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博物館で何を見る?──奈良時代、宝物は埋めずに蔵に残された

博物館で時代順に展示を歩いていくと、奈良時代のケースの前で、ふと違和感を覚えることがあります。

そこだけ、モノがきれいなんです。

古墳時代のコーナーは、土の色をしています。錆びた鉄の剣、緑青の吹いた銅鏡、割れた土器。飛鳥時代になると瓦と金銅仏が並びますが、これも金属と焼き物です。

ところが奈良時代のケースには、布が残っています。紙が残っています。木の箱に、塗った色がそのまま残っています。

理由はひとつです。そのモノは、土に埋まっていないから。

奈良時代は、「埋めずに残す」ことが始まった時代です。この記事はそこを軸に、博物館の奈良時代コーナーの見方をまとめます。

💡 蔵にしまう文化は、奈良に突然生まれたわけではありません。

古くから神社には「神宝」を納め、守り伝える文化がありました。石上神宮(奈良県天理市)に伝わる七支刀は、369年に百済から贈られたとされる鉄の刀です。神宮の宝として約1600年伝えられてきました。宗教施設は、古代日本の「保存装置」の一つだったのです。

奈良時代になると、その仕組みが国家と大寺院の規模へと広がり、正倉院へとつながっていきます。

1. 残り方が、3回変わった

このシリーズはここまで、時代ごとに「モノがどうやって今日まで残ったか」を追ってきました。並べると、こうなります。

時代お金の使い道残り方博物館で見るもの
古墳埋める副葬品(掘り出したもの)
飛鳥建てる瓦・仏像
奈良しまう宝物(伝わってきたもの)

古墳時代は、大事なものを墓に入れました。だから残った──というより、埋めたから残った。地上にあったものは、ほとんど消えています。

飛鳥時代は、墓ではなく寺に金をかけるように変わりました。埴輪が消えて、瓦が現れる時代です。建物は火事で失われても、瓦と仏像は残ります。

そして奈良時代。ここで初めて、壊れやすいものが、壊れないまま残ります。蔵に入れて、代々の人が守り続けたからです。

言いかえると、奈良時代のケースの中身は、考古学者が掘り出したものではありません。1300年間、誰かがずっと持っていたものです。ここが決定的に違います。

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2. 蔵にしまわれた宝物──正倉院と法隆寺献納宝物

では、その「蔵」はどこにあったのか。日本の博物館の奈良時代コーナーは、ほとんどが次の2つの蔵から来ています。

正倉院(東大寺)

756年、聖武天皇が亡くなった後、妻の光明皇太后が、天皇が愛用していた品々を東大寺の大仏に捧げました。楽器、鏡、刀、家具、衣類、文房具、薬。その後も何度か品が加えられ、東大寺の倉に納められます。

これが正倉院宝物です。現在およそ9000件。

倉は、高床の校倉造(あぜくらづくり)。柱で床を持ち上げ、三角に削った木材を横に積み上げた構造で、湿気が上がりにくく風が通ります。中身は木の箱(唐櫃)に入っていました。建物と箱の二重の守り、そして何より、勝手に開けられなかったことが効きました。

正倉院は天皇の許可がなければ開けられない蔵(勅封倉)です。開けるたびに記録が残り、開けたら封をし直す。「開けにくい」というのが、最高の保存装置でした。年に一度の点検のため開封する時期に合わせて、奈良国立博物館で毎年秋(10月下旬〜11月上旬)に正倉院展が開かれます。会期限定で、出る品は毎年変わります。

法隆寺献納宝物(東京国立博物館)

もうひとつが法隆寺の蔵です。こちらは正倉院より、およそ100年古い

中心の年代誰の時代か
法隆寺献納宝物7世紀(8世紀のものも混在)聖徳太子とその直後
正倉院宝物8世紀中ごろ(756年〜)聖武天皇・光明皇后

この100年の差は、けっこう大きいです。前の記事で見たとおり、7世紀は豪族が墓をやめて寺を建て始めた時代。つまり飛鳥時代のモノが、土に埋まらずに残っているという、かなり珍しい一群なのです。

