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高句麗の歴代王 全28代一覧|建国から滅亡まで

韓国時代劇『朱蒙』『太王四神記』を観ていて、「この王様、何代目?」「広開土王って、いつの人?」と気になったことはありませんか。

高句麗は、紀元前37年から668年まで、およそ700年続いた国です。王の数は全部で28代

このページでは、その28代すべてを一覧表にまとめました。ドラマになっていない王も省かず、在位年と「何をした人か」を一行でつけています。まずは表を眺めてみてください。

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高句麗はどんな国だったのか

一覧を見る前に、30秒だけ全体像を。

高句麗(こうくり/コグリョ)の基本情報

  • 建国 紀元前37年、朱蒙(チュモン)が卒本(そつほん)に建国
  • 場所 中国東北部〜朝鮮半島北部(今の中国・遼寧省、吉林省と北朝鮮)
  • 卒本 → 国内城(がんないじょう) → 平壌(ピョンヤン)と2回移動
  • 滅亡 668年、唐と新羅の連合軍に敗れる
  • 王の数 全28代

高句麗は、三国のなかで一番北にあって、一番大きくて、一番戦った国です。

北には中国の王朝(漢・魏・隋・唐)、南には百済と新羅。四方を敵に囲まれた立地で、700年間ずっと戦い続けました。ドラマの高句麗がやたらと戦ばかりしているのは、演出ではなく実情です。

そして高句麗の歴史は、都がどこにあったかで3つの時代に分けると、ぐっと整理しやすくなります。

時代期間だいたいの性格
① 卒本(チョルボン)時代卒本前37〜3年建国の時代
② 国内城(クンネソン)時代国内城3〜427年国の形を整え、最大版図へ
③ 平壌(ピョンヤン)時代平壌427〜668年南へ進出、そして滅亡

この3つの色分けを頭に入れて、次の一覧表を見てください。

高句麗 歴代王 全28代一覧

王名(読み)在位ひとこと
1東明聖王(トンミョンソンワン)/朱蒙(チュモン)前37–前19建国者。都は卒本
2瑠璃明王(ユリミョンワン)前19–18国内城へ遷都(3年)
3大武神王(テムシンワン)/無恤(ムヒュル)18–44扶余を破る。「戦いの神」
4閔中王(ミンジュンワン)44–48大武神王の弟
5慕本王(モボンワン)48–53暴政により臣下に殺される
6太祖大王(テジョワン)53–146領土を大きく広げる。在位93年と伝わる
7次大王(チャデワン)146–165甥を殺して即位し、のちに暗殺される
8新大王(シンデワン)165–179明臨答夫(ミョンニムダプブ)を初代の国相に
9故国川王(コグクチョンワン)179–197乙巴素(ウルパソ)を登用。賑貸法を実施
10山上王(サンサンワン)197–227丸都城(ファンドソン)を築く
11東川王(トンチョンワン)227–248魏の毌丘倹(かんきゅうけん)に攻められ都が陥落
12中川王(チュンチョンワン)248–270王権の安定に努める
13西川王(ソチョンワン)270–292粛慎(しゅくしん)を討つ
14烽上王(ポンサンワン)292–300暴政により廃位され、自死
15美川王(ミチョンワン)300–331313年 楽浪郡を滅ぼす(中国の拠点を一掃)
16故国原王(コグクウォンワン)331–371百済・近肖古王との戦いで戦死
17小獣林王(ソスリムワン)371–384仏教公伝(372)・太学・律令(373)。国の形を整える
18故国壌王(コグクヤンワン)384–391後燕と戦う
19広開土王(クァンゲトワン)/談徳(タムドク)391–413最大版図を築いた征服王。好太王碑
20長寿王(チャンスワン)413–491平壌へ遷都(427)。百済の漢城を落とす(475)。在位79年
21文咨明王(ムンジャミョンワン)491–519扶余を併合(494)
22安臧王(アンジャンワン)519–531暗殺されたと伝わる
23安原王(アンウォンワン)531–545王位継承をめぐる争いが激化
24陽原王(ヤンウォンワン)545–559新羅・百済に漢江流域を奪われる
25平原王(ピョンウォンワン)559–590平岡公主(オンダル説話)の父
26嬰陽王(ヨンヤンワン)590–618隋の侵攻を撃退。612年 薩水大捷(乙支文徳)
27栄留王(ヨンニュワン)618–642淵蓋蘇文のクーデターで殺害される
28宝蔵王(ポジャンワン)642–668最後の王。668年、唐・新羅連合に滅ぼされる

668年 高句麗滅亡
→ 30年後の698年、遺民の大祚榮(テジョヨン)が渤海(ぼっかい)を建国

なぜ「〇〇原王」「〇〇川王」が多いの?

