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粛宗はなぜ「女性に翻弄された王」と誤解されるのか|換局が生んだ強い王権

ドラマで描かれる粛宗(スクチョン)は、女性をめぐるドラマ(張禧嬪VS仁顕王后)で語られがちですが。でも起きたことを順番に並べていくと、まったく違う姿が見えてきます。

46年の在位のあいだ、粛宗は西人と南人の対立をあえて利用し、政権を丸ごと入れ替える「換局」を3度も断行しました。その過程で、実の母や外戚の権威、そして自ら寵愛した女性さえも例外ではありませんでした

1674年|14歳の王を取り巻いていた勢力

1674年、粛宗は14歳で即位します。まずは彼が置かれていた状況を眺めてください。

即位 1674年(14歳)/在位46年、1720年まで
政権即位直前の礼訟論争に南人が勝ち、南人が政権を握っていた
明聖王后(清風金氏)。実家は西人で、党派色が強い
最初の正室仁敬王后(西人系の家柄)
王族「三福」と呼ばれる王族三兄弟が人気者で、南人と急接近

南人が政権、母と王妃の実家は西人、人気の王族は南人寄り。十代の少年なら、普通は母親を頼るところです。
しかし粛宗は、最後まで誰の側にもつきませんでした。

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1675年|最初の事件——紅袖之變(西人の攻撃)

三福とは、仁祖の孫にあたる福昌君・福善君・福平君の三兄弟です。粛宗にとっては父のいとこで、宮廷では兄のように親しい存在でした。

その三福が南人と急接近していく。これに危機感を抱いたのが、母・明聖王后の実家(西人)でした。

「南人を後ろだてにした三福に、まだ幼い息子の王座が脅かされる」

そして1675年、明聖王后の父・金佑明が告発状を出します。福昌君と福平君が、宮中の女官と密通していた——当時、王以外の男が女官と関係を持つのは重罪でした。

この事件を「紅袖之變(ホンスノヘン)」といいます。紅袖とは女官の衣装のこと。つまり「女官スキャンダル」という意味です。

粛宗はいったん二人を流罪にしますが、すぐに釈放します。

すると南人が猛反撃に出ました。「証拠のない告発だ。誣告した金佑明を処罰せよ」

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1675年|母・明聖王后、掟を破って泣く(南人が反撃)

追い詰められた明聖王后は、宮廷の絶対ルールを破ります。

「王妃や大妃は政治に介入してはならない」という掟を無視し、大臣たちの前に直接姿を現して、号泣しながら父の弁護を訴えたのです。

前代未聞の光景でした。南人からは「大妃が政治に介入するとは国家の品格を損なう暴挙」と一斉に叩かれ、父・金佑明はこの直後に世を去ります。

そして明聖王后の権威も、ここで失墜しました。掟を破って泣いた大妃を、誰も恐れなくなったからです。

※「この告発で西人が政権を失った」という説明も見かけますが、西人は前年(1674年)の礼訟論争ですでに負けていました。紅袖之變は、すでに敗れていた側が放った捨て身の一撃だったのです。

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1680年|5年前の疑惑が、南人を消し去る(南人→西人)

失敗に見えた告発が、じつは効いていました。

「王族が宮中の女官と通じていた」という疑惑は、消えずに宮廷に残り続けたのです。

1680年、南人の領袖・許積の一族に逆謀の疑いが持ち上がります。粛宗はこれを機に南人を一掃しました。庚申換局です。南人派の重鎮・許積(きょ せき)と尹鑴(ゆん ひゅ)は死を賜り、福昌君・福善君(処刑)、福平君(流刑)。三福が、5年前の疑惑もろとも消えました(三福の変)。

「三福の変」は、1675年の「紅袖之變」と混同されがちですが、1680年の庚申換局のなかで、三福が逆謀の罪で処罰された事件を指します。5年の開きがあります。

政権は西人へ19歳の王が仕掛けた、最初の総入れ替えでした。

同じ年、もう一つの出会いがありました

1680年の秋、最初の王妃・仁敬王后が亡くなります。

この直後から粛宗の目に留まりはじめたのが、宮女の張氏(のちの張禧嬪・チャン・ヒビン)でした。張氏の家は代々の訳官で、かなりの財産家。そして南人と縁故がありました。

しかし、母・明聖王后はそれを見抜きます。「あの娘を通じて南人が入り込んでくる」——明聖王后は張氏を宮廷の外へ追い出してしまいました。

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1683年|明聖王后の死

1683年、明聖王后が病で亡くなります。粛宗は22歳。

その権威を失わせたのは8年前の号泣事件からでしたが、外戚という一つの権力が、こうして舞台から消えました。

これで粛宗を縛るものは、ほぼなくなります。

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1686年|張禧嬪が宮中へ戻る

明聖王后がいなくなると、追い出された張氏は宮廷に戻ってきます。

1686年、彼女は淑媛の位を得ました。

意外な人物が関係しています。仲介したのは荘烈王后(チャンリョルワンフ)——仁祖の継妃で、粛宗の法的な曾祖母にあたる高齢の大王大妃です。そして張氏はもともと、この荘烈王后に仕える宮女でした。

ドラマでは、明聖王后(西人)との対立を描かれがちですが、実録の荘烈王后は本来おとなしく静かな性格で、政治にほとんど関与していません。ただし張氏を可愛がったのは事実で、政治工作ではなく、老いた大王大妃の個人的な情——そう読むほうが史実に近いようです。荘烈王后は1688年、張氏が王子を産む直前に世を去りました。

