「古墳時代」と聞いて、どんな時代を思い浮かべますか。
私はずっと、ぼんやりした印象しか持てませんでした。大きなお墓が作られた時代。埴輪が並んでいる。仁徳天皇陵。それくらいです。
ところが調べてみて、認識が変わりました。この時代、長いのです。そして長いだけあって、始めと終わりではまるで別の社会になっています。
しかも、変わった理由は列島の中だけを見ていても見えてきません。海の向こう——朝鮮半島で起きたことが、古墳の中身にそのまま表れています。
この記事では、古墳時代を3つに区切って、それぞれで何が変わったのかを見ていきます。
博物館で何を見る[シリーズ一覧]
古墳時代は、江戸時代より長い
古墳時代は、だいたい3世紀の半ばから7世紀の初めまで。ざっと350年あります。
江戸時代が約260年です。古墳時代のほうが、90年も長い。
江戸時代を思い浮かべてみてください。徳川家康の時代と、坂本龍馬の時代。同じ「江戸時代」ですが、着ているものも、武器も、社会の仕組みも別物ですよね。初期と幕末を一緒くたに語ったら、さすがに乱暴です。
古墳時代も、まったく同じです。
ところが教科書では「古墳が作られた時代」の一言で片づけられてしまう。だからのっぺりした印象しか残らないのです。
そこで、3つに割ります。
- 前期(3世紀半ば〜4世紀)
- 中期(5世紀)
- 後期(6世紀〜7世紀初め)
この3つで、古墳に納められるものが、まるっきり入れ替わります。そして納められるものが変わるということは、王の性格そのものが変わったということです。
前期(3〜4世紀)── 王は「祭る人」だった
古墳に何が入っているかを見ると、その時代の王がどんな存在だったのかが見えてきます。副葬品は、その人が「何によって権威を認められていたのか」を映す手がかりだからです。
前期古墳から多く見つかるのは、鏡・玉・剣。なかでも目立つのが鏡です。三角縁神獣鏡が、一つの古墳から30枚以上出土する例もあります。
これらは日用品ではなく、祭祀や権威を示す特別な品と考えられています。
つまり前期の王権を支えた大きな柱の一つは、祭祀を司ることでした。神々への祭りを執り行い、人々の安寧や豊作を祈る。その宗教的な権威が、王の力の源でもあったのです。
現代でいえば、社長というより神主に近い存在です。
古墳が丘の上にある理由
前期の大型古墳は、盆地を見渡せる場所や丘陵の尾根や高台など、周囲から目立つ場所に築かれるようになります。
これは、下から見上げさせるためです。神聖なものは高いところにある。神社が山の上や高台にあるのと同じ発想です。
埴輪はまだ「筒」だけ
この時期の埴輪は、円筒埴輪が中心です。

土管のような素焼きの筒を、墳丘のふちにぐるりと並べます。人でも馬でもなく、ただの筒。
これは飾りではなく、聖域の柵だったと考えられています。ここから内側は神聖な場所ですよ、という結界です。
写真をよく見ると、筒の胴に丸い穴が開いています。これも装飾ではなく、焼くときに熱を通すためのものと考えられています。中身のない筒を、ただひたすら並べる。それが最初の埴輪でした。
もともとは壺を載せる器台だったものが変化したという説が有力で、実際に前期の古墳からは壺形埴輪も出てきます。
前期の後半になると、家形埴輪や、盾・靫(ゆぎ・矢を入れる筒)・蓋(きぬがさ・日傘)といった器財埴輪が加わります。王の館や、王の持ち物を再現したものです。まだ人間は登場しません。
中期(5世紀)── 王が「戦う人」になった
ここが激変期です。
副葬品が入れ替わる
古墳の中身が、がらりと変わります。
鏡が減ります。代わりに入ってくるのが、甲冑・武器・馬具・鉄鋌(てってい)。