高句麗の王名には、故国原王・故国川王・美川王・東川王……と、地名らしき字が並びます。これは葬られた場所の名前がそのまま王の呼び名(諡号)になっているからです。「故国原に葬られた王」だから故国原王。

だから名前が似ていて混乱しやすいのですが、逆に言えば名前を見れば同じ一族の墓域だとわかるという、ちょっと変わったネーミングなんです。

ひと目でわかる 高句麗28代の流れ

① 卒本時代(前37〜3年) 1代 東明聖王(朱蒙) 前37 建国 ② 国内城へ遷都(3年) 2代 瑠璃明王 3代 大武神王 4〜14代(44〜300年) 魏の侵攻を受け、都が一度陥落 15代 美川王 313 楽浪郡を滅ぼす 16代 故国原王 371 百済・近肖古王と戦い戦死 17代 小獣林王 372 仏教公伝/373 律令 18代 故国壌王 19代 広開土王(談徳) 391〜413 最大版図を築く ③ 平壌へ遷都(427年) 20代 長寿王(在位79年) 475 百済の漢城を落とす 21〜25代(491〜590年) 漢江流域を新羅・百済に奪われる 26代 嬰陽王 612 薩水大捷・隋を撃退 27代 栄留王 642 淵蓋蘇文のクーデターで殺害 28代 宝蔵王 668 唐・新羅連合に敗れ滅亡 698 渤海 建国(大祚榮) 高句麗の遺民が再建

一覧表を「縦の流れ」にしたのがこちらです。都の移動で色を分けてあります。

見てのとおり、高句麗の王位はほぼ一本の線で進みます。朝鮮王朝のようなクーデターによる王統の入れ替わりが少なく、父から子へ、子がいなければ弟へ、と素直につながっていくのが特徴です。

例外は最後の2代。27代・栄留王が家臣の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)に殺され、その淵蓋蘇文が28代・宝蔵王を立てます。つまり最後の王は、実権を持たない「立てられた王」でした。ここから滅亡までは、あっという間です。

ここだけ押さえる5人の王

28代のうち、この5人を知っていればドラマはだいたい追えます。

1代 東明聖王(朱蒙)— 卵から生まれた建国者

高句麗の建国者。ドラマ『朱蒙』の主人公です。

扶余(プヨ)の王子として育ちながら、命を狙われて南へ逃れ、卒本の地で高句麗を建てました。卵から生まれたという建国神話を持ち、弓の名手。「朱蒙」という名前自体が、扶余の言葉で「弓の上手い人」を意味すると伝わります。

そして興味深いのが、彼の息子・温祚(オンジョ)が南へ下って百済を建てたとされること。高句麗と百済は、建国神話のうえでは兄弟国なんです。のちに死力を尽くして殺し合う2つの国が、同じ父から始まっている──ここが朝鮮半島古代史の面白いところです。

17代 小獣林王 — 地味だけど、いちばん効いた王

ドラマにもならず、戦いで勝ったわけでもない。でも高句麗を「国」にしたのはこの人です。

父・故国原王が百済に敗れて戦死した直後に即位した小獣林王は、軍を立て直す前に3つのことをやりました。

  • 372年 仏教を受け入れる(人々の心をひとつにまとめる)
  • 372年 太学を設立(役人を育てる学校)
  • 373年 律令を制定(成文法。国を法律で動かす)

戦争に負けた直後に、教育と法律を整えた。これは会社にたとえるなら、大赤字を出した直後に、社員研修と就業規則の整備から始めたようなものです。地味です。でもこの土台があったからこそ、20年後に登場する広開土王が一気に走れました。

「4〜18代は省略」されがちですが

ドラマ早見表などでは4〜18代がまとめて省かれることが多いのですが、実は15代・美川王 → 16代・故国原王 → 17代・小獣林王の3代が、高句麗が大国になるための助走にあたります。

楽浪郡を追い出し(15代)、百済に大敗し(16代)、国の仕組みを整える(17代)。この順番があって、19代の広開土王があります。

19代 広開土王 — 名前のとおり「土地を広く開いた」王

高句麗最大のスターです。『太王四神記』『広開土太王』の主人公。

18歳で即位し、39歳で亡くなるまでの22年間で、北は満州、南は漢江流域まで領土を広げました。名前の「広開土」は、そのまま「広く土を開いた」という意味。諡号が功績の説明になっている、わかりやすい王です。

