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博物館で何を見る?──縄文1万年と、弥生600年で変わった日本

土器がずらっと並んでいる。土偶がある。銅鐸がある。教科書で見たものだと分かるけれど、そのまま次の部屋へ──。

この記事では、縄文と弥生の展示を「深く見る」ための予習をします。見るときの軸を2〜3本持っていく。それだけで、同じ展示ケースの前で足が止まるようになります。

東京国立博物館(トーハク)の平成館1階・考古展示室を想定して書いていますが、どこの博物館でも使える内容です。

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博物館で何を見る[シリーズ一覧]

まず結論から──縄文と弥生は「別の時代」ではなく「別の世界」

縄文弥生
食べ方採る・獲る育てる
続いた長さ約1万年約600〜700年
住まい竪穴住居(炉は床の中央)竪穴住居+高床倉庫
貯めるあまり貯めない米を貯める
身分の差ほとんど見えないはっきり出てくる
争いの跡ほとんどない出てくる
金属なし青銅器・鉄器

「縄文が原始的で、弥生が進歩した」という話ではありません。そもそも生きる方針が違うのです。

縄文はその日の自然から受け取る暮らし。弥生は来年のために貯める暮らし。

貯めるようになると、貯めた量に差が出ます。差が出ると、身分が生まれます。そして貯めたものは奪えるので、争いが起きます。

展示室で何を見ればいいか迷ったら、この一点に戻ってください。

「貯めるようになると、何が変わるか」

これが縄文と弥生を分ける、たった一本の軸です。

縄文は、とにかく長い

縄文時代約1万年
弥生時代約600〜700年
古墳時代約350年
飛鳥〜現在約1400年

縄文だけ、桁が違います。

飛鳥時代から令和までの全部を足しても1400年ほど。縄文はその7倍以上続いています。

つまり「縄文人」とひとくくりにするのは、弥生時代から現代までの人を全部まとめて呼ぶようなものです。ムリがあります。

だから細かく分かれている

そのため縄文時代は、6つに区分されています。

区分おおよその時期
草創期約1万5000〜1万1000年前
早期約1万1000〜7000年前
前期約7000〜5500年前
中期約5500〜4500年前
後期約4500〜3300年前
晩期約3300〜2800年前

博物館の展示ケースは、たいていこの順に並んでいます。

展示室での使い方

ラベルに

  • 「縄文時代(中期)」と書いてあったら、5000年くらい前
  • 「縄文時代(晩期)」なら3000年くらい前で、弥生の直前

とくに晩期は重要で、このあたりから半島や大陸の影響が見え始めます

縄文の見どころ①:土器は「時計」である

考古学者が「これは何年前のものだ」と言えるのは、なぜでしょうか。

理由のひとつは、土器の形と文様が、時代と地域でめまぐるしく変わるからです。

土器は最古の発明品

縄文土器は、世界でも最古級の土器です。約1万5000年前にはもう作られていました。

何が革命的だったのか。煮られるようになったことです。

生では食べられないもの、硬いもの、アクの強いドングリ。煮ることで、食べられるものの範囲が一気に広がりました。土器は「鍋」の発明だったわけです。

だから縄文土器は深鉢が圧倒的に多い。煮炊きの道具なのですから当然です。

見るポイント

展示ケースの前では、この3つを確認してみてください。

① 形
深い鍋型か、浅い皿型か。基本はどの時期も深鉢ですが、時代が下ると浅鉢や注口土器が加わり、器の種類が増えていきます。煮るだけでなく、盛る・注ぐという場面が生まれたということです。

② 文様
縄を転がしてつけた縄目が基本ですが、粘土を貼りつけたり、竹で描いたり、時代によってまるで違います。

③ 縁(ふち)の飾り
中期の土器は、縁がぐにゃぐにゃと立ち上がるものがあります。実用品なのに、なぜここまで飾るのか──答えは出ていません。

トーハクで見るなら

③で書いた「縁の飾り」の、行き着くところがこれです。

火焔型土器 縄文時代中期 縁が炎のように立ち上がる(東京国立博物館蔵)
火焔型土器。縄文時代・中期(東京国立博物館・筆者撮影)

火焔型土器。縁から、炎とも鶏冠ともつかない突起が四方に噴き上がっています。しかもこれ、毎日使う煮炊きの鍋です。持ちにくいし、洗いにくい。

そのうえで、となりに並んでいる土器と見比べてみてください。

縄文土器が時期順に並ぶ展示(東京国立博物館蔵)
縄文土器。時期順に並んでいます(東京国立博物館・筆者撮影)