しかも量が違います。一つの古墳から短甲が20領以上、鉄鋌が数百枚まとめて出ることもある。もはや個人の持ち物ではなく、軍事物資の備蓄です。
王の性格が変わったのです。祭る人から、戦う人へ。
神主だった社長が、いきなり武装しはじめた。そういう転換が5世紀に起きています。
短甲を2つ並べると、100年が見える
博物館のいいところは、時代の違うものを並べて置いてくれることです。

どちらも短甲、つまり鉄板を革紐で綴じ合わせた胴鎧です。でも、鉄板の形が違います。
| 名前 | 鉄板の形 | 時期 | |
|---|---|---|---|
| 右 | 竪矧板革綴短甲(たてはぎいた) | 縦に長い板を並べる | 前期・4世紀 |
| 左 | 三角板革綴短甲(さんかくいた) | 三角形の板をはめ込む | 中期・5世紀 |
おもしろいのは解説パネルです。4世紀の竪矧板革綴短甲は、列島内で3例しか確認されていないと書かれていました。しかも朝鮮半島の甲冑に近いつくりだ、と。
つまり、鉄の鎧は5世紀に突然現れたのではありません。4世紀にも、ごくわずかにあった。ただしそれは半島から来たもの、あるいは半島のやり方をまねたものでした。
いっぽう5世紀の三角板革綴短甲には、こう書かれています。ヤマト王権の工房で製作され、各地の権力者に配布されたと。
4世紀:半島から、ごく少数がやってくる。
5世紀:ヤマト王権が自分で作って、配る。
これが「技術移転が根づいた」ということの、いちばん分かりやすい形です。同じ棚に並んだ2つの鎧が、その100年を語っています。
古墳が平野へ降りてくる
そして、古墳の作られる場所も変わります。
丘陵の上から、平野のまん中へ。
大阪の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)。あの巨大古墳群は、平野に築かれています。
なぜかというと、見せる相手が変わったからです。
前期の古墳は「見上げさせる」ものでした。中期の古墳は、街道を行き交う人々に真横から見せつけるものになります。
しかも平野に山を作るわけですから、土木工事の規模がそのまま権力の大きさになる。「これだけの人間を動員できるぞ」という誇示です。
神聖さで従わせる時代から、動員力で従わせる時代へ変わったといえます。
埴輪に人間が登場する
5世紀の半ばごろ、埴輪の世界に新顔が現れます。
人物埴輪と馬形埴輪です。

武人、巫女、農夫、力士、そして飾り立てた馬。それまで筒と器物しかなかった墳丘の上に、突然「登場人物」が並びはじめます。
前の写真と見比べてみてください。台座の部分は、円筒埴輪のままです。筒の上に人が乗っている。埴輪は入れ替わったのではなく、筒の上に積み上がっていったのだと分かります。
何かの儀式の場面を再現していたのだろうと考えられています。王の葬送の行列か、あるいは新しい王が権威を継承する場面か。

そして馬形埴輪が登場したということは、その時代の日本に馬がいたということです。弥生時代の日本列島に、乗るための馬はほとんどいませんでした。
しかもこの馬、裸ではありません。鞍が置かれ、轡がはめられ、胸と尻に飾りが下がっています。馬だけでなく、馬具一式がセットで来ていたことが、この一体から分かります。
5世紀に何が入ってきたのか
馬だけではありません。この時期、大陸から一気に新しい技術が入ってきます。
- 須恵器 ── 窯で高温焼成する、灰色で硬い焼き物
- 馬と馬具 ── 飼育技術と、轡・鞍・鐙の製作技術
- 鉄の加工 ── 素材を輸入する側から、作る側へ
- 金銅の装身具 ── 冠、耳飾り、飾履
- かまど ── 床の炉から、壁際の作り付けへ
これらはバラバラに来たのではなく、技術を持った人ごと、まとめて渡ってきました。中期の古墳から出る甲冑も馬具も須恵器も、すべてこの流れの中にあります。
伽耶から日本へ渡ってきたもの──古墳時代を変えた5世紀のはなし5世紀、日本列島に新しい技術が一気に入ってきます。焼き物、馬、鉄、金細工、そしてかまど。それまでの日本にはなかったものばかりです。 渡ってきた元をたどると、朝鮮…
ただし、入口は伽耶だけではなかった

