5〜7世紀の東アジアでは、中国の南北朝がしだいに隋・唐へまとまり、日本列島でも巨大古墳をシンボルとする王権から、都城と律令にもとづく「国家」のかたちへと移っていきます。
この特集では、「倭国の大王」が「日本国の天皇」と名乗るプロセスを一本の流れとしてとらえ、古墳終末期の王権の見せ方、飛鳥〜藤原京の都城ネットワーク、そして国号・天皇号・律令パッケージの導入・整備という三つの視点から整理します。
巨大古墳で力を誇示していたヤマト王権は、やがて飛鳥の宮と寺院の景観を舞台に威信を示すようになり、さらに藤原京という計画都市と律令法・国号「日本」をセットで掲げる国家像へと移っていきます。
中国の史書には「倭国」が「日本」と名乗る動きが記録され、遣隋使・遣唐使を通じて、都城計画や律令制度といった隋・唐のパッケージが段階的に取り込まれていきます。
こうした変化は、物部氏・蘇我氏・大伴氏・中臣氏(のち藤原氏)といった氏族が、それぞれの時期に軍事・仏教・祭祀・制度づくりを分担しながら、大王家のまわりで役割を交代していく過程としても見ることができます。
特集の層構造
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個別ノート
古墳はなぜ終わり、寺院が並ぶ?(王権の“見せ方”の転換) 古墳 日本横断
ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期…
都はなぜ移り、どこに集約する?(飛鳥〜藤原京の都城ネットワーク) 飛鳥 日本横断
ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期…
倭はなぜ「日本」と名乗り、何を整えた?(国号・天皇号・律令パッケージ) 飛鳥 日本横断
ー 【特集】倭国から日本国へ(国号・都城・律令:古墳後期…
年表
関連するグループノート
物部氏:武器と祭祀を担った王権軍事氏族
物部氏は、古墳〜飛鳥移行期のヤマト王権で武器庫と軍事力、神々の祭祀を担った氏族であり、仏教受容をめぐる対立の中で蘇我氏に敗れて古い軍事エリート秩序が崩れていく過程を象徴している、いわば終末古墳時代の秩序を体現した側である。
蘇我氏:飛鳥王権を支えた仏教推進・政治中枢氏族
蘇我氏は、大王家の外戚として、仏教受容と律令国家への橋渡し段階で政治の実務中枢を担った有力氏族。仏教・寺院・飛鳥の宮タウンをガンガン推進する「古墳から寺・宮への転換の推進役」。
大伴氏:遠征と護衛で王権を支えた軍事エリート
大伴氏は、4〜7世紀の倭王権で遠征・護衛・対外実務を担った軍事氏族で、6世紀前半に大伴金村を頂点とする中央軍事トップとして最盛期を迎えたのち失速するが、大伴部博麻や大伴吹負に見られるように、白村江の戦いや壬申の乱の前線ではなお活動していた。
中臣氏:祭祀氏族から律令国家の中枢へ
中臣氏(のち藤原氏)は、古代日本で天皇祭祀を担う神祇氏族として台頭し、乙巳の変と大化改新を契機に律令国家の制度づくりと宮都政治の中枢へ進出した氏族であり、祭祀エリート → 乙巳の変で前面に出る → 律令・都城・国号の「日本」パッケージ整備への深い関与、という流れで理解できる。
関連する人物ノート
継体天皇:地方王から迎えられた「立て直し」の大王
継体天皇は、ヤマト王権の王位が途絶えかけたときに越前系の男大迹王として地方から迎えられたとされる大王であり、巨大古墳のピークを過ぎた5〜6世紀の段階で、地方勢力を取り込みつつ王権を立て直した存在として、古墳終末期の起点を象徴している。
推古天皇:飛鳥政権と仏教受容を主導した初の女帝
推古天皇は、日本初・東アジア初の女帝として、蘇我馬子と厩戸皇子を調整しながら飛鳥の宮と寺院を軸とする政権を運営し、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使などを通じて、巨大古墳の時代から「宮+寺+都城+律令」へと向かう国家形成の初期段階を担った統治者である。
