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鍋が国だった──中国の青銅器は、なぜ食器が主役なのか

日本の博物館で青銅器といえば、銅鐸・銅剣・銅鏡です。

鳴らすもの、見せるもの、映すもの。どれも「中身を入れない」道具です。

ところが中国の青銅器の展示に行くと、様子がまるで違います。並んでいるのは、鍋、蒸し器、鉢、杯、壺。

主役は、ほとんどが台所用品です。

同じ青銅器なのに、なぜこんなに違うのか。そして、それがどうやって日本の銅鐸や銅剣になったのか。

今日はその話です。

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武器も作っていた。ただし「剣」ではない

ここで先回りしておきます。中国でも青銅の武器はしっかり作られていました。 殷の王墓からは、青銅の鉞(まさかり)や鏃が大量に出ています。

中国古代の青銅製武器 戈・剣・鉞などの展示(東京国立博物館蔵)
中国古代の青銅の武器。左に並ぶL字型が戈、右の細長いものが剣です(東京国立博物館・筆者撮影)

写真の左半分を見てください。直角に曲がったL字型が並んでいます。これが戈(か)です。

柄の先に刃を横向きに取り付け、引っかけて斬る武器です。戦車に乗って使うのに向いた形で、剣のように突き刺すものではありません。

右側にある細長い剣と見比べると、発想の違いがはっきりします。片方は引っかけ、片方は突く。

つまり中国では、青銅の剣がなかなか主役にならなかった。剣が発達するのは、ずっとあとの春秋戦国時代です。

そして大事なのはここです。武器は作っていたのに、王の墓に大切に納められ、名前と文字を刻まれたのは、器のほうでした。

中国の青銅器は「あの世の食器」

まず、代表的なものを並べます。名前は覚えなくて構いません。何をする道具かだけ見てください。

名前読み何をするもの
てい3本足の鍋。肉を煮る
れき袋状の3本足の鍋。煮炊き
けん蒸し器。二段重ね
穀物を盛る鉢
しゃく3本足の酒杯。注ぎ口が突き出ている
尊・卣そん・ゆう酒を入れる壺

見事に、煮る・蒸す・盛る・注ぐ・飲む、です。実物を並べてみます。

煮る

袋状の三本足に象文を飾った青銅の鬲(東京国立博物館蔵)
象文鬲 中国 殷〜西周時代(前13〜前10世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

袋のようにふくらんだ三本足が特徴です。足の内側まで湯が入るので、火の当たる面積が大きく、よく煮える形になっています。

ところが、この一点には面白い指摘がついています。底に彩色をしていたらしい痕跡があるというのです。

火にかければ色は焼けて消えます。塗ってあったということは、

この鍋は、たぶん一度も煮炊きに使われていない。

台所用品の形をした、台所用品ではないもの。この記事の核心が、いきなり出てきました。

蒸す

二段重ねの構造をもつ青銅の蒸し器・甗。下部に饕餮文がある(東京国立博物館蔵)
饕餮文甗 中国 西周時代(前11〜前10世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

甗(けん)は蒸し器です。くびれの下で湯を沸かし、その蒸気で、くびれに架けたスノコの上の食べ物を蒸す。いまのセイロと同じ仕組みです。

煮る道具に加えて、蒸し器までもが神前に供える祭器に組みこまれていたことになります。祖先に出す料理は、一品ではなかったわけです。

下半分に、大きな目のある顔が見えます。これはあとで出てくる饕餮文です。

盛る

表面に無数の突起が並ぶ青銅の簋(東京国立博物館蔵)
百乳簋 中国 殷時代(前13〜前11世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

簋(き)は穀物を盛る器です。表面にびっしり並んだ突起を乳文(にゅうもん)と呼び、数が多いことから、この文様は百乳と呼ばれます。

殷の終わりごろに流行した文様で、次の西周時代になると、簋には左右に把手がつくようになります。器の形も、時代の物差しになるということです。

注ぐ

提げ手のついた蓋つきの青銅の酒器・卣(東京国立博物館蔵)
夔鳳文卣 中国 西周時代(前11〜前10世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

ねじれた縄のような提げ手がついています。卣(ゆう)は酒の器で、香料を混ぜて香りをつけた酒に用いたと考えられています。

文様にも注目です。西周になると饕餮文は下火になり、かわりに流行したのが夔鳳文(きほうもん)。一本足の大きな鳥です。蓋と胴に、繰り返し配されています。

では、なぜ貴重な青銅で鍋や蒸し器や酒器を作ったのか。

祖先に食事を出すためです。

中国では、亡くなった祖先に定期的に食事と酒を供える儀式がありました。生きている人と同じように食べさせ、飲ませる。その儀式のための器を、当時いちばん高価な材料で作った。

