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持統天皇とはどんな人?わかりやすく|天武天皇と二人三脚の生涯と薬師寺

持統天皇(じとうてんのう)は、飛鳥時代の終わりに活躍した女性の天皇です。

天智天皇の娘で、天武天皇の妻。
父と夫、ふたりの天皇のあいだで生きたこの人の人生は、ドラマでもなかなか書けないほど波乱に満ちています。

そして奈良には、その人生の「足あと」がいまも残っています。
薬師寺と、興福寺の仏頭です。

この記事では、持統天皇の生涯をたどりながら、奈良で見られる2つの足あとまでご案内します。

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持統天皇ってどんな人?

名前鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
生まれ645年(乙巳の変の年)
天智天皇(中大兄皇子)
遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
天武天皇(大海人皇子)。父の弟で、叔父にあたる
在位690〜697年(第41代)
亡くなった年702年(数え58歳)

生涯を年表にすると、こうなります。

年齢できごと
645数え1歳生まれる。この年、乙巳の変で蘇我本家が滅びる
649数え5歳祖父・石川麻呂が自害。母も悲しみのあまり亡くなったと伝わる
657数え13歳叔父の大海人皇子と結婚
662数え18歳九州で息子の草壁皇子を産む
672数え28歳壬申の乱。夫とともに戦う
673数え29歳夫が天武天皇として即位し、皇后になる
680数え36歳皇后の病気が治るよう、天武天皇が薬師寺を建て始める
686数え42歳夫の天武天皇が亡くなる
689数え45歳息子の草壁皇子が亡くなる
690数え46歳自ら即位して天皇になる
694数え50歳藤原京に都を移す
697数え53歳孫の文武天皇に位をゆずる
702数え58歳亡くなる。翌年、天皇として初めて火葬される

ひとことで言うと
持統天皇は、夫・天武天皇の夢を、夫の死後にすべてかたちにした人です。

数え5歳で祖父と母を失う

持統天皇が生まれた645年は、乙巳の変の年です。
父の中大兄皇子が、中臣鎌足とともに蘇我入鹿を討ち、蘇我本家を滅ぼしました。

ところが、持統天皇の母方の祖父もまた、蘇我氏でした。
蘇我倉山田石川麻呂。本家とは別の家の人で、中大兄の側についた蘇我氏です。

649年、その石川麻呂に「謀反をたくらんでいる」という疑いがかけられます。
石川麻呂は、自分が建てていたお寺・山田寺に逃れ、そこで自害しました。

『日本書紀』には、中大兄の妃だった石川麻呂の娘が、悲しみのあまり亡くなったとも書かれています。この妃を持統天皇の母・遠智娘と同じ人とみる説が有力です。

もしそうなら、持統天皇は数え5歳で、父の政権によって祖父を失い、そのショックで母も失ったことになります。

このとき滅びなかったものがひとつあります。蘇我の血です。
持統天皇の体に流れる蘇我氏の血は、やがて奈良時代の天皇たちへと受け継がれていきます。

夫・天武天皇と戦った壬申の乱

数え13歳で、持統天皇は叔父の大海人皇子と結婚します。
当時の天皇家では、おじと姪の結婚は珍しくありませんでした。姉の大田皇女も、同じく大海人皇子の妻になっています。

671年、父の天智天皇が重い病に倒れると、大海人皇子は「出家します」と言って、奈良の吉野の山へこもります。
天智天皇の息子・大友皇子とのあいだで、次の天皇をめぐる争いが避けられなくなっていたからです。

このとき、夫について吉野へ行ったのが持統天皇でした。

翌672年、大海人皇子は吉野を出て兵を挙げ、大友皇子を破ります。古代最大の内乱、壬申の乱です。
持統天皇は夫とともに吉野を出て、伊勢の桑名(いまの三重県桑名市)まで同行しています。

ここで見方を変えると、少しせつなくなります。
夫が戦って滅ぼした大友皇子は、持統天皇にとって父の息子、つまり異母弟です。持統天皇は、父の家と夫の家が争ったとき、夫の側を選んだのでした。

息子の死と、自ら天皇へ

天武天皇が即位すると、持統天皇は皇后として夫の政治を支えます。
ふたりの息子・草壁皇子は皇太子になり、いずれ天皇になるはずでした。

686年、天武天皇が亡くなります。
その直後、天武天皇のもうひとりの息子で、姉・大田皇女が産んだ大津皇子が、謀反の疑いで死に追いこまれました。大津皇子は人望があり、草壁皇子のライバルと見られていた人です。持統天皇が息子のために手を打ったのでは、とみる見方もあります。

ところが689年、その草壁皇子が、即位する前に亡くなってしまいます。

残されたのは、草壁皇子の息子で、まだ数え7歳の軽皇子(のちの文武天皇)。
持統天皇は、この孫が大人になるまでのあいだ、自分が天皇になってつなぐことを選びます。

たとえるなら、社長だった夫が亡くなり、跡継ぎの息子も亡くなって、孫が育つまで奥さんが社長を引き受けたようなもの。
ただし持統天皇は「つなぎ」では終わりませんでした。

夫・天武天皇が始めたこと持統天皇がかたちにしたこと
国の法律づくり689年に飛鳥浄御原令を施行
新しい都づくり694年に藤原京へ遷都
薬師寺づくり夫の死後も工事を続け、完成へ

藤原京は、碁盤の目の道路をもつ、日本で初めての本格的な都です。
それまでは天皇が代わるたびに宮を建て替えていましたが、ここから「天皇が代わっても同じ都を使う」時代が始まります。

百人一首に選ばれている持統天皇の歌も、この藤原京から見た景色だといわれています。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

春が過ぎて夏が来たらしい。天の香具山に、真っ白な衣が干してあるというから。
香具山は、藤原京のすぐ東にある山です。

697年、持統天皇は数え15歳になった孫に位をゆずり、文武天皇が誕生します。
その文武天皇に娘の宮子を嫁がせたのが、藤原不比等でした。ここから、奈良時代の藤原氏の物語が始まります。

天皇で初めて火葬された

702年、持統天皇は数え58歳で亡くなります。
そして翌年、天皇として初めて火葬されました。

遺骨は、先に亡くなっていた夫・天武天皇のお墓に一緒に納められました。明日香村にある野口王墓(のぐちのおうのはか)と呼ばれる古墳です。
吉野へも戦場へもついていった妻は、最後も夫のとなりを選んだのでした。

奈良に残る持統天皇の足あと

持統天皇ゆかりの仏像は、いまも奈良市内で見ることができます。
夫・天武天皇が妻の病気平癒を願って建て始めた薬師寺と、祖父・石川麻呂を弔うために造られた興福寺の仏頭です。1日で両方まわれる距離にあります。

奈良時代へつづく

持統天皇が孫の文武天皇に位をゆずったとき、その文武天皇に娘を嫁がせたのが藤原不比等でした。
持統天皇が整えた律令と都のしくみの上で、今度は藤原氏が力をのばしていきます。その続きが、奈良時代です。

奈良時代をわかりやすく|天皇の系図と藤原氏の「振り子」で80年を整理奈良時代は、710年の平城京遷都から始まる約80年間です。 大仏、正倉院、万葉集。文化の話は華やかなのに、政治の話になると急に「藤原なんとか」がたくさん出てきて…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