初代・太祖から第13代・明宗まで——13人の王の系図と、のちの党争につながる「派閥のはじまり」を一枚にまとめました。
「勲旧派」「士林派」、そして4度くり返される「士禍(サファ)」。その原点は、世祖のクーデターと、名君・成宗の一手にありました。まずは系図で全体像を、そのあと派閥の生まれ方を図で追っていきましょう。
系図(人物関係を一目で)
太祖から明宗の系図を整理します。
勲旧派と士林派はどこから生まれた?
この2つの派閥は、ある日ポッと現れたわけではありません。高麗が滅びる激動の時代、儒学者たちが「新しい王朝に協力するか/しないか」で二手に分かれた——そこが出発点です。
| 勲旧派(フングパ) | 士林派(サリムパ) | |
|---|---|---|
| 出自 | 建国・クーデターの功臣=中央の重臣 | 地方で朱子学を学んだ新興の学者 |
| 今でいうと | 利権を握るベテラン大物 | コンプラ第一の理想主義者 |
| 力の源 | 官職・土地・王室との姻戚 | 道徳・言論(三司) |
| 役回り | 既得権益を守る | 既得権益を正す |
四大士禍とは?——くり返された士林派弾圧
対立の火種をまいたのは、第9代・成宗でした。力を持ちすぎた勲旧派を抑えるため、地方から士林派をスカウトし、王の言論機関「三司(サムサ)」に配置します。三司の役目は、王や臣下の不正を批判すること。
成宗が士林派を登用して火がついた対立は、燕山君から明宗まで約50年のあいだ4度の大弾圧となってくり返されます。これを「四大士禍」と呼びます。
「士禍」とは、士林派が「反乱」ではなく、「罪のない士林が受けた災い」と考えて名付けた呼び方です。
対立の火種をまいた成宗、燕山君(戊午士禍・甲子士禍)
| 戊午士禍 | 燕山君 | 1498:士林派の学者・金宗直(キム・ジョンジク)の文章が「世祖の王位簒奪を批判している」と勲旧派から問題視されたことがきっかけでした。士林派を排除したい勲旧派と、たび重なる諫言を疎ましく感じていた燕山君の思惑が一致し、多くの士林派官僚が処刑・追放されました。 |
| 甲子士禍 | 燕山君 | 1504:燕山君は、生母・廃妃尹氏が賜薬によって処刑されていた真相を知り、激しい復讐に走ります。士林派だけでなく、勲旧派や王族、外戚まで巻き込んだ大粛清となりました。 |
中宗(己卯士禍)と明宗(乙巳士禍)
| 己卯士禍 | 中宗 | 1519:勲旧派は燕山君を追放するクーデター(中宗反正)を起こし、中宗を王に擁立しました。しかし、今度は勲旧派の力が強すぎて、中宗は思うように政治を行えません。そこで中宗は、理想に燃える改革者・趙光祖(チョ・グァンジョ)ら士林派を重用して勲旧派を牽制します。ところが改革が急進的になると、中宗は趙光祖を見捨て、勲旧派と手を組んで士林派を粛清しました。 |
| 乙巳士禍 | 明宗 | 1545:明宗の即位後、文定王后(ムンジョンワンフ)の実家「小尹」と、前王妃側の「大尹」が激しく対立します。この外戚争いで文定王后側が勝利し、多くの反対勢力や士林派が粛清されました。 これにより文定王后と弟・尹元衡(ユン・ウォニョン)の政権が確立し、その後は三大悪女の1人として有名な鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)も大きな影響力を持つようになります。 |
4回の士禍は、いわば士林派の4連敗。
その後——4連敗の士林派が、最後に勝つ
世祖の功臣たちは高齢化や死去によって次第に姿を消し、さらに文定王后・尹元衡の専横によって政治への不満も高まります。一方、士林派は度重なる士禍を乗り越え、地方で学問と人材育成を続けながら勢力を拡大していきました。
負け続けたはずの士林派が、最終的に朝鮮の主流派になったんです。中央で叩かれても、地方の書院(私設の学校)で人材を再生産し続けたから——ここが士林派の勝因です。
そして第14代・宣祖の代、ついに政権を握った士林派。ところが今度は彼ら自身が東人・西人…と分裂し、『トンイ』や『イ・サン』でお馴染みの「党争」の時代へ突入します。
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