好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

世宗の陰に隠れた兄弟たち!太宗の4人の息子、それぞれの運命

朝鮮第3代王・太宗(イ・バンウォン)。冷酷無比なこの王には、4人の息子がいました。同じ父の血を引きながら、王座・仏門・早世、そして冷酷な長老へと、運命はまったく違う方向へ枝分かれしていきます。ハングルの聖君・世宗の輝きの陰にいた、兄弟たちの物語です。

この4兄弟のおもしろさは、同じ父から生まれたのに、生き方が見事にバラバラなこと。王になった三男(世宗)が有名すぎて陰に隠れがちですが、残る3人の人生も、それぞれ一本のドラマになるほど濃いのです。

4兄弟の運命、ひと目でわかる

続柄人物どんな人生をたどったか
長男讓寧大君(ヤンニョンテグン)世子の座を追われて自由人に。老いては世祖側につき、甥たちの死まで求めた
次男孝寧大君(ヒョリョンテグン)政治を捨てて仏門へ。兄弟で最長の90歳まで生きた
三男忠寧大君 = 世宗ハングルを生んだ、朝鮮随一の聖君
四男誠寧大君(ソンニョンテグン)わずか14歳で早世。冷徹な父・太宗が号泣した

「讓寧大君」という呼び名は、実は世子を廃されたあとに付けられた称号です。「讓(ゆずる)」の字も、位を譲った意味からきています。つまり世子時代の彼を「讓寧兄さん」と呼ぶドラマは、じつは考証ミス。本人がいたら「その名で呼ぶのは、まだ早いで」と苦笑いするかもしれません。

AD – 読み進める前のひとやすみ

長男・讓寧大君|「譲った聖人」か、「冷酷な長老」か

4兄弟でいちばん謎めいているのが、この長男です。

廃位の美談の真相
讓寧大君といえば、「天才の弟・世宗のために、わざと狂ったふりをして王の座を譲った」という美談が有名です。ところが——このわざと狂気の話、正史(実録)には出てきません。金時養の『紫海筆談』など、後世の野史に数多く登場するものです。決定打は正祖(チョンジョ)の時代で、彼を「譲る徳(至徳)」と讃え、「至徳祠(チドクサ)」という祠堂まで建てたことで、美しい譲位物語として定着しました。

実際の廃位理由は、酒・妓生・人妻をめぐる素行問題。実録からは、兄弟の関係は後世に語られるほど円満一色ではなかったこともうかがえます。ただし完全な作り話とも言い切れず、讓寧が姉に「忠寧(世宗)は普通の人ではない」と漏らした記録も残っています。“譲位の聖人”は後世の美化、でも弟の器を認めていた気配はある——真相は、いまも藪の中です。

衝撃の後半生
自由人として長生きした讓寧は、世宗・文宗・端宗より長く生き、王室の最長老になります。そして甥の首陽大君(=世祖)が幼い端宗から王位を奪ったとき、彼は世祖の側につきました。

王室の長老として、甥・安平大君の死を積極的に主張し(1453年)、さらに端宗を担ごうとする勢力も「殺すべきだ」と強硬に迫りました。王室のためなら情を切り捨てる姿勢は、父・太宗を思わせます。

AD – 読み進める前のひとやすみ

対照的な次男と四男

次男・孝寧大君は、弟に王位が渡ると見るや政治から身を引き、仏教に深く傾倒しました。兄弟でいちばん長い90歳まで生きた処世の達人です。ちなみに、讓寧が弟をからかって言ったとされる名言が残っています——「わしは果報者よ。生きては王(世宗)の兄、死しては仏(孝寧)の兄になるのだから」。兄の自由さと、弟の仏道が一度に伝わる一言です。

四男・誠寧大君は、正反対の運命でした。聡明で父に愛されながら、わずか14歳で病に倒れます。あの冷徹な太宗が、我が子の死に人目もはばからず号泣したと伝わる、数少ない父の涙のエピソードです。

数百年後の伏線回収|讓寧大君の子孫が、初代大統領に

最後にひとつ、歴史のロマンを。世子の座を追われた讓寧大君——その血筋から、およそ500年後、大韓民国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン)が現れます(讓寧大君の16代目の子孫にあたるとされます)。王になり損ねた長男の家系が、巡り巡って近代国家のトップへ。歴史はときどき、こういう長い伏線を回収してくるのです。

ハングルを生んだ世宗の偉業は、あまりに眩しくて、つい兄弟の影を忘れさせます。けれどその陰には、位を譲った(あるいは追われた)長男、仏に生きた次男、早世した末子がいて、それぞれの人生が朝鮮王朝史のもう一つの流れを作っていました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