「東京国立博物館へ行く」と決めたはいいものの、調べはじめて最初に思いました。
──で、何が展示されてるの?
日本一の博物館だということは知っています。国宝がたくさんあることも。でも「何を見に行くのか」がまるで浮かんでこない。これでは、当日ただ疲れて帰ってくるだけになりそうです。
そこで、行く前に調べたことをまとめました。この記事は、私と同じように「行くと決めたけど中身がわからない」という方のための予習ノートです。
そして私には、ひとつだけ強い動機があります。以前、韓国の金海(キメ)にある国立金海博物館で、伽耶(かや)という古代国家の展示をじっくり見てきました。鉄と焼き物で栄えた国です。
その伽耶の技術が、5世紀に日本へ渡ってきている。つまり金海で見たものの「続き」が、上野で見られるということになります。
東京国立博物館は「6つの建物」の集まりです
最初につまずいたのが、ここでした。
東京国立博物館、通称トーハクは、ひとつの建物ではありません。上野公園の一角に、テーマの違う建物が6つ並んでいます。
「日本一大きな博物館」ではなく、「小さめの博物館が6つ集まった敷地」だと思うと、いきなり見通しがよくなります。
6つの建物と、その中身
本館(日本ギャラリー)
ここが本丸です。日本美術がまるごと入っています。しかも構成がよくできていて、
- 2階が「時代順」 ── 縄文から江戸まで、歩くだけで日本美術の流れをたどれる
- 1階が「ジャンル別」 ── 彫刻、金工、陶磁、刀剣など、分野ごとに深掘りできる
2階を一周すると、教科書を一冊めくったことになります。まず2階、余力があれば1階。これが基本です。
なお2026年4月から展示室の番号が振り直されました。1階が1〜9室、2階が11〜20室です。※ネット上の古い攻略記事は番号がずれているので注意。
平成館
- 1階が「日本の考古」 ── 縄文・弥生・古墳の出土品
- 2階が「特別展」 ── 期間限定の大きな展覧会
私にとっては、ここが今回の主戦場です。伽耶から渡ってきた技術の痕跡は、1階に集まっています。
東洋館(アジアギャラリー)
中国、インド、エジプト、西アジア、そして朝鮮半島。アジア各地の美術と考古が入っています。伽耶や三国時代のものを見るならここです。
法隆寺宝物館
奈良の法隆寺から皇室に献納された宝物を収める建物。飛鳥時代の小さな金銅仏がずらりと並ぶ空間は、写真で見るだけでも独特です。
表慶館
明治時代の洋風建築。ただし催し物があるときだけ開館します。何もない時期は閉まっているので、当てにしないほうが無難です。
黒田記念館
洋画家・黒田清輝の作品を収める建物。ここだけ観覧無料です。
料金と開館時間(2026年時点)
- 東博コレクション展(常設):一般1,000円、大学生500円
- 高校生以下・満18歳未満・満70歳以上は無料(年齢のわかるものを提示)
- 開館は9時30分〜17時00分。金曜・土曜だけ20時00分まで
- 休館日は月曜(祝日の場合は開館し、翌平日が休み)
- 特別展のチケットがあれば、同じ日のコレクション展も見られます
窓口は混雑時に30分待ちになることもあるそうなので、オンラインで買っておくのがよさそうです。
特別展のチケットにコレクション展が含まれていることを知らずに、私は1,000円余分に払いました!