金銅製の冠です。額に巻く帯から細い板が何本も立ち上がり、先端に宝珠のような形がついています。
解説によれば、この形の冠は朝鮮半島の新羅で多く見られるもので、日本での出土例は非常に少ないとのことでした。
実は、韓国の慶州博物館で新羅の金冠を見たことがあるので、「あ」と思ったんです。木の枝と鹿の角を立てたような、あの形。あれの、ずっと簡素な親戚が群馬から出ています。

私はこれまで、5世紀の技術移転を伽耶からの流れとして書いてきました。鉄も須恵器も馬も、金海のあたりから渡ってきたのだ、と。それは間違いではありません。ただ、それだけではなかったということです。
伽耶からも、百済からも、新羅からも来ていた。
入口は、一つではなかった。
考えてみれば当然の話です。当時の朝鮮半島には三国と伽耶があり、それぞれが倭と別々の関係を持っていました。「半島から来た」と一括りにすると、そこが見えなくなります。
しかも出土地は群馬です。半島から大阪へ、大阪から東へ──という一本道だったのか。それとも、別の入口があったのか。
実は敦賀、但馬、丹後など日本海側には、新羅とのつながりを示す伝承や地名が点々と残っています。
展示ケースの前で自分の記事が訂正されるというのは、なかなか気分のいいものです。
後期(6〜7世紀初め)── 古墳が「みんなのもの」になった
最後の局面で、また大きな変化が起きます。
中央では、王の性格がもう一段変わりました。戦って奪う人から、組織で治める人へ。
国造(くにのみやつこ)という地方官の仕組みが整い、屯倉(みやけ)という直轄地が置かれ、漢字による記録が始まります。
527年の磐井の乱は、九州の勢力を王権が力ずくで組み伏せた事件でした。
王の名前が、モノに刻まれはじめる
「漢字による記録が始まる」と書きましたが、その最初の実物が博物館にあります。

熊本県の江田船山古墳の副葬品です。解説によれば、この古墳には2〜3世代の王が葬られており、冠や耳飾りのセットが複数あるのはそのためだといいます。
そして装身具の多くが朝鮮半島から渡ってきたもので、この古墳の国際性をよく示している、とも。九州の王が、半島とじかにつながっていたわけです。
この古墳からは、もうひとつ有名なものが出ています。銀で文字を象嵌した大刀です。そこに刻まれていた王の名が、埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣の銘文と一致しました。
列島で作られたモノに、王の名が刻まれた形で確実に読めるのは、この5世紀の終わりからです。
ワカタケル大王とは誰か?|稲荷山鉄剣・江田船山大刀が語る5世紀の王日本の古代史には、推理小説みたいな話がいくつかあります。 そのなかでも私がいちばん好きなのが、これです。 熊本で100年近く読めなかった文字が、埼玉から出てきた…
さて、中央の話はここまでです。地方では、まったく別の変化が起きていました。古墳時代の終わりを語るうえでは、こちらのほうが重要です。
お墓が「開けられる」ようになった
いちばん大きいのが、横穴式石室の登場です。
前期・中期の石室は「竪穴式」でした。墳丘の上から穴を掘って遺体を納め、石で蓋をして、その上に土を盛る。つまり、一度閉じたら二度と開けられません。一人用の密閉容器です。
対して横穴式石室は、横から入る通路(羨道・せんどう)がついています。だからあとから追加で埋葬できる。
これは発想の大転換です。お墓が「一人のための記念碑」から、「家族が順番に入っていく場所」に変わったのですから。
いまの日本のお墓、代々の名前が刻まれて、亡くなるたびに納骨しますよね。あの形の原型が、6世紀に生まれています。
ちなみにこの横穴式石室も、朝鮮半島から伝わった形式です。百済や伽耶の墓の作り方が入ってきたものと考えられています。技術移転は5世紀で終わりではなかったわけですね。
古墳の数が、爆発する
もうひとつの大変化がこれです。
それまで古墳は、地域の頂点にいる一握りの首長だけのものでした。ところが6世紀になると、小さな古墳が数十基、数百基とかたまって作られるようになります。群集墳と呼ばれるものです。
古墳が、村の有力者クラスまで降りてきたのです。
背景には、鉄製の農具が広まって生産力が上がり、力を持つ層が厚くなったことがあると考えられています。裾野が広がった、ということですね。
かつては「王だけの特権」だったものが、「ちょっと余裕のある人なら手が届くもの」になった。高級車が普及車になったような話です。
副葬品が「日用品」になる
中身も変わります。
武器や鏡ではなく、須恵器や土師器といった日用品が中心になります。食器、甕、蒸し器。

