日本の歴史の教科書に、たびたび登場する国「百済(くだら)」。仏教を伝え、王仁(わに)を送り、滅亡のときには日本が大軍を出して助けようとした──日本ともっとも縁の深い国です。
その百済に、王は全部で31代いました。
このページでは31代すべてを一覧表にまとめています。ドラマになっていない王も省かず、在位年と「何をした人か」を一行で確認できます。
百済はどんな国だったのか
一覧を見る前に、30秒だけ全体像を。
百済(くだら/ペクチェ)の基本情報
- 建国 紀元前18年、温祚王(オンジョワン)が漢城(ソウル付近)に建国
- 場所 朝鮮半島の南西部
- 都 漢城 → 熊津(ウンジン/公州) → 泗沘(サビ/扶余)と2回移動
- 滅亡 660年、唐と新羅の連合軍に敗れる
- 王の数 全31代
百済を理解するカギは、都が3回変わっていることです。
しかも遷都の2回とも、自分から移ったのではありません。攻められて、逃げた結果です。だから百済史は、「都がどこにあるか」でまったく性格の違う3つの時代に分かれます。
| 時代 | 都 | 期間 | どんな時代か |
|---|---|---|---|
| ① 漢城(ハンソン)時代 | 今のソウル | 前18〜475年 | 全盛期。近肖古王が半島を席巻 |
| ② 熊津(ウンジン)時代 | 今の公州 | 475〜538年 | 高句麗に都を落とされ逃亡。再建の時代 |
| ③ 泗沘(サビ)時代 | 今の扶余 | 538〜660年 | 仏教文化の華。そして滅亡 |
高句麗が「一本の線でまっすぐ」だとすれば、百済は二度どん底に落ちて、二度立ち上がった国です。
そして日本と深く関わるのは、主に②と③の時代。武寧王・聖王・武王・義慈王──日本史に出てくる百済の王は、だいたいこの後半に集中しています。
百済 歴代王 全31代一覧
| 代 | 王名(読み) | 在位 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 1 | 温祚王(オンジョワン) | 前18–28 | 建国者。朱蒙の息子と伝わる。漢城に都を置く |
| 2 | 多婁王(タルワン) | 28–77 | 新羅との争いが始まる |
| 3 | 己婁王(キルワン) | 77–128 | — |
| 4 | 蓋婁王(ケルワン) | 128–166 | — |
| 5 | 肖古王(チョゴワン) | 166–214 | 新羅へたびたび攻め込む |
| 6 | 仇首王(クスワン) | 214–234 | — |
| 7 | 沙伴王(サバンワン) | 234 | 幼くして即位、すぐ廃される |
| 8 | 古尓王(コイワン) | 234–286 | 官位十六品・服制を定める。国の骨格を作る |
| 9 | 責稽王(チェッケワン) | 286–298 | 戦死 |
| 10 | 汾西王(ブンソワン) | 298–304 | 楽浪の刺客に暗殺される |
| 11 | 比流王(ピリュワン) | 304–344 | — |
| 12 | 契王(ケワン) | 344–346 | — |
| 13 | 近肖古王(クンチョゴワン) | 346–375 | 最盛期を築く。371年 高句麗・故国原王を討つ。七支刀 |
| 14 | 近仇首王(クングスワン) | 375–384 | 父の路線を継ぐ |
| 15 | 枕流王(チムニュワン) | 384–385 | 384年 仏教を受け入れる |
| 16 | 辰斯王(チンサワン) | 385–392 | 広開土王に攻められ苦戦 |
| 17 | 阿莘王(アシンワン) | 392–405 | 広開土王に大敗。倭と結ぶ |
| 18 | 腆支王(チョンジワン) | 405–420 | 倭に人質として滞在後、帰国し即位 |
| 19 | 久尓辛王(クイシンワン) | 420–427 | — |
| 20 | 毗有王(ピユワン) | 427–455 | 新羅と同盟を結ぶ(羅済同盟) |
| 21 | 蓋鹵王(ケロワン) | 455–475 | 475年 長寿王に漢城を落とされ処刑される |
| 22 | 文周王(ムンジュワン) | 475–477 | 熊津へ遷都。臣下に暗殺される |
| 23 | 三斤王(サムグンワン) | 477–479 | 13歳で即位、15歳で死去 |
| 24 | 東城王(トンソンワン) | 479–501 | 国を立て直すも暗殺される |
| 25 | 武寧王(ムリョンワン) | 501–523 | 中興の王。日本生まれと伝わる。武寧王陵 |
| 26 | 聖王(ソンワン) | 523–554 | 泗沘へ遷都(538)。日本へ仏教を伝える。戦死 |
| 27 | 威徳王(ウィドクワン) | 554–598 | 父の敵討ちに失敗。45年の長期政権 |
| 28 | 恵王(ヘワン) | 598–599 | 高齢で即位、1年で死去 |
| 29 | 法王(ポプワン) | 599–600 | 殺生禁止令を出す |
| 30 | 武王(ムワン) | 600–641 | 弥勒寺を建立。薯童(ソドン)説話の主人公 |
| 31 | 義慈王(ウィジャワン) | 641–660 | 最後の王。660年、唐・新羅連合に降伏 |
660年 百済滅亡
→ 663年、日本(倭)が救援軍を送るも白村江の戦いで大敗。百済再興は潰える
百済の王名に「近」がつくのはなぜ?