それともうひとつ。2026年8月からスーツケースの館内持ち込みが禁止になりました。
なぜ5世紀に、技術が海を渡ってきたのか
ここからが本題です。
日本の古墳時代、5世紀ごろに、大陸から一気に新しい技術が入ってきます。焼き物、馬、鉄、金細工。それまでの日本にはなかったものばかりです。
では、なぜその時期だったのか。
技術は勝手に海を渡りません。人が動くから、技術も動きます。そして人を動かしたのは、戦争でした。
きっかけは、高句麗の南下
4世紀の終わりごろ、朝鮮半島の北にあった高句麗という強国が、猛烈な勢いで南へ攻め下ってきます。
西暦400年、高句麗の広開土王(こうかいどおう)が大軍を送り、新羅を助けて、倭軍と伽耶の勢力を叩きました。この出来事は、広開土王の功績を刻んだ巨大な石碑に記録されています。
この一撃で最も大きな打撃を受けたのが、洛東江(ナクトンガン)の河口にあった金官加耶──いまの金海です。
ここで、ひとつ補足させてください。伽耶は「ひとつの国」ではありませんでした。洛東江の流域に散らばった小国の集まり──いわば商店街の組合のようなもので、そのときいちばん力のある国が「会長役」を務めていました。
4世紀まで、その会長役は金海の金官加耶です。海に開いた港町で、鉄を作って船で売る。要するにいちばん儲かっている店でした。
その店が、高句麗の一撃で傾きます。すると会長役は、内陸の高霊(コリョン)の大加耶へと移っていきました。海から遠く守りやすい土地であり、しかも鉄の産地でもあったからです。
伽耶は、海の国から山の国へと姿を変えました。
高句麗は遠いのに、なぜ金海が傾いたのか
地図を見ると、高句麗は半島の北。金海は南のいちばん端です。かなり離れています。
高句麗軍が金海まで攻め込んで占領した、というわけではありません。
では、なぜ金海が最も打撃を受けたのか。
金官加耶は、鉄を売って栄えた港の国でした。生命線は軍隊ではなく、
交易ルートです。
高句麗の南下は、このルートを断ちました。北へ売りに行く道は塞がれ、
高句麗の後ろ盾を得た新羅が強くなって金海と敵対し、いちばんの得意先だった倭も軍事的に押されて動きが鈍る。
店は焼かれていないのに、客が来なくなった。
港町にとって、これは占領されるのと同じくらい致命的でした。
しかも新羅は、洛東江をはさんですぐ隣です。
高句麗は遠い。でも高句麗が押し上げた新羅は、目と鼻の先にいる。
遠くの地震で、隣の家が倒れかかってきたわけです。
では、職人たちはどこへ行ったか
ここが大事なところです。
国が傾いても、技術を持った人間は消えません。窯を築ける人、鉄を打てる人、馬を育てられる人。彼らは、より安全で、自分たちを歓迎してくれる場所を探します。
そして目の前には、海を渡ればすぐの列島がありました。
倭の側も、彼らを積極的に受け入れました。当時の倭にとって、大陸の技術者は喉から手が出るほど欲しい存在です。土地を与え、集落を作らせ、仕事を任せました。
伽耶の衰退と、倭の技術革命。この2つは、同じ出来事の裏と表なのです。
金海博物館で「伽耶の滅亡」の展示を見たとき、私はそこで話が終わったのだと思っていました。でも終わっていなかった。物語は海を越えて、日本列島で続きが始まっていたわけです。
伽耶から届いた「五点セット」
海を渡ってきた技術は、ひとつずつバラバラに来たのではありません。まとめて、セットで来ました。
ここが面白いところです。窯の技術だけが来ても、それを使う職人がいなければ意味がない。馬だけ連れてきても、飼い方を知らなければ死んでしまう。だから技術は「人ごと」渡ってきたのです。
大きく5つあります。
① 焼き物 ── 台所がひっくり返った
いちばん分かりやすいのがこれです。
それまでの日本の焼き物は土師器(はじき)といいます。地面に器を並べて薪をかぶせ、そのまま焼く。いわゆる野焼きです。
温度は800度くらいまでしか上がりません。空気がたっぷりある状態で焼けるので、粘土の鉄分が酸化して赤茶色になります。素焼きなので、水を入れるとじわじわ滲みます。
これに対して須恵器(すえき)は、まったく別の代物です。
斜面にトンネル状の窯を掘って、その中で焼く。1100度を超えます。しかも窯の口を絞って酸素を減らすので、鉄分が還元されて灰色になる。高温で焼き締まっているから、水が漏れません。
土鍋しかなかった台所に、いきなりステンレス鍋が届いたようなものです。
