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正倉院の毒とは?猛毒「冶葛」と「雄黄」の謎をわかりやすく

奈良の正倉院には、聖武天皇の愛用品とならんで、たくさんの「薬」が納められています。

その中に、とびきり物騒なものが2つあります。

ひとつは、冶葛(やかつ)
葉を数枚口にしただけで命を落とすといわれる、植物の猛毒です。
納められたときは約16kgあったのに、いまは390gしか残っていません。

もうひとつは、雄黄(ゆうおう)
鳥の卵のような形をした、ヒ素をふくむ鉱物です。
火をつけると、さらに強い猛毒に変わります。

「誰かを毒殺するのに使われたのでは?」
そんな想像をかき立てる正倉院の毒の謎を、史料と年表をたよりに確かめてみます。

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正倉院に猛毒がある?

光明皇后が納めた60種類の薬

756年、聖武天皇が亡くなると、その四十九日に、光明皇后は夫の愛用品を東大寺の大仏に納めました。
これが正倉院の宝物のはじまりです。

このとき、愛用品とは別に、60種類の薬も一緒に納められました。
その目録が『種々薬帳(しゅじゅやくちょう)』です。

薬のラインナップは、いまの漢方でもおなじみのものがたくさんあります。

薬の名前どんなもの?
桂心(けいしん)シナモンの仲間の樹皮
大黄(だいおう)植物の根。いまも漢方で使われる
甘草(かんぞう)甘い根。いまも漢方の定番
人参(にんじん)朝鮮人参
麝香(じゃこう)ジャコウジカからとれる香料
冶葛(やかつ)猛毒

冶葛は、目録では21番目の櫃(ひつ)に「冶葛卅二斤」と記されています。
「卅二斤」は32斤。いまの重さにすると約16kgとされる、かなりの量です。

冶葛の正体は「葉3枚で命を落とす」植物

1200年たっても毒は生きていた

冶葛がどんな植物なのかは、長いあいだはっきりしていませんでした。

答えが出たのは、1996年のことです。
千葉大学の相見則郎教授が、正倉院の冶葛をわずか2.8gだけ調べたところ、1200年以上たっていたにもかかわらず、4種類の毒の成分(アルカロイド)が見つかりました。

こうして、冶葛の正体がゲルセミウム・エレガンスという植物だと確かめられたのです。

どんな植物?

ゲルセミウム・エレガンスは、中国南部から東南アジアに生えるつる性の植物です。
中国では「断腸草(だんちょうそう)」、つまり「腸がちぎれる草」という恐ろしい名前でも呼ばれてきました。

葉を3枚口に入れれば死んでしまう、といわれるほどの猛毒です。
日本には生えていない植物なので、正倉院の冶葛は、唐から運ばれてきたものと考えられます。

ひとことで言うと
冶葛は、唐から来た猛毒の植物。1200年たった今も、毒の成分は消えていませんでした。

約16kgが390gに──消えた毒の記録

冶葛がミステリーになったのは、その「減り方」です。

冶葛の量
75632斤(約16kg)が納められる
856点検で、2斤あまりしか残っていない
現在390g

納められてから100年のあいだに、9割以上がなくなっています
記録からは、かなりの量が持ち出されて使われた形跡がありますが、何に使われたのかはわかっていません。

猛毒が、大量に、用途不明のまま消えている。
ここから、さまざまな想像が生まれました。

目録に署名していた藤原仲麻呂

想像をさらにかき立てるのが、『種々薬帳』の最後にある署名です。

薬を納めた責任者として名前を連ねた人たちのなかに、藤原朝臣仲麻呂の名前があります。

藤原仲麻呂は、光明皇后の甥。
このころ光明皇后のもとで力をのばし、やがて奈良時代でいちばんの権力者になる人物です。
一方で、ライバルを次々に追い落とし、最後は反乱を起こして滅んだ人でもあります。

猛毒の目録に、権力者の名前がある。
「仲麻呂がこの毒を使って誰かを……」と考えたくなるのも、無理はありません。

「毒殺に使われた」説を時系列で確かめる

よく名前が挙がるのは、安積親王

仲麻呂による毒殺説でよく名前が挙がるのが、聖武天皇の息子・安積親王(あさかしんのう)です。

安積親王は、光明皇后の子ではない、聖武天皇のただひとりの男の子でした。
744年、難波へ向かう途中で脚の病気になり、恭仁京へ引き返して、その2日後に亡くなります。

そのとき恭仁京の留守を預かっていたのが、仲麻呂でした。
そのため、「仲麻呂が毒を盛ったのでは」と疑われるようになったのです。

ただし、奈良時代の歴史書『続日本紀』に書かれているのは、病気で急死したことだけ。毒殺の記録はありません。

年表を並べると、合わない

ここで、年表を並べてみます。

できごと
744安積親王が急死
756冶葛が正倉院に納められる
764仲麻呂が反乱を起こして敗死
856点検で冶葛がほとんど残っていない

安積親王が亡くなったのは、冶葛が正倉院に入る12年前です。
つまり、「正倉院の毒で安積親王を暗殺した」という話は、年代が合いません。

仲麻呂が正倉院の冶葛に手を出せたとすれば、756年から亡くなる764年までの8年間だけ。
ですが、仲麻呂が冶葛を持ち出したという記録は見つかっていません。

ほかにもある「毒殺説」

奈良時代の終わりには、聖武天皇の娘・井上内親王と、その息子の他戸親王が、皇后と皇太子の地位を追われ、775年に同じ日に亡くなっています。これも毒殺だったのでは、と言われることがあります。