コラム:張禧嬪と運命をともにした孫・悪女と呼ばれた祖母

張禧嬪が宮外へ追われた時に保護したのは、崇善君夫人・申氏でした。荘烈王后にとって、実の姪であり、義理の息子の嫁にあたります。その申氏の息子が、ドラマ『チャン・オクチョン』にも登場する東平君です。

東平君は、母の家に身を寄せた張氏や、張氏の兄の張希載とも縁を結んでいきます。
そして1701年、張禧嬪が賜薬されたのと同じ年。「張希載と逆謀を企てた」として離島へ流され、42歳で賜薬されました。ただし粛宗は異例の措置を取ります。本来なら一族にも及ぶ連座を、東平君の息子たちには適用しないよう特命を出したのです。

実は、この東平君の祖母が、悪女の名を残した仁祖の側室・貴人趙氏。彼女もまた、呪詛した罪で賜死しています。仁祖の死から2年後の1651年、孝宗の代でした。彼女が呪詛したとされた相手は、荘烈王后と、嫁の申氏でした。

祖母は呪詛の罪で死を賜り、孫は50年後、別の呪詛事件の渦中で死を賜る。それでも崇善君の家系は断絶を免れました

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換局を武器にした王

ここで一度、時間を止めます。

粛宗が使いはじめた手法は「換局(ファングク)」と呼ばれます。政権をまるごと総入れ替えするリセット術です。

そして彼の換局には、必ずセットになっているものがありました。

寵愛と政権交代は、同時に動いていました

  • 南人が大きくなりすぎると、母の実家が残した疑惑を使って叩き潰す(庚申)
  • 西人が強くなると、張禧嬪(南人)を愛して世子を立て、西人を追放する(己巳)
  • 南人が調子に乗ると、仁顕王后(西人)を復位させて南人を処分する(甲戌)

どの派閥も、栄華のあとに必ず粛清されました。臣下は誰ひとり王に逆らえなくなり、粛宗は歴代でも屈指の強い王権を手にします。

ドラマでは「女性に翻弄された王」と描かれることが多い一方、史実では女性への寵愛と政権交代がたびたび重なっています。そのため、女性をめぐる出来事も王権を強める政治の一部だったと見るほうが、実像に近いのかもしれません。

残り2度の換局と、その後

1689年・己巳換局(西人→南人)。

張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ王子を世子にする件で対立が起こり、反対した西人が崩壊します。重鎮の宋時烈は死を賜り、仁顕王后(イニョンワンフ)は廃位張禧嬪が王妃の座に就きました。

1694年・甲戌換局(南人→西人)。

今度は西人による廃妃復位運動が動きます。仁顕王后が復位し、張氏は禧嬪へ降格。南人は再び政権を失いました。

1701年。

仁顕王后が世を去ったあと、張禧嬪は呪詛の罪で賜薬されます。

このとき粛宗のそばにいたのが、淑嬪崔氏(ドラマ『トンイ』のモデル)でした。
もとは宮女のなかでも最下級の身分でしたが、1694年に王子(のちの英祖)を産み、後に西人の支持を受け、張禧嬪を擁する南人と対立する存在になります。仁顕王后の死後には、淑嬪崔氏らの訴えなどをきっかけに宮中で取り調べが進み、呪詛事件へと発展しました。

普通なら、次の王妃は淑嬪崔氏でした。ところが粛宗は同じ1701年、こう定めます。

側室が、王妃に昇格することを禁じる。

側室が王妃になる、張禧嬪のような存在は、これで制度上ありえなくなりました。

ちなみに、朝鮮王朝で側室から王妃になれたのは、わずか4人。そのうち2人は賜死になっています。

  • 廃妃尹氏(成宗)…淑媛 → 王妃 → 廃妃・賜死
  • 貞顕王后 尹氏(成宗)…淑儀 → 王妃
  • 章敬王后 尹氏(中宗)…淑儀 → 王妃
  • 禧嬪張氏(粛宗)…昭儀 → 王妃 → 禧嬪へ降格 → 賜死

西人の支持を受けた淑嬪崔氏も、王妃の座を望むことすらできません。南人も、これ以降は二度と立ち直れませんでした。こうして粛宗は絶対的な権力(強い王権)を築きました。

西人は老論と少論という二つの派閥に分かれていきます。
やがてこの対立は、「次の王を誰にするか」という問題に重なっていきました。張禧嬪の子(第20代・景宗)か、淑嬪崔氏の子(第21代・英祖)か。
火は粛宗の晩年からくすぶりはじめ、その死後に一気に燃え上がります

最後に:派閥の話ばかりが目立ちますが、実務家としても多くの功績を残しています。

  • 1708年、大同法を黄海道まで広げ、全国施行を完成させる。
  • 禁衛営を設置し、五軍営体制を完成させる。
  • 清との国境に白頭山定界碑を建立する。
  • 約240年ぶりにクーデターで廃位された端宗と死六臣の名誉回復。
    ※ 端宗と彼に殉じた忠臣たち(死六臣など)を称えることで、「正統な王に忠義を尽くすのが最高の美徳だ」というメッセージを臣下に送りました。

国家制度の整備や歴史の名誉回復にも力を注いだ王でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