そしてこの窯の技術、朝鮮半島南部の陶質土器がそのまま起源です。つまり金海博物館に並んでいた、あの灰色の硬い焼き物。あれの兄弟が、日本で須恵器と呼ばれるようになりました。
② 馬 ── 弥生時代の日本に、馬はいませんでした
これ、意外と知られていません。
埴輪に馬が登場するのは5世紀からです。それ以前の日本列島に、乗るための馬はほとんどいませんでした。
しかも、馬だけ連れてきても飼えません。餌のこと、繁殖のこと、蹄の手入れ。全部わからないと死なせてしまいます。だから飼育の技術者ごと渡ってきました。
さらに馬具です。轡(くつわ・口にかませる金具)、鞍、鐙(あぶみ・足をかける輪)。これらを作る鍛冶の技術も一緒でした。
古墳に馬具が副葬されるようになるのは、「私は馬に乗れる身分である」という誇示です。当時、馬に乗れるというのは、いまでいえば自家用ジェットを持っているようなものでした。
③ 鉄 ── 買う側から、作る側へ
伽耶といえば鉄です。中国の史書にも、この地域の鉄を周辺の国々が買いに来たと記されています。
それまでの倭は、鉄鋌(てってい)という板状の鉄素材を伽耶から輸入していました。要するに材料を買ってきて、国内で加工していたわけです。
5世紀になると、鍛冶の技術そのものが入ってきます。買う側から、作る側へ。
その成果がいちばん見えるのが鎧です。
- 短甲(たんこう) ── 鉄板を鋲で留めた、固い胴鎧。歩兵向き
- 挂甲(けいこう) ── 小さな鉄板(小札・こざね)を紐で綴じた、柔らかい鎧。馬に乗るのに向く
短甲から挂甲へ。この変化は、戦い方が歩兵から騎馬へ移ったことをそのまま示しています。
④ 金細工 ── 古墳が光りはじめる
金銅(銅に金メッキ)の冠、垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)という揺れる耳飾り、飾履(しょくり)という金属製の靴。
それまでの日本の装身具は、勾玉や管玉など石が中心でした。そこへ、金色に輝く細工物が入ってきます。
この手の金細工は、新羅・百済・伽耶が得意としたものです。日本の古墳から出るものの中には、半島から持ち込まれたものと、日本で真似て作ったものが混ざっています。
⑤ かまど ── 家の中が変わった
地味ですが、暮らしへの影響はこれが最大かもしれません。
それまでの竪穴住居には、床の真ん中に炉がありました。穴を掘って火を焚くだけです。
そこへ、壁際に作り付けのかまどが入ってきます。煙突で煙を外に出せるので、室内が煙たくない。火力が安定するので、蒸すという調理法ができるようになります。
須恵器の甑(こしき・蒸し器)とセットで考えると、主食が「炊く」から「蒸す」に変わった可能性まで見えてきます。
まとめると、こういうことです。
| 分野 | 5世紀より前 | 渡来後 |
|---|---|---|
| 焼き物 | 土師器(野焼き・赤い・水が滲む) | 須恵器(窯焼き・灰色・水が漏れない) |
| 移動 | 馬がほぼいない | 馬と馬具が一式で登場 |
| 鉄 | 素材を輸入 | 国内で鍛冶ができる |
| 装身具 | 石や玉が中心 | 金銅の冠・耳飾り |
| 住まい | 床に炉 | 壁際に作り付けのかまど |
食べるもの、着るもの、移動の手段、戦い方。暮らしの土台がまるごと入れ替わったわけです。
じつは大阪が、その技術の受け入れ港でした
渡ってきた技術者たちは、どこに住み着いたのか。
大阪(河内)はヤマト王権の玄関口の一つだったため、多くの技術者が集まった地域でした。
須恵器のふるさとは、堺です
日本最古にして最大の須恵器の生産地は、陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)といいます。場所は、堺市の南部から和泉丘陵にかけての一帯です。
5世紀のはじめ、ここに渡来した工人が窯を築きました。丘陵の斜面は窯を掘るのに向いていて、燃料の薪も、粘土もある。条件が揃っていたのです。
そしてここで焼かれた須恵器が、大和の王権を通じて全国へ配られていきました。日本の焼き物の歴史が、堺から始まったといっていい場所です。
昭和の泉北ニュータウン造成のときに、大規模な発掘が行われました。見つかった窯跡は千基を超えるといわれます。「陶器山」という地名や、「陶器(とうき)」の付く地名が残っているのは、その名残です。