日本史とも深く関わります。息子の長寿王が建てた**好太王碑(広開土王碑)**には、当時の倭(日本)との戦いが刻まれており、日本古代史の重要史料として今も議論が続いています。

20代 長寿王 — 79年在位、97歳まで生きた王

名前のとおり、とにかく長い。在位79年は東アジアの歴史でも屈指の記録です。

やったことは2つ。427年に平壌へ遷都し、475年に百済の都・漢城(ハンソン)を攻め落として蓋鹵王(ケロワン)を処刑しました。

ここで思い出してほしいのが、16代・故国原王です。百済・近肖古王に敗れて戦死した王。長寿王の漢城攻略は、その104年越しの報復にあたります。高句麗と百済の因縁が、ここで一周するわけです。

[リンクカード:百済の歴代王 全31代一覧]

28代 宝蔵王 — 最後の王

642年、淵蓋蘇文がクーデターを起こして27代・栄留王を殺し、傀儡として立てたのが宝蔵王です。実権は最後まで淵蓋蘇文が握り続けました。

668年、高句麗滅亡。宝蔵王は唐へ連れ去られ、のちに高句麗遺民の統治を任されるも、独立を企てたとして流罪となり、その地で亡くなります。

高句麗はなぜ滅んだのか

「隋の大軍を3度も撃退した高句麗が、なぜ唐に負けたのか」──これが最大の謎です。

隋には勝った

26代・嬰陽王の時代、隋の煬帝が113万とも号する大軍で攻めてきました(612年)。これに対し、名将 乙支文徳(ウルチ・ムンドク)が偽りの撤退で敵を深く誘い込み、疲れきったところを薩水(サルス)で叩き潰します。薩水大捷。生きて帰った隋軍はごくわずかだったと伝わります。

隋はこの遠征の負担がもとで、まもなく滅びました。高句麗が隋を倒したと言ってもいいほどの戦いです。

なのに唐には負けた

理由は大きく3つです。

① 内部が割れた
淵蓋蘇文という強烈な独裁者が国を支えていましたが、彼が665年ごろに死ぬと、息子3人が後継争いを始めます。しかも長男の男生が唐に亡命して道案内を買って出るという事態に。内側から鍵を開けたわけです。

② 挟み撃ちにされた
660年、唐と新羅の連合軍が先に百済を滅ぼしました。これで高句麗は北の唐と南の新羅に挟まれます。百済という「南の壁」を失ったのが致命的でした。

③ 70年戦い続けて疲れきっていた
隋との戦争から数えて、高句麗はほぼ休みなく大国と戦い続けていました。勝ち続けても国力は削れていきます。

高句麗が滅んだ本当の原因

外から攻められて負けたのではなく、70年戦い抜いた疲労のうえに、指導者の死で内部が割れたことが決定打でした。隋の113万は防げても、身内の後継争いは防げなかった──というのが高句麗最後の姿です。

「安市城の城主・楊萬春」は史料に名前がありません

映画『安市城』などで有名な、唐の太宗を退けた安市城の城主。名前の「楊萬春(ヤン・マンチュン)」は、実は朝鮮時代(17世紀以降)の小説に出てくる名前で、『三国史記』には城主の名前が記録されていません。安市城の攻防そのものは史実ですが、名前は後世の創作です。

滅亡のあと ── 渤海へ

668年に国は消えましたが、話には続きがあります。

30年後の698年、高句麗の遺民をひきいた大祚榮(テジョヨン)が、中国東北部に渤海を建国しました。渤海は日本にもたびたび使節(渤海使)を送っており、『続日本紀』などに記録が残っています。

ドラマ『大祚榮』は、この滅亡から渤海建国までを描いた作品です。

渤海は926年に契丹(遼)に滅ぼされるまで、約230年続きました。自ら「高麗(高句麗)の後継」を名乗り、日本へ送った国書にも高句麗の国名を使っています。高句麗の物語は、668年では終わっていないわけです。

【豆知識】高句麗と高麗は別の国です

最後に、検索でもよく混同されているポイントを。

高句麗(コグリョ)高麗(コリョ)
時期前37年〜668年918年〜1392年
建国者朱蒙王建(ワンゴン)
卒本→国内城→平壌開京(ケギョン/今の開城)
次の時代統一新羅・渤海朝鮮王朝

約250年も空いている、まったくの別国です。

ややこしいのは、高麗が「高句麗の後継者」を自称して国名をつけたこと。そして英語の Korea の語源が、この高麗(Koryŏ)だという点です。つまり今の「韓国・朝鮮」を指す英語名は、高句麗ではなく高麗のほうから来ています

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