こちらは冶葛が正倉院にあった時期と重なりますが、やはり冶葛が使われたことを示す記録はありません。

では、何に使われたのか

実は、『種々薬帳』そのものに、ヒントが書かれています。

光明皇后はこの目録のなかで、病に苦しむ人がいれば、僧の役所に知らせたうえで、これらの薬を使ってよい、と定めているのです。

正倉院の薬は、ただしまっておくための宝物ではなく、必要なときに人々を救うために使う薬でした。
光明皇后は、貧しい人や病人のための施設「施薬院(せやくいん)」をつくった人でもあります。

毒と薬は紙一重

「猛毒を病人に?」と思うかもしれません。
でも、昔の薬の考え方では、毒と薬ははっきり分かれていませんでした。

中国の古い薬の本では、薬を「上品・中品・下品」の3つに分けます。
下品(げほん)は、毒が強くて長く飲み続けてはいけないけれど、病気を治す力も強い薬。冶葛の仲間も、こうした「毒をもつ薬」として扱われてきました。

冶葛がどんな病気に、どのように使われたのか。はっきりした記録はありません。
ただ、正式な手続きで「薬として」持ち出された可能性は、十分に考えられるのです。

ひとことで言うと
消えた冶葛は、毒殺に使われたのかもしれないし、薬として使われたのかもしれない。はっきりしているのは、「わからない」ということです。

正倉院のもうひとつの毒「雄黄」

正倉院には、冶葛とは別に、もうひとつ猛毒があります。
雄黄(ゆうおう)です。

目録に載っていない「帳外品」

冶葛は『種々薬帳』に載っている薬でしたが、雄黄は目録に載っていません。
こうした目録の外にある宝物を「帳外品(ちょうがいひん)」と呼びます。

雄黄は、大仏開眼会の前日、752年4月8日の日付がある古文書に記録が残っています。
聖武天皇が亡くなる4年前には、すでに東大寺のそばにあったことになります。

ヒ素の鉱物で、燃やすと猛毒に

雄黄は、植物ではなくヒ素をふくむ鉱物です。
正倉院の雄黄は、名前は「雄黄」ですが、成分を調べると、よく似た仲間の鉱物「鶏冠石(けいかんせき)」だとわかっています。

そのままでも毒をもっていますが、火をつけると「亜砒酸(あひさん)」という、さらに強い猛毒に変わります。

冶葛雄黄
正体植物(ゲルセミウム・エレガンス)ヒ素をふくむ鉱物(成分は鶏冠石)
目録『種々薬帳』に載っている載っていない(帳外品)
根や茎を刻んだもの鳥の卵の形
ほかの使い道薬、黄色の絵の具

なぜ「卵の形」なのか

いちばん不思議なのは、雄黄が鳥の卵のような形にまとめられていることです。

中国には、「鴆(ちん)」という伝説の毒鳥がいます。
その羽を酒にひたしてつくる「鴆毒(ちんどく)」は、昔の中国で、暗殺や処刑に使われる毒の代名詞でした。

この卵の形は、鴆の卵を思わせるためではないか。そんな研究もあります。
もしそうなら、雄黄は「伝説の毒鳥の卵」として扱われていたのかもしれません。

絵の具としての雄黄

雄黄には、もうひとつの顔があります。
あざやかな黄色をしているので、中世ごろまで、黄色の絵の具として世界中で使われていました。

毒であり、薬であり、絵の具でもある。
雄黄は、奈良時代の人たちにとって、とても貴重な鉱物だったのです。

ひとことで言うと
雄黄は、目録に載っていない、卵の形をしたヒ素の毒。燃やすと猛毒になり、「伝説の毒鳥の卵」だったのでは、という説もあります。

史実・説・物語を仕分けする

最後に、正倉院の毒について語られる話を、確かさの順に並べてみます。

出どころ確かさ
正倉院に冶葛が納められた『種々薬帳』史実
目録に藤原仲麻呂が署名している『種々薬帳』史実
冶葛の正体はゲルセミウム・エレガンス1996年の成分分析史実
約16kgが、いまは390gしかない正倉院の記録と現状史実
病人のために使ってよいと定められていた『種々薬帳』史実
雄黄は卵の形をしたヒ素の鉱物正倉院の宝物・宮内庁の調査史実
雄黄の卵の形は、鴆の卵を表している研究者の説
安積親王は仲麻呂に毒殺された後世の推測
正倉院の毒で安積親王を暗殺した事実と説をつないだ話年代が合わない

参考にした資料

  • 『種々薬帳』(正倉院宝物)
  • 船山信次「天平時代の毒と薬」

このあたりが気になった方へ

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