あの世でも普通に暮らせるように、という発想です。死後の世界のイメージが、「神になる」から「向こうでも生活する」に変わったのかもしれません。
色を見てください。灰色で、硬そうです。土の色をした埴輪とは、まるで別の焼き物に見えます。窯を使って1000度以上で焼くと、こうなります。
そして注目してほしいのは、須恵器が当たり前のように大量に入っていることです。
5世紀に伽耶から渡ってきたあの技術が、100年経って完全に日本のものになり、お墓に何十個も入れられるほど普通の品になっていた。技術が根づくというのは、こういうことかと実感できる部分です。
そして埴輪が消える
7世紀に入ると、古墳そのものが作られなくなっていきます。埴輪も一緒に消えます。
理由は仏教です。
権威の示し方が「墓」から「寺」に移りました。巨大な墓を作るより、立派な伽藍を建てるほうが力の誇示になる時代になったのです。
飛鳥寺、法隆寺。あの方向へ社会が舵を切ったとき、350年続いた古墳の時代が終わりました。
埴輪も、時代とともに変わっていった
ここまでの話を、埴輪だけで縦に並べてみます。埴輪の変化を追うだけで、古墳時代の流れがそのまま見えてきます。
| 時期 | 主な埴輪 | 意味するもの |
|---|---|---|
| 前期前半 | 円筒埴輪、壺形埴輪 | 聖域の柵。結界 |
| 前期後半 | 家形埴輪、器財埴輪 | 王の館、王の持ち物 |
| 中期 | 人物埴輪、馬形埴輪が登場 | 儀式の場面の再現 |
| 後期 | 人物埴輪が最盛期。関東で盛んに | 物語を語る群像 |
| 7世紀 | 消滅 | 仏教の時代へ |
筒 → 建物と道具 → 人と馬 → 群像 → 消滅。
面白いのは、後期になると埴輪づくりの中心が関東に移ることです。近畿では古墳が小型化していく一方で、群馬や埼玉では表情豊かな人物埴輪が盛んに作られました。
いま博物館で見る「埴輪らしい埴輪」は、関東産の後期のものが多いのです。
「挂甲の武人」は、一体ではなかった
東京国立博物館には、国宝の埴輪があります。
「埴輪 挂甲の武人(けいこうのぶじん)」。群馬県太田市から出土した、完全武装の男の埴輪です。
それを見に行ったのですが──見つけられませんでした。
展示替えで出ていなかったのか、私が見落としたのか。どちらなのかは分かりません。考古展示室は、とにかく物量があります。
ただ、あきらめて歩いていて、ふと気づきました。「挂甲の武人」と書かれた埴輪が、ほかに立っているのです。しかも2体。


