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朝鮮王朝の系図(太祖〜明宗)|勲旧派vs士林派と四大士禍・派閥争いの原点

初代・太祖から第13代・明宗まで——13人の王の系図と、のちの党争につながる「派閥のはじまり」を一枚にまとめました。

「勲旧派」「士林派」、そして4度くり返される「士禍(サファ)」。その原点は、世祖のクーデターと、名君・成宗の一手にありました。まずは系図で全体像を、そのあと派閥の生まれ方を図で追っていきましょう。

系図(人物関係を一目で)

太祖から明宗の系図を整理します。

朝鮮王朝系図:初代 太祖〜第13代 明宗(兄弟・横並び版) 初代太祖から明宗までの血統を世代ごとに横並びで示し、癸酉靖難・中宗反正で王位が血統どおりに流れなかった箇所を赤で示した系図 初代 太祖(李成桂) 在位 1392〜1398 『六龍が飛ぶ』 兄弟 第3代 太宗(李芳遠) 在位 1400〜1418 『太宗イ・バンウォン』 第2代 定宗 在位 1398〜1400 三男 第4代 世宗 在位 1418〜1450 『根の深い木』 兄弟 第5代 文宗 在位 1450〜1452 第7代 世祖(首陽大君) 在位 1455〜1468 ⚔️ 癸酉靖難(1453) 第6代 端宗 在位 1452〜1455 『王女の男』 懿敬世子 追尊 德宗・成宗の父 第8代 睿宗 在位1年余りで崩御 甥が継承 第9代 成宗 在位 1469〜1494 『王様と私』 兄弟 第10代 燕山君 在位 1494〜1506 『暴君のシェフ』 第11代 中宗 在位 1506〜1544 『七日の王妃』 ⚡ 中宗反正 兄弟 第12代 仁宗 在位1545・8か月で崩御 第13代 明宗 在位 1545〜1567 『女人天下』 弟が継承 緑=在位した王/ピンク=廃位・悲劇の王/グレー=即位せず  ⚔️⚡=クーデター(王位の簒奪)
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勲旧派と士林派はどこから生まれた?

この2つの派閥は、ある日ポッと現れたわけではありません。高麗が滅びる激動の時代、儒学者たちが「新しい王朝に協力するか/しないか」で二手に分かれた——そこが出発点です。

勲旧派と士林派の起源 高麗末期の儒学者が、新王朝に協力した勲旧派と、節義を守り道統を継いだ士林派に分かれる流れ 高麗末期(14世紀末)の 儒学者たち 新王朝に協力 協力を拒否(節義) 新王朝の建国に協力 (鄭道伝ら) 朝鮮建国の功臣 世祖クーデターの功臣が主力 ▲ 勲旧派の中核はここ 勲旧派 韓明澮・申叔舟ら(成宗期に権力) 高麗への節義を守り拒否 鄭夢周(源流・象徴) 吉再が地方で学問・教育に専念 道統を師弟で継承 吉再→金叔滋→金宗直 士林派 金宗直の門人を成宗が登用
勲旧派(フングパ)士林派(サリムパ)
出自建国・クーデターの功臣=中央の重臣地方で朱子学を学んだ新興の学者
今でいうと利権を握るベテラン大物コンプラ第一の理想主義者
力の源官職・土地・王室との姻戚道徳・言論(三司)
役回り既得権益を守る既得権益を正す
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四大士禍とは?——くり返された士林派弾圧

対立の火種をまいたのは、第9代・成宗でした。力を持ちすぎた勲旧派を抑えるため、地方から士林派をスカウトし、王の言論機関「三司(サムサ)」に配置します。三司の役目は、王や臣下の不正を批判すること。

成宗が士林派を登用して火がついた対立は、燕山君から明宗まで約50年のあいだ4度の大弾圧となってくり返されます。これを「四大士禍」と呼びます。

「士禍」とは、士林派が「反乱」ではなく、「罪のない士林が受けた災い」と考えて名付けた呼び方です。

対立の火種をまいた成宗燕山君(戊午士禍・甲子士禍)

戊午士禍燕山君1498:士林派の学者・金宗直(キム・ジョンジク)の文章が「世祖の王位簒奪を批判している」と勲旧派から問題視されたことがきっかけでした。士林派を排除したい勲旧派と、たび重なる諫言を疎ましく感じていた燕山君の思惑が一致し、多くの士林派官僚が処刑・追放されました。
甲子士禍燕山君1504:燕山君は、生母・廃妃尹氏が賜薬によって処刑されていた真相を知り、激しい復讐に走ります。士林派だけでなく、勲旧派や王族、外戚まで巻き込んだ大粛清となりました。

中宗(己卯士禍)と明宗(乙巳士禍)

己卯士禍中宗1519:勲旧派は燕山君を追放するクーデター(中宗反正)を起こし、中宗を王に擁立しました。しかし、今度は勲旧派の力が強すぎて、中宗は思うように政治を行えません。そこで中宗は、理想に燃える改革者・趙光祖(チョ・グァンジョ)ら士林派を重用して勲旧派を牽制します。ところが改革が急進的になると、中宗は趙光祖を見捨て、勲旧派と手を組んで士林派を粛清しました。
乙巳士禍明宗1545:明宗の即位後、文定王后(ムンジョンワンフ)の実家「小尹」と、前王妃側の「大尹」が激しく対立します。この外戚争いで文定王后側が勝利し、多くの反対勢力や士林派が粛清されました。
これにより文定王后と弟・尹元衡(ユン・ウォニョン)の政権が確立し、その後は三大悪女の1人として有名な鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)も大きな影響力を持つようになります。

4回の士禍は、いわば士林派の4連敗

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その後——4連敗の士林派が、最後に勝つ

世祖の功臣たちは高齢化や死去によって次第に姿を消し、さらに文定王后・尹元衡の専横によって政治への不満も高まります。一方、士林派は度重なる士禍を乗り越え、地方で学問と人材育成を続けながら勢力を拡大していきました。

負け続けたはずの士林派が、最終的に朝鮮の主流派になったんです。中央で叩かれても、地方の書院(私設の学校)で人材を再生産し続けたから——ここが士林派の勝因です。

そして第14代・宣祖の代、ついに政権を握った士林派。ところが今度は彼ら自身が東人・西人…と分裂し、『トンイ』や『イ・サン』でお馴染みの「党争」の時代へ突入します。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