言ってしまえば、

お客様用の一番いい食器。ただし、お客様は先祖。

だから中身を入れて使うものばかりなのです。ここが日本の青銅器と決定的に違います。

鼎は、国そのものを意味した

数ある器のなかで、鼎(てい)だけは別格です。

二つの把手と三本の足がつく青銅の鼎。胴に饕餮文がめぐる(東京国立博物館蔵)
饕餮文鼎 中国 殷時代(前13〜前11世紀) 青銅。これが鼎の標準形です(東京国立博物館・筆者撮影)

2つの把手と、3本の足。これが鼎の基本の形です。祭祀や儀礼の場で、肉や魚を煮て祖先や天地の神に供えるのに用いました。

見た目はただの3本足の鍋なのですが、これが王の権力そのものを意味しました。

伝説では、夏王朝の禹が全国の金属を集めて9つの鼎を鋳造し、それが殷へ、周へと受け継がれたとされます。

鼎を持つ者が、天下を持つ。

この感覚がどれくらい強かったかを示す有名な話があります。

紀元前6世紀、楚の荘王が周の都の近くまで軍を進め、周の使者に「鼎の大きさと重さはどれほどか」と尋ねました。

ただ重さを聞いただけです。 ところがこれは「周に代わって天下を取るつもりか」という意味に受け取られました。使者は「徳があるかどうかが問題であって、鼎の軽重ではない」と切り返したと伝えられます。

この故事から生まれたのが、いまも使う「鼎の軽重を問う」という言葉です。日本語では「実力を疑う」という意味で使われますが、もとは鍋の重さを聞いただけで謀反とみなされた話でした。

足が4本の鼎もある

横断面が長方形で四本足の青銅の方鼎。各面に龍の文様がある(東京国立博物館蔵)
龍文方鼎 中国 殷時代(前13〜前11世紀) 青銅。少数派の4本足です(東京国立博物館・筆者撮影)

展示室で「足が4本あるけど、これは鼎じゃないのかな」と迷うことがあります。

鼎で合っています。横断面が長方形で、足が4本つくものを「方鼎(ほうてい)」と呼び、数は少ないものの確かに使われました。

この一点は、各面の上部中央に簡略化された動物の頭部があり、その両側に一対の龍を配しています。

博物館で2つの把手と3本足の器を見たら、それが鼎です。その部屋でいちばん偉い器だと思って見てください。

ひとつ、心の準備を。思ったより小さいはずです。

「鼎の軽重を問う」の話を読んだあとだと、抱えられないほどの大釜を想像してしまいます。国家の儀礼に据えた巨大な鼎もありますが(殷墟から出た司母戊鼎は高さ130センチを超えます)。

ところが日本の博物館に伝わっているのは個人の墓に納められた小ぶりなものが中心です。

大きさは、鼎の条件ではありません。形が条件です。小さくても、それは天下を意味する器でした。

誰も正体を知らない怪物、饕餮文

殷の時代の青銅器は、表面が模様でびっしり埋まっています。その中心にいるのが饕餮文(とうてつもん)です。

牙をむき出しにした獣面・饕餮が全面を覆う青銅の瓿(東京国立博物館蔵)
饕餮文瓿 中国 殷時代(前13〜前11世紀) 青銅。酒や水をためる器です(東京国立博物館・筆者撮影)

大きな目が2つ、角、牙。 左右対称に配置された、怪物の顔です。

器の目立つ位置に、牙をむき出しにした獣面を表すのが、殷の青銅祭器の特徴です。この瓿(ほう)は酒や水をためるためのもので、重要な儀礼に用いるにふさわしい、重厚で堂々としたたたずまいをしています。

見分け方は簡単です。

左右対称に、大きな目が2つ並んでいたら饕餮文。

暗い展示室でも、目だけは浮かび上がって見えます。3000年前の器が、こちらを見返してくるような感覚があります。

ラッパ状に開いた口をもつ青銅の酒器・尊。胴に饕餮文がある(東京国立博物館蔵)
饕餮文尊 中国 西周時代(前11〜前10世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

こちらは西周の尊(そん)。酒の器です。先ほどの瓿にくらべると、文様が胴の帯に整理されて、全面を覆ってはいません。

びっしり埋めるのをやめて、面を残しはじめた。時代が動いているのが分かります。

そして、ここが面白いところなのですが。

この怪物が何なのか、いまも分かっていません。

作った殷の人々が何と呼んでいたか、何を表していたのか、記録がまったく残っていないのです。「饕餮」という名前も、はるか後の時代の学者が付けたものです。何でも食べてしまう貪欲な怪物、という意味の言葉を借りてきました。