古墳時代のモノは、掘らないと出てきません。飛鳥時代のモノも、瓦や礎石は地面から出てきます。ところが法隆寺の蔵にあった金銅仏は、掘り出されたのではなく、寺に置かれたまま1300年経った

明治維新のあと、寺は経済的に苦しくなります。1878年(明治11年)、法隆寺は寺に伝わっていた宝物を皇室に献納しました。約300件。かわりに下賜金を受け、伽藍の修理にあてました。

この一群がのちに東京国立博物館に移り、いまは法隆寺宝物館という専用の建物で展示されています。手のひらほどの金銅仏がずらりと並ぶ部屋(通称「四十八体仏」。ただし実際の数は48体ぴったりではありません)、竜首水瓶、香炉、経典。8世紀のものでは、伎楽の面もあります。

正倉院と並ぶ、もうひとつの「開けられなかった蔵」です。ただし中身の時代はひと世代ぶん古い。ここを押さえておくと、10月の正倉院展との違いがはっきりします。

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3. 文字が残りはじめる

奈良時代のもうひとつの特徴は、モノに文字がついてくることです。

古墳時代、文字はごく特別なものでした。刀に名前を刻むこと自体が事件でした。それが奈良時代になると、文字は役所の日常の道具になります。

木簡

短く削った木の板に墨で書いたメモです。荷札、伝票、役人の練習書き、休暇届まであります。平城宮跡や平城京跡から、数十万点が見つかっています。

木は普通なら腐りますが、ゴミ捨ての穴や溝の底で、水に浸かって空気から遮断された状態だと残ります。皮肉なことに、捨てられたから残ったわけです。

木簡がおもしろいのは、宝物と違って「見せるつもりのなかった文字」だという点です。どこから何が何俵届いたか、誰が何日休んだか。1300年前の事務の生々しい記録が読めます。

写経と、その裏側

紙も残ります。光明皇后が発願した大規模な写経(740年に始まる、通称「五月一日経」)などが正倉院に伝わっています。

さらに変わった残り方をしたものがあります。戸籍です。702年の戸籍──村ごとの家族構成が書かれた台帳が、正倉院に残っています。ただしそれは、大事に保管されたからではありません。

役所は、用済みになった古い紙を捨てずに、裏を使って経典を書き写しました。表の戸籍はもう不要でしたが、裏の経文が大事だったので、蔵に納められた。結果として、日本最古級の戸籍が今日まで生き延びています。

裏紙のおかげで残った歴史、というわけです。

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4. 仏像の物差しが変わる──金属から、土と漆へ

仏像好きにとって、奈良時代は物差しが切り替わるポイントです。

時代主な材料・技法作り方の性格
飛鳥・白鳳金銅仏、木彫(クスノキ)鋳る・削る
奈良塑像(土)、乾漆(漆と麻布)盛り上げる
平安以降木彫(一木造・寄木造)削る

塑像は、木の芯に縄を巻き、粘土を盛って作ります。乾漆は、麻布を漆で貼り重ねて形を作る技法です。どちらも足して形を作るので、指先や衣のしわ、まぶたの微妙な線まで自由に作れます。

だから奈良時代の仏像は、急に生々しくなります。興福寺の阿修羅像(734年、脱活乾漆)、新薬師寺の十二神将(塑像)、東大寺法華堂の不空羂索観音(乾漆)。表情が「人」に近づくのは、この材料のせいです。

ところが平安時代に入ると、この2つの技法はすっと減って、木彫に戻ります。理由は単純で、手間と金がかかりすぎるからです。漆は高価、工程は長い。国家が総力で寺を建てていた時期にしか成立しない作り方でした。

つまり仏像の材料は、その時代の財布の中身を映しています。

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5. 器と色──奈良三彩と、西から来たガラス

奈良三彩

緑・褐色・白の3色をかけた焼き物です。唐の「唐三彩」を見た日本の工人が、国内で真似して作りました。平城宮跡や各地の国分寺跡、そして正倉院にも伝わっています。

土器がずっと「素焼き」だった列島に、色つきの器が現れる。これも奈良時代の目印です。

白瑠璃碗(はくるりのわん)

