朝鮮王朝史上最悪の暴君として名高い、第10代・燕山君(ヨンサングン)。ところが即位した当初は、国防や民の救済に心を配る、むしろ賢明な王でした。その青年が、なぜ狂気の暴君へと変わってしまったのか。二度の大粛清(士禍)の裏にある悲劇を、副読本として答え合わせします。
燕山君の暴走を生んだのは、重なり合った2つの圧力です。
- ① 臣下(士林派)からの執拗な批判によるストレス。
- ② 毒殺された実母への、断ち切れない思慕。
この2つが重なったとき、賢かったはずの青年王は臣下の信頼を完全に失い、暴君へと変わっていきました。
最初から暴君だったわけではない
1494年に即位した燕山君は、当初はまともな王でした。
毎日のように開かれる勉強会(経筵)で、士林派の官僚たちは「王たるもの、こうあるべきです」「それは儒教の教えに反します」と、正論で王を詰めます。彼らが陣取る三司(サムサ)は、そもそも王や臣下の不正を批判するための言論機関。もとはといえば、力を持ちすぎた勲旧派を抑えるために、父・成宗が地方から登用した若手たちでした。
燕山君には父・成宗のような「耐え忍ぶ心」がありませんでした。
正しさは分かる。でも燕山君にとって、その批判はただの執拗なストレスでしかなくなっていきます。「このうるさい若造たちを黙らせたい」——そう思い始めた王に、士林派を叩き潰したい勲旧派が近づいてきました。
このあたりの詳しい時代背景はこちらで👇
朝鮮王朝の系図(太祖〜明宗)|勲旧派vs士林派と四大士禍・派閥争いの原点初代・太祖から第13代・明宗まで——13人の王の系図と、のちの党争につながる「派閥のはじまり」を一枚にまとめました。 韓国時代劇を観ていると当たり前のように出て…
二度の士禍——同じ粛清でも、中身は正反対
| 戊午士禍(1498) | 甲子士禍(1504) | |
|---|---|---|
| ひとことで | 政治的な利害の一致 | 実母の死を知った復讐 |
| 引き金 | 金宗直の文章を弟子が歴史の下書きに載せた | 生母・廃妃尹氏が賜死された真相を知る |
| 標的 | 主に士林派 | 士林も勲旧も——朝廷全体 |
| 構図 | 「言論を黙らせたい王」+「士林を潰したい勲旧派」 | 個人的な復讐+専制の総仕上げ |
① 戊午士禍(1498)——利害の一致
士林派の学者・金宗直(キム・ジョンジク)が書いた「弔義帝文(チョウィジェムン)」という文章が発端です。これは、項羽に殺された楚の義帝を悼む形を借りて、第7代・世祖が甥の第6代・端宗から王位を奪ったことを暗に批判したもの。弟子の金馹孫(キム・イルソン)がこれを歴史の下書き(史草)に載せていたのが露見し、「言論を消したい燕山君」と「士林を潰したい勲旧派」の利害が一致。多くの士林派が処刑・追放されました。
つまり戊午士禍は、ずっと前の世祖のクーデターが、50年後に燃え上がった火種でもあったのです。
② 甲子士禍(1504)——狂気の復讐
本当の悲劇はここからでした。燕山君はついに、長年隠されていた生母・廃妃尹氏(成宗の時代に賜死された)の死の真相を知ってしまいます。母の死に関わった者への復讐に狂った王は、約7か月に及ぶ凄惨な粛清を始めました。士林派にとどまらず、王族や勲旧派も犠牲になりました。生母を陥れた側室たちを殺害し、勲旧派の大立者・韓明澮らすでに死んだ者の墓まで暴く剖棺斬屍(プグァンチャムシ)を強行。かつて母を追い詰めた祖母・仁粋大妃にも暴力をふるい、まもなく死に至らしめたと伝わります。これは母の復讐であると同時に、自分を掣肘する者すべてを潰す“専制の総仕上げ”でもあったのです。
官僚からの執拗な批判による精神的な抑圧と、母への悲劇的な思慕。この二つが重なり合った結果、一人の青年王は史上最悪の暴君へと変貌を遂げていったのです。
暴君は倒された(中宗反正)
暴走を止める術を失った朝廷では、1506年、ついに勲旧派を中心としたクーデター「中宗反正(チュンジョンパンジョン)」が起き、燕山君は廃位、江華島へ流されました。配流されてからおよそ2カ月後、数え年31歳(満30歳)で亡くなりました。
クーデターで担ぎ出されたのが、異母弟の中宗(チュンジョン)。中宗は「勲旧派のおかげで王になれた」という大きな弱みを抱えていました。勲旧派の力を抑えようと士林派を重用したものの、最後まで彼らを押さえ込むことはできませんでした。