同じ「深鉢」でも、飾りの量がまるで違います。土器が時計になるというのは、こういうことです。

ところで、なぜ日本の先史時代だけ、土器の形で時代を区切っているのでしょうか。エジプトなら「第4王朝のクフ王の治世」という細かさで言えるのに、こちらは「縄文中期」でひとくくりです。

ここには、はっきりした理由があります。

ピラミッドができたころ、日本は縄文時代だった|世界史と日本史を並べた年表学校では、世界史と日本史を別々に習います。 エジプトのピラミッド、メソポタミアの楔形文字、中国の殷王朝。かたや日本は、縄文土器と竪穴住居。この二つが頭の中でつな…

縄文の見どころ②:土偶は、何のためのものか

考古展示室でいちばん人が集まるのが土偶です。

数と偏り

これまでに出土した土偶は、約2万点といわれます。そして、その多くに共通する特徴があります。

① ほとんどが女性像
胸や腹が強調され、妊娠しているように見えるものが多くあります。

② 多くが壊れた状態で出る
腕がない、脚がない、頭がない。しかも、壊れ方に規則性があるという指摘があります。

なぜ壊れているのか

ここが最大の謎です。主な考え方を並べます。

儀式説わざと壊すこと自体が儀式だった
身代わり説病気やケガの部分を壊して、災いを引き受けてもらった
豊穣祈願説女性像=子どもや実りへの祈り
自然に壊れた説長い年月で壊れただけ

どれが正しいか、決着はついていません。

そして祈りの道具は、土偶だけではありませんでした。

土面・土版・岩版 縄文時代晩期(東京国立博物館蔵)
左から2番目が土面、3・4番目が土版。縄文時代・晩期(東京国立博物館・筆者撮影)

土面(顔にあてる面)、土版岩版(文様を彫った平たい板)。どれも用途ははっきりしていません。

これは博物館の見方として大事なところで、「わかっていない」ことを知っていると、展示の前で考える時間が生まれます。答えを覚えて帰るより、謎を持ち帰るほうが面白いと私は思っています。

トーハクで見るなら

教科書でおなじみの、あの土偶です。

遮光器土偶 青森県つがる市亀ヶ岡出土 縄文時代晩期(東京国立博物館蔵)
遮光器土偶 宮城県大崎市恵比須田出土 縄文時代晩期(東京国立博物館蔵)

左:青森県つがる市・亀ヶ岡出土/右:宮城県大崎市・恵比須田出土。どちらも縄文時代・晩期(東京国立博物館・筆者撮影)

極端に大きな目が、雪の反射から目を守る遮光器(スノーゴーグル)に似ていることから、この名前がつきました。解説には、安産のお守りとして作られたのではないかという見方もあると書かれていました。ただし、はっきりしたことは分かっていません。

そして驚いたのが、遮光器土偶が1体ではなかったことです。

左は青森、右は宮城。同じような顔が、東北のあちこちから出ています。

「あの有名な1体」ではなく、あの顔が東北で流行っていたのです。

しかも土偶は、遮光器タイプばかりではありません。

展示ケースのキャプションを読んでいくと、河童形土偶、山形土偶、板状土偶、筒形土偶。出土地は茨城、群馬、新潟、福島、秋田、神奈川。時期も形も、ばらばらです。

「土偶」とひとくくりにしていましたが、1万年分の、しかも列島じゅうのものを並べているのだと気づかされました。

遮光器土偶は、縄文文化が1万年かけてたどり着いた到達点です。

そのすぐあと、日本列島には弥生文化が伝わり、社会はわずか600年で大きく姿を変えていきます。

縄文人も、海を渡っていた

ここが、この記事でいちばん伝えたい章です。

縄文というと「森の中で自給自足していた人たち」というイメージがあります。でも実際には、とんでもない距離をモノが動いています

黒曜石──石器の材料

黒曜石原石と槍先形尖頭器 北海道白滝出土(東京国立博物館蔵)
右が黒曜石の原石(北海道・白滝出土)、左がそれで作られた槍先形尖頭器(東京国立博物館・筆者撮影)

黒曜石は火山ガラスです。マグマが急速に冷えて固まってできた天然のガラスで、割るとカミソリのように鋭い刃になります。石器の材料として最高でした。

写真を見てください。右のごつごつした塊が原石。左の小さな刃が、そこから作られた槍の先です。同じ石です。

そして黒曜石は、採れる場所が限られます。北海道の白滝、長野の和田峠、佐賀の腰岳、そして伊豆諸島の神津島。

産地が限られるということは、出土した場所と産地が違えば、そこまで運ばれた証拠になるわけです。

なかでも驚くのが神津島です。島なので、船で行くしかありません。 それなのに、本州の遺跡から神津島産の黒曜石が出てきます。しかも縄文より前、旧石器時代のものからです。