馬を育てていたのは、河内でした
馬の方も大阪です。
大阪府の東部から南部にかけての河内地域は、古代の一大馬産地でした。四條畷市の蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)からは、5世紀の馬の骨がまとまって出土しています。馬を埋葬した跡まで見つかりました。
近くには渡来系の人々が暮らした集落の跡もあり、馬と技術者がセットで住んでいたことがわかります。
金海 → 大阪 → 上野
つまり、こういう線が引けます。
伽耶の技術は、まず大阪に根を下ろした。そこで作られた須恵器や馬具が、各地の古墳に副葬された。そして掘り出されたそれらが、いま上野の東京国立博物館に並んでいる😊
金海で見たものの続きが大阪にあって、その結果が上野にある。
私にとっては、自分の住んでいる場所が物語の真ん中にあったという、ちょっと不思議な発見でした。
当日はここを見る──展示室別チェックリスト
博物館は、何も決めずに行くと「なんとなくすごかった」で終わります。そこで見るものを3つだけ決めておくことにしました。
私が決めた3つはこれです。
- 土師器と須恵器を、自分の目で見比べる
- 国宝「埴輪 挂甲の武人」を、じっくり見る
- 東洋館で、伽耶の土器と須恵器の「兄弟」を探す
以下、細かいリストです。スマホで開いて使えるようにしてあります。
平成館1階・考古展示室
- [ ] 土師器と須恵器を並べて見る
色(赤茶/灰)、表面の締まり方、口の作りの違い - [ ] 須恵器の「はそう」を探す
横腹に穴の開いた壺。竹を挿して液体を注ぐ道具 - [ ] 高坏(たかつき)の脚の透かし孔
三角か、長方形か。東洋館と見比べる用に必ず撮る - [ ] 甑(こしき)を探す
底に穴の開いた蒸し器。「蒸す」文化が来た証拠 - [ ] 国宝「埴輪 挂甲の武人」
小札の綴じ方、頬当、脛当、手に何を持っているか - [ ] 短甲と挂甲を見比べる
鋲留めの固い胴鎧/小札を紐で綴じた柔らかい鎧 - [ ] 馬形埴輪の装備
轡・鞍・鐙がちゃんと表現されているか - [ ] 実物の馬具
杏葉(ぎょうよう)の透かし彫りの文様 - [ ] 鉄鋌(てってい)
板状の鉄素材。伽耶からの輸入品
東洋館・朝鮮半島の部屋
- [ ] 伽耶・三国時代の陶質土器
平成館で撮った須恵器と「同じ形」を探す - [ ] 高坏の透かし孔の並び方
上下段が互い違いか、一直線か - [ ] 馬具
日本の古墳出土品との作りの違い - [ ] 金銅の冠・垂飾付耳飾り
金細工の細かさ - [ ] 環頭大刀(かんとうたち)
柄頭(つかがしら)の輪の中の意匠
本館2階・11室から
- [ ] 日本美術のあけぼの
縄文土器から古墳時代まで。考古展示室で見たものと同じ時代を、
「美術」の視点で見るとどう違うか
撮影メモ
- キャプションも必ず一緒に撮る
作品名・時代・出土地。記事を書くときに絶対必要になります - 特別展は撮影不可。コレクション展は原則撮影可
- 展示替えがあるので、全部が出ているとは限りません
私の当日のタイムテーブル
木曜日なので、17時閉館です。使えるのは7時間半。
全部は回れないので、法隆寺宝物館と黒田記念館は捨てました。
| 時間 | 場所 |
|---|---|
| 9:30–11:45 | 特別展(平成館2階) |
| 11:45–12:20 | 早めの昼食(混雑ピーク前に) |
| 12:20–13:50 | 考古展示室(平成館1階) |
| 13:50–15:20 | 東洋館・朝鮮半島の部屋 |
| 15:20–16:40 | 本館2階・11室から |
| 16:40–17:00 | ショップ |
太字が今回の本命です。ここに合計3時間を死守します。
帰ってきたら、体験記を書きます
以上が、私の予習ノートです。
正直なところ、調べる前は「国宝がいっぱいある博物館」という以上のイメージがありませんでした。いまは違います。あの建物には、金海で見たものの続きが置いてある。そう思うだけで、行くのが楽しみになりました。
実際に行ってどうだったかは、体験記としてあらためて書きます。写真もたっぷり撮ってくるつもりです。
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