つまり私たちは、正体不明のものに、後世の人が付けたあだ名で呼んでいるわけです。

当時の人々が畏れ、敬っていた神の姿ではないか、とも考えられています。

模様の量で、時代がわかる

青銅器の時代は、模様の密度で読めます。これが博物館でいちばん使える物差しです。

時代年代模様ひとことで
殷(商)前1600〜前1046びっしり。饕餮文が主役怖い、密
西周前1046〜前771整理される。長い文字が入る文字が増える
春秋・戦国前770〜前221細かい幾何学文や動物文。象嵌が登場賑やか、軽やか
前206〜後220器そのものが減り、鏡が中心に鏡の時代へ

覚え方はこうです。

怖い → 文字が増える → 賑やかになる → 鏡になる。

器の内側に彫られた「証文」

西周の青銅器で注目してほしいのが、内側の文字です。

「王から土地を賜った。その記念に、祖先を祀るこの器を作った。子々孫々まで大切にせよ」

そんな内容が、器の底や内壁に刻まれています。長いものは数百字に及びます。

器そのものが証文でした。

現代なら賞状を額に入れて壁に飾るところを、当時は鍋に彫って、祖先に見せていたわけです。しかも青銅なら千年でも残る。実際、3000年後の私たちが読んでいます。

ただし、展示ケースの前で銘文を見るのは、たいてい無理です。器の内側は、上から覗き込まないと見えません。

解説パネルに拓本や写真が添えられていることがあるので、そちらを探してください。いちばん大事なことが、いちばん見えないところに彫ってある。それがこの時代の器です。

春秋戦国 ── 埋めるのではなく、はめこむ

一見無地に見えるが、もとは動物形の銅板をはめこんで飾っていた青銅の壺(東京国立博物館蔵)
獣文壺 中国 春秋〜戦国時代(前6〜前5世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

一見、なにも文様がないように見えます。ところが近づいてよく見ると、当初は表面に、動物などの形を切り抜いた銅板をはめて装飾していたことが分かります。

これが象嵌(ぞうがん)です。春秋時代に登場し、金属工芸の世界に新しい美意識をもたらしました。

鋳型で文様ごと一体に鋳る殷のやり方から、あとから別の素材をはめこむやり方へ。この技法はのちに東へ渡り、日本の古墳から出る銘文入りの大刀にも、高麗の象嵌青磁にもつながっていきます

そして、ただの器になった

文様のないシンプルな形の後漢時代の青銅の酒器・鍾(東京国立博物館蔵)
鍾 中国 後漢時代(2世紀) 青銅(東京国立博物館・筆者撮影)

饕餮も、文字も、象嵌もありません。つるんとした酒器です。

物足りなく見えるかもしれませんが、この「何もなさ」こそが、時代の変化を語っています。

漢の時代には、銅の資源が安定して手に入るようになり、生産技術も上がりました。その結果、日常使いの器物が多数つくられるようになります。こうしたシンプルで安定感のある形が登場するのも、この頃です。

つまり、権威の象徴よりも実用性を重んじる人々にまで、青銅器が普及していた。

鼎の重さを聞いただけで謀反を疑われた時代から、およそ700年。青銅は、天下を意味する金属ではなくなりました。

鍋が国だった時代は、ここで終わります。

墓の中の、ミニチュアの家

中国の青銅器の展示には、墓の副葬品が一緒に並ぶことがよくあります。ここも読み方があります。

見るもの意味
明器(めいき)あの世で使うミニチュア。家、井戸、かまど、豚小屋
俑(よう)人形。兵馬俑の系統
玉(ぎょく)遺体に着ける。腐敗を防ぐと信じられた
壺の肩に楼閣や人物、鳥をびっしり貼りつけた青磁神亭壺(東京国立博物館蔵)
青磁神亭壺 中国・古越州窯 三国(呉)〜西晋時代(3世紀)(東京国立博物館・筆者撮影)

青銅ではなく青磁ですが、用途は同じ明器です。壺の肩に、楼閣と人と鳥がびっしり貼りついています。

被葬者の死後の生活に備えるための穀物倉、あるいは死者の魂の住みかと考えられています。浙江省・江蘇省の3〜4世紀の墓に見られるもので、当時の江南地方の豊かな物質生活と精神生活の双方が反映されています。

小さな家、小さなかまど、小さな家畜。死後の生活に困らないよう、生活道具を一式そろえて入れたのが明器です。ドールハウスのような愛らしさがあります。

俑は、人を埋めるのをやめた証

ジャグリングをする舞人と、座って楽器を奏でる楽人の加彩俑(東京国立博物館蔵)
加彩舞人・楽人 中国 後漢時代(1〜2世紀) 土製(東京国立博物館・筆者撮影)