埴輪 挂甲の武人。左:群馬県高崎市・上芝古墳出土 右:栃木県真岡市・鶏塚古墳出土 古墳時代・6世紀(東京国立博物館・筆者撮影)
写真は群馬県高崎市の上芝古墳から出たものです。そしてもう1体、栃木県真岡市の鶏塚古墳から出た武人が立っていました。どちらも6世紀です。
この「国宝じゃないほう」が、実はこの記事の話にぴったりでした。順番に説明します。
挂甲とは何か
まず鎧の話をします。古墳時代の鎧には、大きく2種類あります。
- 短甲(たんこう) ── 鉄板を綴じ合わせた、固い胴鎧。体にぴったり合いますが、動きは制限されます。歩兵向きです
- 挂甲(けいこう) ── 小さな鉄板(小札・こざね)を紐で綴じ合わせた鎧。うろこ状で、体をひねっても割れません。馬に乗るのに向いています
さきほど写真で見た2つの短甲が、前者です。あの鉄の塊を着て馬に乗るのは、ちょっと無理があります。
そして挂甲は、5世紀に大陸から伝わった形式です。馬とセットで入ってきました。
短甲から挂甲へ。この変化は、戦い方が歩兵から騎馬へ移ったことをそのまま示しています。
では、なぜ6世紀なのか
ここが本題です。
私が見た2体も、国宝の1体も、すべて6世紀の作品です。挂甲という鎧そのものが伝わったのは5世紀ですから、約100年のズレがあります。
つまりこれらの埴輪は、「新しい技術が入ってきた瞬間」を写したものではありません。
技術が渡ってきてから100年後、それが遠く関東にまで広がって、「武人といえばこの姿」というのが当たり前になった時代の作品なのです。
国宝が見られなくて、かえって分かったこと
並べてみてください。
| 出土地 | 時期 |
|---|---|
| 群馬県太田市(国宝) | 6世紀 |
| 群馬県高崎市 上芝古墳 | 6世紀 |
| 栃木県真岡市 鶏塚古墳 | 6世紀 |
同じ時代に、同じ姿の武人が、関東のあちこちで作られている。
鶏塚古墳の埴輪の解説には、こう書かれていました。上半身と下半身を別々に作って組み合わせる特徴的な技法で、同じような埴輪が茨城・栃木・福島から出土しており、作り手どうしの交流がうかがえる、と。
上芝古墳のほうには、こうありました。両耳の上で髪を束ねた美豆良(みずら)の髪型、身をひねって肩を張り出し、今にも大刀を抜こうとする動作を、粘土の積み上げと貼り付けで巧みに表しています、と。
国宝が「日本一よくできた一体」だとすれば、私が見たのは「関東じゅうで同じものが作られていた」という事実そのものでした。
技術移転が根を下ろしたことを示すのは、傑作が1つあることではありません。同じものが、あちこちで、当たり前に作られることです。
伽耶から海を渡ってきた鎧の作り方が、大阪に根を下ろし、そこから東へ東へと伝わって、群馬と栃木と茨城と福島の職人が「武人といえばこれだよね」と作っていた。
金海の港が傾いて、職人たちが海を渡った。その物語の、100年後の結末がここにあります。
国宝に会えなかったのは残念でしたが、おかげでこちらに気づけました。
古墳時代の見分け方──たった一つの物差し
長くなりましたが、博物館で使える形にまとめます。
展示ケースの前に立ったら、まずキャプションの「時代」を見てください。
それだけで、目の前の品物が物語のどこにいるのかが分かります。
「古墳時代前期」または「4世紀」と書いてあったら
→ 王がまだ祭りを司っていた時代。鏡や玉が主役。神聖さで人を束ねていたころ
「古墳時代中期」または「5世紀」と書いてあったら
→ 激変期。伽耶から技術が渡ってきた時代。甲冑・馬具・須恵器はすべてこの流れの中にあります
※「5世紀」というキャプションを見つけたら、それは伽耶とつながっている品。
「古墳時代後期」または「6世紀」と書いてあったら
→ 古墳が庶民に降りてきた時代。技術が完全に日本のものになったころ
このあたりが気になった方へ
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