正倉院の宝物のなかに、円形の切り込み模様がびっしり並んだガラスの碗があります。ササン朝ペルシャ系のカットガラスです。

そして東京国立博物館にも、これとよく似た碗が伝わっています。伝安閑天皇陵出土とされるもので、こちらは奈良時代より前、古墳時代の副葬品です。

同じ形のガラスが、一方は墓の中から、一方は蔵の中から出てくる。この記事の軸そのままです。残り方が変わっただけで、モノの流れは古墳時代から続いていたということでもあります。

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6. 瓦が、規格品になる

飛鳥時代の記事で、「埴輪が消えて瓦が現れた」と書きました。奈良時代の瓦は、その続きです。変わるのはそろい方です。

  • 飛鳥の瓦:花びらが1枚ずつぷっくりした蓮の花模様(素弁)。寺そのものが数えるほどしかなく、瓦も寺ごとに個性がある
  • 奈良の瓦:花びらが二重に重なる模様(複弁)が主流。741年、国分寺建立の詔が出て、全国60余国に国分寺・国分尼寺を建てる国家事業が始まる

全国いっせいに寺を建てるとなると、瓦は工房で大量生産されます。同じ木型で押した同じ模様の瓦が、遠く離れた国から出てくる。ヘラ書きや刻印で、どこの工房が作ったかまで分かるものもあります。

博物館の瓦のケースは地味ですが、花びらの数と重なり方を見ると時代が読めるので、一度覚えると急に楽しくなる棚です。

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7. なぜ、このシリーズは奈良で終わるのか

「博物館で何を見る?」は、旧石器・縄文弥生・古墳・飛鳥・奈良の5本で終わりにしました。理由がこの記事の内容そのものです。

奈良時代を境に、博物館の展示品は掘り出したもの(考古資料)から伝わってきたもの(伝世品)に切り替わります。

博物館では、同じ時代のものでも置かれる場所が違います。飛鳥時代の瓦と、飛鳥時代の仏像が別の建物にあるのは、そのためです。

平安時代以降の展示ケースに、発掘品はほとんど出てきません。並ぶのは、寺や公家や大名の家に伝わった絵、書、刀、茶碗です。そうなると、見るための物差しも変わります。「どの地層から出たか」ではなく、「誰がこれを注文したか」です。国家が注文した時代、貴族が注文した時代、武士と禅僧が注文した時代、天下人が、そして町人が注文した時代。

平安以降は、そちらの記事に引き継ぎます。

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8. 歩き方とまとめ

東京国立博物館で見るなら

場所見るもの
法隆寺宝物館7〜8世紀の献納宝物。小金銅仏の部屋、伎楽面、幡
本館1階 彫刻の部屋塑像・乾漆の質感を近くで見る
平成館1階 考古展示室(奈良〜のコーナー)瓦、木簡、奈良三彩、墨書土器

法隆寺宝物館は建物ごと静かなので、休憩を兼ねて回ると効率がいいです。

奈良国立博物館(正倉院展)で見るなら

  • 毎年秋の会期限定。出品は毎年変わるので、その年の出品目録を先に見てから行く
  • 目玉の1点だけでなく、「文書」「薬」「木の箱」のケースを必ず見る。日用品が1300年残っていることのすごさは、そこにいちばん出ます

まとめ

  • 奈良時代は、大事なものを埋めるのをやめて、蔵にしまった時代
  • だから布・紙・木が生き残った。日本の博物館の奈良コーナーは、正倉院と法隆寺の蔵から来ている
  • 開けにくい蔵、開けるたびに記録が残る仕組みが、いちばんの保存装置だった
  • 仏像は「盛り上げて作る」時代に入り、表情が生々しくなる
  • ここから先は、掘り出したものではなく伝わったもの。物差しは「誰が注文したか」に変わる

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