることで王権を保ちました。負けた側は大粛清を受けるため、恨みだけが積み重なっていきます。その行き着いた先が、景宗と英祖の王位継承をめぐる血みどろの政争でした。

英祖と正祖の「蕩平策

そこで英祖が始めたのが蕩平策です。一つの党派に権力が偏らないよう、老論・少論など各派から人材を登用し、派閥の均衡を図りました。

正祖は、その考えをさらに一歩進めます。党派ではなく人物で選ぶ。長く政権から遠ざけられていた南人や、庶子という身分の壁によって能力を発揮できなかった学者たちまで積極的に登用し、実力本位の政治を目指しました。

① 景宗の4年——兄と弟、そのまま党派の代理戦争

1720年に即位したのが兄の第20代・景宗。ところが病弱で子ができず、翌1721年、弟の延礽君(ヨニングン)が王世弟に立てられます。

これに少論が猛反撃したのが辛壬獄事。弟まで「景宗の暗殺計画に加担した」と名指しされ、あわや死罪という瀬戸際まで追い込まれました。しかし、1724年、景宗が在位わずか4年、37歳で崩御。弟は危機一髪で生き延び、そのまま王座に着きます。

② 英祖の52年——聖君か暴君か?

第21代・英祖。在位52年は歴代最長です。

英祖には、まるで別人のような二つの顔があります。

一つは、均役法の実施や清渓川の改修などで民の暮らしを支え、「名君」と称えられた王としての顔。

もう一つは、実の息子・思悼世子を米びつに閉じ込め、死へ追いやった父としての顔でした。

③ 正祖の24年——朝鮮ルネサンスと、1800年の急死

父の死を11歳で目の当たりにした少年が、1776年、25歳で即位します。第22代・正祖、ドラマ『イ・サン』の主人公です。

即位式の第一声は「思悼世子の子である」。父を追い詰めた側にとっては宣戦布告でした。

実際、即位の翌年には寝所に刺客が押し入る事件まで起きています。命を狙われながら、正祖は改革を進めました。王立シンクタンク奎章閣、身分の壁で任官できなかった学者たちの登用、世界遺産水原華城——「朝鮮ルネサンス」と呼ばれる時代がここで花開きます。

ところが1800年、49歳で突然の崩御。改革は道半ばで終わりました。

④ その後——11歳の王と、垂簾聴政

跡を継いだのは11歳の第23代・純祖。政治を代行したのは、英祖の継妃・貞純王后でした。

英祖・正祖の二代が積み上げた「党争を抑えて王権を強くする」努力は、ここから一気に逆流します。外戚の一族が政治を私物化する勢道政治の時代へ

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タイムライン(時系列を追う)

1720年 景宗 即位 張禧嬪の子・在位わずか4年で崩御
1721年 延礽君(後の英祖)が王世弟に冊立 子のいない景宗の後継として、異母弟が世弟に
1721〜1722年 辛壬獄事 少論が老論を大粛清。重臣4人を処刑、関係者数百人が流刑・処刑。延礽君も命の危機に陥る
1724年 英祖 即位 淑嬪崔氏(トンイ)の子。歴代最長52年の在位が始まる
1725年 蕩平教書 発表 党派を超えた均衡人事を宣言。ただし当初はうまく機能せず
1728年 李麟佐の乱(イ・インジャのらん/戊申の乱) 少論強硬派が「景宗の仇討ち」を名分に挙兵。約1ヶ月で鎮圧。皮肉にも蕩平策本格化のきっかけに
1757年 貞聖王后 崩御 英祖の正妃。子をもうけられなかった
1759年 貞純王后 入内 15歳で66歳の英祖の継妃に。王大妃として権勢を振るう
1762年 壬午禍変 英祖が世子・思悼世子を米びつに閉じ込め餓死させる。朝鮮王朝史上最も凄惨な父子の悲劇
1776年 英祖 崩御/正祖 即位 思悼世子の子・正祖が祖父の跡を継ぐ。即位早々奎章閣(キュジャンガク)を設立
1776年〜 朝鮮ルネサンス 実学(パク・チェガ・チョン・ヤギョンら)の隆盛、庶子出身者の登用、文化全盛期へ
1796年 水原華城(スウォンファソン)完成 正祖が父・思悼世子の墓を移し、新都市として築いた城郭都市。世界遺産
1800年 正祖 崩御(享年49歳) 改革半ばでの突然の死。次代・純祖は11歳で即位し、貞純王后の垂簾聴政が始まる
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