聖徳太子:飛鳥政権の制度づくりと仏教受容を象徴する皇太子
聖徳太子は、推古天皇のもとで摂政・皇太子として政治の前面に立ち、仏教保護や冠位十二階・十七条憲法、遣隋使などを通じて、豪族連合的な倭王権から、中国式官制と仏教を取り込んだ飛鳥政権へ移り変わる初期段階を象徴する人物である。
小野妹子:倭王権の自己紹介を東アジアに運んだ遣隋使大使
小野妹子は、推古・聖徳太子政権のもとで隋に二度渡った遣隋使の大使であり、「日出づる処の天子…」の国書を携えて倭王権を「天子」と名乗るメッセージを東アジアに送りつつ、隋から制度・仏教・知識を持ち帰る。
天智天皇:蘇我打倒から近江遷都まで、律令国家準備を進めた改革の軸
天智天皇(中大兄皇子)は、乙巳の変で蘇我氏の専横を終わらせて大化改新を主導し、白村江の敗戦を経て近江大津宮に都を移し、戸籍(庚午年籍)や近江令などを通じて、倭王権を天皇中心の律令国家へ近づける「準備段階」の政治と空間づくりを担った人物である。
中臣鎌足:大化改新で律令国家の制度づくりを動かした官人
中臣鎌足(藤原鎌足)は、神祇氏族出身の中央官人として中大兄皇子と結び、645年の乙巳の変で蘇我氏を倒して大化改新を推し進め、内臣として中国式の官制・律令・礼制の導入を準備したのち、死に際して「藤原」姓を与えられ、のちに日本国の律令国家を動かす藤原氏政権の出発点となった人物である。
天武天皇:壬申の乱から皇族国家へシフトさせた天皇
天武天皇(大海人皇子)は、672年の壬申の乱で天智系を倒して即位し、飛鳥浄御原宮を拠点に八色の姓や皇族中心の官僚制、藤原京構想・律令編纂準備などを進めることで、豪族連合的な倭王権を「天皇と皇族を軸にした律令国家」へと大きく近づけたキーパーソンである。天武朝で天皇号が制度的に定着したと考えられる。
持統天皇:藤原京と継承ルールで律令国家を固めた女帝
持統天皇は、天武天皇の皇后として壬申の乱後の新王権を支え、その崩御後に自ら女帝として即位して飛鳥浄御原令の施行と藤原京遷都を実現し、親子継承を重視する皇位継承の運び方とともに、「天皇と都城・律令」をセットにした日本古代国家のかたちを実地に固めていった人物である。
参考資料
『隋書』東夷列伝 倭国伝 🇯🇵
倭国の位置・風俗・歴史を先行史書から要約しつつ、開皇20年(600)の朝貢や大業3年(607)の「日出づる処の天子…」国書事件など推古・聖徳太子期の遣隋使外交を具体的に記録した中国側の公式史料。
※なお、『隋書』倭国伝に見える開皇20年(600)の朝貢記事は、『日本書紀』推古紀には対応する記述がなく、中国側史料にのみ現れる初期接触として扱われている。
『日本書紀』:天皇史を再構成した朝廷公式ヒストリー
『日本書紀』は、天武天皇の勅命で始まった「帝紀・旧辞整理」を土台に奈良朝で完成した天皇中心の漢文史書で、天孫降臨から続く神話的な長い皇統と、律令にもとづく統治システムをセットで描き出すことで、「私たちの王朝は神代から連なる正統な天皇の国であり、中国式の正史にも乗るレベルの律令国家だ」と、内側の人びとにも東アジア世界にも納得させようとした朝廷側の自己物語の中核テキストである。
『旧唐書』東夷伝 倭国・日本国条 🇯🇵
『旧唐書』東夷伝では、高麗・百済・新羅と並んで倭国条と日本国条を別立てで収めつつ、「日本国は倭国の別種なり。その国は日の辺にあるので日本と名づける」「倭国を併合し、国号を倭から日本に改めた」といった説明を添えており、倭の大王が「日本」という新しい国号で自らを称し始めた動きを、唐側がどのように理解しようとしたかを示す(中国側の名称切り替えの解釈メモ)。
『新唐書』東夷伝 日本条 🇯🇵
『新唐書』東夷伝 日本条は、旧唐書で別項だった倭国・日本国の記事を整理し、「昔は倭奴国と称したが、今は日本と名乗る」「日本は倭を併合して国号を改めた」といった説や天皇系譜・冠位制度を一つの〈日本〉伝にまとめたもので、7世紀の倭国から日本国への移行を、唐〜宋の中国側がどのように“歴史として整理しなおしたか”を示す、後世の視点からの名称・系譜解釈の重要な手がかりとなる。