つまり日本列島の人々は、3万年前にはもう海を渡っていたことになります。

ヒスイ──硬すぎる石

もうひとつがヒスイです。産地は新潟県の糸魚川(いといがわ)。

ヒスイは非常に硬い石で、鉄の道具がない時代に加工するのは相当な手間です。それでも縄文中期には、大きな玉(大珠)や勾玉が作られ、日本列島の広い範囲へ運ばれています

しかも面白いことに、糸魚川のヒスイは海を越えた先でも見つかります。朝鮮半島ではヒスイ(硬玉)が採れないので、韓国の遺跡から出る硬玉製の勾玉は、日本産の可能性が高いと考えられています。

縄文=閉じた世界、ではない

まとめます。

  • 石器の材料が、産地から何百キロも離れた場所で見つかる
  • 島でしか採れない石が、本州の遺跡から出る
  • 新潟の石が、海を越えた先まで届いている

縄文は、閉じた世界ではありませんでした。

この視点を持って弥生の展示を見ると、「弥生になって突然、外とつながった」のではないことがわかります。道はすでにあった。そこを何が通るかが変わっただけです。

弥生の見どころ①:土器が変わった=暮らしが変わった

ここから弥生です。

何が変わったか

弥生土器も、縄文土器と同じ素焼きです。粘土を焼いたものであることに変わりはありません。

でも、決定的に違う点が2つあります。

① 焼き方
土器に覆いをかぶせて焼く方法に変わりました。その結果、明るい色で、薄く、硬い土器になります。

② 器の種類が分かれた
ここが本題です。

甕(かめ)煮炊きする
壺(つぼ)貯める
高坏(たかつき)盛りつける
弥生土器。脚の付いた高坏、首の長い壺、口の開いた甕(東京国立博物館・筆者撮影)

縄文土器は深鉢が中心でした。つまり煮る道具です。ところが弥生では、煮る・貯める・盛るが分かれます。

さきほどの火焔型土器と見比べてみてください。飾りが、ほとんどありません。 形はすっきりして、用途ごとに分かれている。まるで別の世界の器です。

「壺」が意味すること

注目してほしいのは壺です。

貯めるための器が独立した──これは、貯めるべきものができたという意味です。米です。

米は保存がききます。だから来年まで持ち越せる。持ち越せるから、多く持つ人と少ない人の差が生まれる。

冒頭に書いた「貯めるようになると、何が変わるか」という軸を思い出してください。その変化が、器の形にそのまま現れています。

土器を見ているようで、社会の変化を見ていることになります。

トーハクで見るなら

弥生土器は、地域別に並べられています。前期は九州と近畿、中期は九州・近畿・東北、後期は九州と関東の出土品が中心です。

見るポイントは、同じ弥生土器でも地域で形が違うことです。稲作が広まっていった順番と、地域ごとの個性が同時に見えます

弥生の見どころ②:青銅器は「使わない道具」

弥生の展示でいちばん立派に見えるのが青銅器です。ここには面白い逆転があります。

銅矛(どうほこ)、銅剣(どうけん)、銅戈(どうか)。名前のとおり、もともとは武器です。朝鮮半島から入ってきた当初は、実際に使える大きさと厚みでした。

ところが日本列島に入ってからの変化が奇妙です。

どんどん大きくなり、そして薄くなる。

長さは1メートルを超えるものまで現れます。一方で刃は薄く、鋭さも失われていく。振り回したら折れそうな武器になっていくのです。

理由はひとつしか考えられません。使うためのものではなくなったからです。

銅鐸も同じ道をたどります。もとは中に舌(ぜつ)を吊るして音を鳴らす道具でしたが、時代が下るにつれて大型化し、装飾が増え、最後は音を鳴らす機能がなくなります。

実用品が、権威の象徴に変わる。

この変化は、輪郭の図と実物の写真で見ると一目で分かります。別記事にまとめました。

銅剣はなぜ刃がなくなったのか──形でたどる、弥生の青銅器博物館の弥生コーナーに、大きな銅剣が並んでいることがあります。 長さは50センチほど。幅が広く、堂々としている。ところが説明を読むと、こう書いてあります。 「刃…

なお銅鐸の多くは、集落から離れた丘の斜面などに埋められた状態で見つかります。祭りのたびに掘り出したという説、外部から隠したという説、役目を終えたので納めたという説──ここも決着していません。

銅鐸には「地元」がある

銅鐸は近畿地方を中心に見つかりますが、実は日本最多の一括出土例は出雲です。島根県の加茂岩倉遺跡では39個の銅鐸が、さらに荒神谷遺跡では358本もの銅剣が出土しました。かつては「銅鐸は近畿、武器形青銅器は九州」という見方が一般的でしたが、出雲の発見によって、出雲が独自の青銅器文化を築いていたことが明らかになりました。

