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孝宗→顕宗→粛宗|トンイ・チャン・オクチョンの時代が5分でわかる

清に屈した父の無念を背負った第17代孝宗、喪服の年数をめぐる論争に消耗した第18代顕宗、そして14歳で即位し「換局」で派閥を操った第19代粛宗。

北伐の夢・礼訟論争・3度の換局——朝鮮王朝の復興と権力闘争の半世紀です。

ドラマ『トンイ』の淑嬪崔氏、『チャン・オクチョン』の禧嬪張氏が生きたのは、換局(権力闘争)の時代です。

系図(眺めるだけでつながりがわかる)

孝宗〜粛宗 朝鮮王朝系図 第17代孝宗から第21代英祖までの系図。王妃を緑、側室を桃色で示す 復興期 換局期 荘烈王后 仁祖の継妃・孝宗の継母 1688年まで存命 第16代 仁祖 在位 1623〜1649 次男 第17代 孝宗 在位 1649〜1659 北伐計画の王 長男 第18代 顕宗 在位 1659〜1674 礼訟論争に翻弄 一人息子 第19代 粛宗 在位 1674〜1720 換局を3度断行 禧嬪張氏 側室→王妃→1701賜薬 仁顕王后 1689廃位→1694復位 淑嬪崔氏 トンイのモデル 長男 次男 第20代 景宗 在位 1720〜1724 第21代 英祖 在位 1724〜1776 →『イ・サン』へ続く
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時代背景——北伐の夢、礼の論争、そして換局

①清への怒りを胸に、北伐を夢見た王

清に膝をついた父・仁祖の屈辱を間近で見た孝宗は、即位後に北伐計画——清を討って明の仇を取るという壮大な構想を掲げます。軍備を増強し、反清勢力との連携を模索しましたが、国力はまだ復興途上。計画は実現しないまま、在位10年で40歳の若さで亡くなります。

💡 北伐は本気だったのか?

北伐計画は国内の士気を高める「大義名分」としての側面も強く、実際に出兵する現実的な準備が整っていたわけではないという見方もあります。

皮肉なことに孝宗は、清の要請でロシア勢力の討伐に朝鮮軍を2度派兵(1654年・1658年)。清を討つはずの軍が、清のために戦うことになりました

②礼の論争に翻弄された、静かな王

顕宗の治世は、大きな対外戦争もなく大同法の普及も進んだ、比較的穏やかな時代でした。しかしその裏で、西人派と南人派が「喪に服す期間は何年か」という礼の論争をめぐって激しく争い、王はその板挟みに苦しみ続けます。

📚 礼訟論争とは?

孝宗と孝宗の妃が亡くなった時、継母の荘烈王后(チャンヨルワンフ)が何年間喪服を着るべきかをめぐって大論争が勃発。

1度目:孝宗西人派「1年でよい」→ 孝宗は次男だから
南人派「3年にすべき」→ 孝宗は王だから嫡長子と同じ扱い
2度目:孝宗の妃西人派「9ヶ月」
南人派「1年」

一見どうでもいい論争に見えますが、儒教国家では「礼」は政治そのもの。どちらが正しいかは、どちらの派閥が権力を握るかに直結していました。

1度目(1659年)は西人派が勝利、2度目(1674年)は南人派が勝利。2度目の論争が決着した年に、顕宗は33歳で亡くなります。

ちなみに、孝宗と顕宗の宮廷には、王妃の座をめぐる争いがありませんでした

孝宗の王妃・仁宣王后も、顕宗の王妃・明聖王后も、世子嬪として嫁ぎ、そのまま王妃になり、大妃になる。この王道をまっすぐ歩いた王妃は、朝鮮王朝では数えるほどしかいません。しかも顕宗には、側室が一人もいませんでした。

その静けさが、終わります

③換局を「武器」にした王

14歳で即位した粛宗が引き継いだのは、父の代から続く西人派と南人派の権力闘争でした。しかし粛宗は、その対立をあえて利用したんです。

「換局(ファングク)」——政権与党をまるごと入れ替えるという荒療治を3度断行し、どちらの派閥にも依存しない強い王権を築いていきます。

換局政権交代王妃の動き
庚申換局(1680)南人 → 西人*初の王妃・仁敬王后が亡くなった時期
己巳換局(1689)西人 → 南人仁顕王后が廃位、禧嬪張氏が王妃に
甲戌換局(1694)南人 → 西人仁顕王后が復位、禧嬪張氏が格下げ

ドラマや映画では、この時代の女性たちが宿敵同士として描かれます。しかも、同じ人物が、作品によって真逆になります。

人物『トンイ』『チャン・オクチョン』
禧嬪張氏権力に溺れた悪女王を愛した悲劇のヒロイン
淑嬪崔氏(トンイ)心優しいヒロインオクチョンを陥れる悪役
粛宗優しく穏やかな王冷徹で厳しい王

女性たちだけでなく、粛宗自身も真逆に描かれている——ここが面白いところです。

なお、換局の印象が強い粛宗ですが、端宗の復位や大同法の全国実施など、地味で息の長い仕事も残した王です。

④その後——息子二人が背負った代理戦争

1701年、禧嬪張氏に賜薬。南人派は、二度と政権の中枢に戻ることはありませんでした。

しかし争いが終わったわけではありません。勝ち残った西人派が老論と少論に割れ、その対立が粛宗の息子二人に重なっていきます。

  • 景宗(母=禧嬪張氏)を推す → 少論
  • 英祖(母=淑嬪崔氏)を推す → 老論
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タイムライン(時系列を追う)

できごと
1649年 孝宗即位 仁祖が崩御(享年54歳)。清への屈辱を胸に北伐計画を掲げる
1654年 第1次ナヒョン河の戦い 清の要請でロシア勢力討伐に朝鮮軍を派兵。北伐を夢見た軍が清のために戦う皮肉な結果に
1658年 第2次派兵 再び清の要請でロシア勢力討伐に派兵
1659年 孝宗 崩御(享年40歳) 北伐は夢のまま終わる。顕宗が即位。第1次礼訟論争が起き西人派が勝利
1674年 第2次礼訟論争 顕宗の母・仁宣王后の喪をめぐり南人派が勝利。同年、顕宗が崩御(享年33歳)。粛宗が14歳で即位
1680年 庚申換局 南人派から西人派へ政権交代。西人派がやがて老論・少論に分裂していく
1689年 己巳換局 西人派から南人派へ政権交代。仁顕王后が廃位され、禧嬪張氏(チャン・オクチョン)が王妃に
1694年 甲戌換局 南人派から西人派へ政権交代。仁顕王后が復位し、禧嬪張氏は「禧嬪」に格下げ
1701年 禧嬪張氏 薬殺刑(享年42歳) 仁顕王后の病没後、淑嬪崔氏(トンイ)に呪詛を告発され処刑。南人派は政権中枢に戻れなくなる
1720年 粛宗 崩御(享年60歳) 46年の治世を経て景宗が即位。老論(英祖派)vs 少論(景宗派)の争いへ
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