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「勲旧派 vs 士林派」と四大士禍とは?|韓国時代劇の派閥争いの原点

韓国の時代劇を観ていると、必ずと言っていいほど登場する、朝廷のドロドロした派閥争い。その原点は、建国以来の重臣「勲旧派(フングパ)」と、地方から現れた新興の学者「士林派(サリムパ)」の激突です。士林派は四度もの大粛清(四大士禍)で叩かれながら、しぶとく生き延び、やがて天下を取ります。

この記事は、あの『トンイ』や『イ・サン』でもおなじみの派閥争いの原点についてです。

朝鮮の派閥争いは、大きく前後編に分けると一気に分かりやすくなります。

  • 【前編】勲旧派 vs 士林派(世祖〜明宗)=この記事。 四大士禍で士林が叩かれ続けた時代。
  • 【後編】朋党政治(宣祖〜正祖)。 勝った士林が、今度は内部で分裂していく時代。

「なぜ士林派が主役になれたのか?」から見ていきましょう。

勲旧派 vs 士林派——「既得権益」と「理想主義」

勲旧派と士林派はどこから生まれた?

高麗末期(14世紀末)
    ↓
   儒学者たち
  /     \

新王朝に協力   協力を拒否
(鄭道伝など)  (吉再など)
  ↓       ↓
朝鮮建国に参加  地方で学問・教育に専念
  ↓       ↓
建国功臣が誕生  師弟へ学問(道統)を継承
  ↓       ↓
世祖の功臣も   金宗直らが登場
加わる 
  ↓       ↓
勲旧派      成宗が中央へ登用
           ↓
          士林派
勲旧派(フングパ)士林派(サリムパ)
出自建国・クーデターの功臣=中央の重臣地方で朱子学を学んだ新興の学者
今でいうと利権を握るベテラン大物コンプラ第一の理想主義者
力の源官職・土地・王室との姻戚道徳・言論(三司)
役回り既得権益を守る既得権益を正す

対立の火種をまいたのは、第9代・成宗でした。力を持ちすぎた勲旧派を抑えるため、地方から士林派をスカウトし、王の言論機関「三司(サムサ)」に配置します。三司の役目は、王や臣下の不正を批判すること。

勲旧派からすれば「どこからか来た若造が、俺たちのやり方にケチをつけてくる」——こうして朝廷はバチバチの緊張状態に包まれ、士林が叩かれる「士禍」の時代が始まります。

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四大士禍とは?——士林が被った4つの災い

朝鮮王朝では、燕山君から明宗の時代(約50年のあいだ)にかけて4回の大規模な士林派弾圧が起こりました。これをまとめて「四大士禍(しだいしか)」と呼びます。

「士禍」とは、士林派が「反乱」ではなく、「罪のない士林が受けた災い」と考えて名付けた呼び方です。

士禍何が起きた?
戊午士禍燕山君1498:士林派の学者・金宗直(キム・ジョンジク)の文章が「世祖の王位簒奪を批判している」と勲旧派から問題視されたことがきっかけでした。士林派を排除したい勲旧派と、たび重なる諫言を疎ましく感じていた燕山君の思惑が一致し、多くの士林派官僚が処刑・追放されました。
甲子士禍燕山君1504:燕山君は、生母・廃妃尹氏が賜薬によって処刑されていた真相を知り、激しい復讐に走ります。士林派だけでなく、勲旧派や王族、外戚まで巻き込んだ大粛清となりました。
己卯士禍中宗1519:勲旧派は燕山君を追放するクーデター(中宗反正)を起こし、中宗を王に擁立しました。しかし、今度は勲旧派の力が強すぎて、中宗は思うように政治を行えません。そこで中宗は、理想に燃える改革者・趙光祖(チョ・グァンジョ)ら士林派を重用して勲旧派を牽制します。ところが改革が急進的になると、中宗は趙光祖を見捨て、勲旧派と手を組んで士林派を粛清しました。
乙巳士禍明宗1545:明宗の即位後、文定王后(ムンジョンワンフ)の実家「小尹」と、前王妃側の「大尹」が激しく対立します。この外戚争いで文定王后側が勝利し、多くの反対勢力や士林派が粛清されました。
これにより文定王后と弟・尹元衡(ユン・ウォニョン)の政権が確立し、その後は三大悪女の1人として有名な鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)も大きな影響力を持つようになります。

4回の士禍は、いわば士林派の4連敗。でも面白いのは、負け続けたはずの士林派が、最終的に朝鮮の主流派になったことです。中央で叩かれても、地方の書院(私設の学校)で人材を再生産し続けたから——ここが士林のしぶとさの正体でした。

その後——士林の勝利、そして「党争」の幕開け

世祖の功臣たちは高齢化や死去によって次第に姿を消し、さらに文定王后・尹元衡の専横によって政治への不満も高まります。一方、士林派は度重なる士禍を乗り越え、地方で学問と人材育成を続けながら勢力を拡大していきました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