トーハクで銅鐸を見るときは、ラベルの出土地を確かめてみてください。滋賀、香川、島根、徳島──どこで見つかったかを意識するだけで、分布という視点が加わります。

弥生の見どころ③:鉄と甕棺と、争いのはじまり

鉄は「作れなかった」

石から鉄へ。

この交代でいちばん大きく変わったのは、刃物の切れ味だけではありません。調達先です。

黒曜石は、遠く離れた産地のものでも日本列島の中で手に入りました。しかし・・・

弥生時代の日本列島には、鉄を作る技術がありませんでした。砂鉄や鉄鉱石から鉄を取り出す製鉄が始まるのは、ずっとあと(6世紀後半ごろ)と考えられています。ではどうしていたか。

素材を輸入して、叩いて道具に仕上げていました。

食材は輸入で、キッチンだけが国内にあった状態です。そして、その素材の主な供給元が朝鮮半島南部でした。

展示室で鉄器を見たら、「これは朝鮮半島からきた材料だ」と思ってください。それだけで、鉄斧ひとつの見え方が変わります。

甕棺(かめかん)

北部九州では、大きな土器を2つ合わせて棺にする埋葬が行われました。甕棺です。

見どころは、中身の差です。鏡やガラス玉がぎっしり入ったものと、何も入っていないもの。同じ墓地の中で、副葬品にはっきり差が出ます。

身分の差が、目に見える形で現れたわけです。冒頭の軸がここでも効いてきます。

争いの跡

弥生時代の遺跡には、それまでなかったものが現れます。

  • 環濠集落……周囲に濠をめぐらせた村
  • 高地性集落……見晴らしのいい山の上に作られた村
  • 受傷人骨……武器で傷つけられた跡のある人骨

鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡では、そうした人骨がまとまって見つかりました。

米を貯め、差が生まれ、奪い合いが始まる。豊かさと争いは、同じ蛇口から出てきました。

外とつながっていた証拠

もうひとつ、見逃せないものがあります。です。

多鈕細文鏡。大阪府柏原市出土、弥生時代・前2〜前1世紀(東京国立博物館・筆者撮影)

多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)といいます。名前のとおり、つまみ(鈕)が複数あり、鏡の背面に細かい文様がびっしり彫られた鏡です。

解説によれば、この鏡は朝鮮半島で製作されたもの。日本での出土例は少なく、近畿地方では銅鐸と一緒に見つかった例もあるそうです。

つまり弥生時代の青銅器文化が、半島の青銅器文化の流れの中にあることを示しています。さきほどの銅剣・銅矛と、同じ道を通ってきたわけです。

そしてもうひとつ。中国の貨幣も出ています。「貨泉(かせん)」という青銅の貨幣は、中国で作られた年代がはっきりしているので、出土した層の年代を決める物差しになります。

半島からも、大陸からも。縄文の黒曜石とヒスイが通った道を、今度は鏡と鉄と貨幣が通っていきました。

ではその鉄は、半島のどこから積み出されたのか。『魏志』倭人伝に名前の残る港があります。

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まとめ:3つの軸を持っていく

展示室で迷ったら、この3つに戻ってください。

  • 貯めるようになると、何が変わるか(縄文→弥生の全部がここに集約されます)
  • 縄文も、外とつながっていた(黒曜石とヒスイ)
  • 実用品が、権威の象徴に変わる(青銅器)

このあたりが気になった方へ

東京国立博物館の回り方|平成館・東洋館で古代をたどる1日モデルコース上野の東京国立博物館、通称「トーハク」。日本でいちばん古い博物館です。 トーハクをもっと楽しむために、私が事前に調べて書いた記事を、この1ページにまとめました。… 【国立金海博物館①】先史時代の金海——人類が選んだ豊かな大地「国立金海博物館」を、実際に訪問してきました。展示があまりに膨大だったので、全4回シリーズでお届けします。 第1回は、伽耶王国が生まれるはるか前の物語。「日本と… 【国立金海博物館②】伽耶誕生前夜 — 鉄が国家を呼んだ青銅器時代に稲作が本格化し、人々はムラを作り、リーダーを生み、やがて「鉄」という新しい力を手に入れます。そして鉄を求めて、四方から船がやってくる——金海が東アジ… 【国立金海博物館③】伽耶という国のかたち——人々の暮らしと「鉄の王国」の素顔前回の【国立金海博物館②】伽耶誕生前夜——鉄が国家を呼んだでは、鉄器の登場とともに「クニ」が芽生え、弁韓社会の有力者たちが現れる様子を見てきました。シリーズ全体…
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