座った2人が曲を奏で、立った1人が玉か剣でジャグリングをしている最中と推測されています。一分の隙もないキレのある姿に、技芸の高さがうかがえます。

これらの人形には、亡き主人が死後の世界でも寂しくないようにとの思いが託されています。

有名な秦の兵馬俑もこの系統ですが、発想の出発点は深刻です。

もともとは、本物の人を埋めていました。

殷の時代には、王の墓に多数の人が殉葬されています。それが時代とともに人形に置き換わっていった。俑は、人を埋めるのをやめた証でもあります。

目を見開き口を大きく開けて威嚇する姿の加彩武人俑(東京国立博物館蔵)
加彩武人 中国 西晋時代(3〜4世紀) 土製(東京国立博物館・筆者撮影)

目を見開き、口を開けて威嚇する姿です。両手で棒状のものを持って立ちはだかっていたと考えられています。

役目は門番です。西晋時代には、この武人のような俑が獣の顔の鎮墓獣とセットで、地下墓の入口に置かれるようになりました。

あの世に食器を持たせ、家を持たせ、楽団を持たせ、最後に門番を立てる。墓の中に、暮らしが丸ごと再現されています。

日本にも、よく似た話が伝わっています。『日本書紀』には、殉死をやめさせるために野見宿禰が土の人形を立てることを提案した、という記述があります。埴輪の起源とされる話です。
実際の埴輪の起源は、壺を載せる筒状の台からの発展と考えられていて、この物語は後世の説明とみられています。それでも、「人の代わりに形を置く」という考え方が、東アジアで共有されていたことは確かです。

東へ行くほど、中身がなくなる

さて、ここが今日の結論です。

青銅器の技術は、朝鮮半島を通って日本に届きました。何になったかを並べます。

大陸で日本で何になったか
鐘・鐸(鳴らす楽器)半島の小銅鐸を経て、銅鐸
銅剣(中国東北部の系統)半島で細形銅剣になり、伝来後に刃のない祭器
楽浪郡経由で北部九州へ。古墳の副葬品の主役
鼎・爵などの器ほとんど渡ってこなかった

最後の一行に注目してください。この記事でずっと見てきた主役級の器が、日本には来ていません。

渡ってきたのは、鳴らすもの、映すもの、そして刃物。中身を入れる道具だけが、海を渡らなかったわけです。

吊り下げて打ち鳴らす青銅の鐘・鎛。表面に突起が並ぶ(東京国立博物館蔵)
鎛(はく) 中国 戦国時代 青銅。吊り下げて打ち鳴らす鐘です(東京国立博物館・筆者撮影)

これが、日本に渡ってきた側の系統です。吊り下げて、外から打って鳴らす鐘。中国では儀礼の音楽に欠かせない楽器でした。

この鐘が半島を経て日本に届き、銅鐸になります。そして日本の銅鐸は、やがて鳴らすための舌を失い、埋めるためだけに巨大化していきます。

音が消える。刃が消える。中身が消える。東へ行くほど、道具は機能を手放していきました。

⚠️ そしてもう一つ、銅剣には注釈が要ります

日本に届いた銅剣のルーツは、これまで見てきた殷や周の中原ではありません。中国東北部(遼寧)で生まれた琵琶形銅剣です。鼎や饕餮文の系統とは、別のいとこ筋だと思ってください。

大陸から日本へは、一本の道が伸びていたのではなく、いくつもの流れが別々に届いていた。同じ「青銅器」という棚に並んでいても、出身地が違います。

展示ケースの前で見るところ

まとめると、確認するのは6点だけです。

見るもの確認すること
2つの把手と3本足の器。国そのものを意味する(4本足の方鼎もある)
表面の模様左右対称の大きな目=饕餮文
模様の密度びっしり=殷、整理=西周、細かく賑やか=春秋戦国、無地=漢
器の内側文字があるか。西周のしるし(パネルの拓本を探す)
ミニチュアの家明器。あの世の生活道具
人形。埴輪と同じ発想

東京国立博物館なら東洋館3階5室です。同じ部屋に中国の陶磁も並んでいるので、続けて歩けます。

中国陶磁の見分け方|色をどこで出すかで1300年がわかる博物館の中国陶磁の部屋は、たぶん一番くじけやすい場所です。 唐、宋、元、明、清。1300年分のやきものが一列に並んでいて、キャプションには聞いたことのない窯の名…

おわりに

3000年前、中国の人々は、いちばん貴重な金属で鍋を作りました。

祖先に食べさせるためです。そしてその鍋は、やがて国そのものを意味するようになりました。

その技術が東へ渡り、朝鮮半島を通って日本に着いたとき、鍋は鍋ではなくなっていました。刃のない剣と、鳴らない鐘になっていた。

同じ金属、同じ技術。受け取った側が、何を大事だと思ったかで、行き先が変わったわけです。

博物館で3本足の鍋を見たら、その足元をちょっと思い出してみてください。ここが、日本の銅鐸のふるさとです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