13代・近肖古王、14代・近仇首王。この「近」は、先祖と同じ名前の王だという印です。5代・肖古王、6代・仇首王がいるので、その名を継いで「近(ちかい)肖古王」となります。
日本の「後醍醐天皇」の「後」とほぼ同じ発想ですね。名前でご先祖を名乗ることで、自分の正統性を示しているわけです。
ひと目でわかる 百済31代の流れ
一覧表を縦の流れにしたのがこちらです。都の移動で3色に分けています。
高句麗の系図と並べてみると、違いがはっきりします。
高句麗がほぼ一本線だったのに対し、百済は21代・蓋鹵王のところで一度ぷつんと切れて、22〜24代が3代続けて非業の死を遂げます。都を落とされた直後の、国が崩れかけた時期です。
そこから25代・武寧王が立て直す。この「谷」があるかないかが、二国の歴史の性格そのものです。
ここだけ押さえる5人の王
31代のうち、この5人を知っていれば百済はだいたい追えます。
1代 温祚王 — 朱蒙の息子が建てた国
百済の建国者。そして高句麗の建国者・朱蒙の息子とされます。
『三国史記』によれば、朱蒙が高句麗を建てたあと、扶余に残していた別の息子(瑠璃)がやってきて後継者になりました。行き場を失った温祚は兄・沸流(ピリュ)とともに南へ下り、漢江のほとりに国を建てます。
つまり高句麗と百済は、建国神話のうえでは兄弟国です。のちに700年にわたって殺し合う二国が、同じ父から分かれている。ドラマ『朱蒙』で両国の建国者が同時に登場するのは、このためです。
13代 近肖古王 — 半島を席巻した最盛期の王
百済の全盛期を作った王。ドラマ『百済の王 クンチョゴワン』の主人公です。
371年、高句麗へ攻め上り、平壌城で高句麗王・故国原王を戦死させました。百済が高句麗の王を討ち取った、唯一の瞬間です。領土は南は全羅道まで、北は黄海道まで広がりました。
そして日本史との最大の接点がここにあります。奈良県の石上神宮に伝わる国宝七支刀(しちしとう)。刃が7つに枝分かれした異形の剣で、金象嵌の銘文が刻まれており、この近肖古王の時代に百済から倭へ贈られたものと考えられています。
21代 蓋鹵王 — 都を失い、処刑された王
百済史で最大の悲劇です。
475年、高句麗の長寿王が3万の兵で漢城を包囲。7日で陥落し、逃げた蓋鹵王は捕らえられて処刑されました。建国以来493年つづいた都を失ったわけです。
これは104年前、近肖古王が高句麗・故国原王を討ったことへの報復でした。やり返された格好です。高句麗と百済の因縁は、こうして一周します。
このとき百済は、滅亡寸前まで追い込まれました。次の文周王は暗殺、その次の三斤王は15歳で死去、東城王も暗殺。4代続けて王が非業の死という異常事態です。ここから復活したのが、次の武寧王でした。
25代 武寧王 — 日本生まれの中興の王
崩れかけた百済を建て直した王。そして日本ともっとも縁の深い百済王です。
『日本書紀』には、武寧王が九州の島で生まれたという記述があります。父が倭へ渡る途中、船中で産気づき、加唐島(かからしま/今の佐賀県唐津市)で生まれたため「嶋君(せまきし)」と呼ばれた、と。加唐島には今も生誕伝説の井戸が残り、韓国からの訪問者が絶えません。
そして1971年、韓国・公州で武寧王陵が未盗掘のまま発見されます。墓誌石に「寧東大将軍百済斯麻王」と刻まれており、被葬者が誰か確定できる朝鮮古代の王陵は、これが唯一です。しかも棺の木材は日本にしか自生しない**高野槇(こうやまき)**でした。
26代 聖王 — 日本に仏教を伝え、そして討たれた王
538年、都を泗沘(今の扶余)へ移し、国号を一時「南扶余」と改めた王。文化の面で百済の頂点を作りました。
日本史での登場はあまりに有名です。日本へ仏教を伝えたのがこの聖王。『日本書紀』では552年、『上宮聖徳法王帝説』などでは538年とされ、教科書で年号が2つ出てくるのはこのためです。
そして最期が壮絶でした。新羅と組んで高句麗から漢江流域を奪回したものの、新羅に横取りされて激怒。554年、管山城へ攻め込んだところを待ち伏せされ、捕らえられて斬られます。百済と新羅の同盟はここで完全に終わり、以後100年の敵対関係に入りました。
31代 義慈王 — 最後の王と、日本が出した大軍
「海東の曾子」と呼ばれるほど親孝行で聡明な王子でしたが、即位後は新羅を攻め立て、晩年は政治が乱れたと伝わります。
660年、唐の13万と新羅軍に挟撃され、百済は降伏。義慈王は唐へ連行され、その地で亡くなりました。有名な階伯(ケベク)将軍が5千の決死隊で戦った黄山伐の戦いは、このときです。
しかし話は終わりません。日本(倭)が百済再興のために大軍を送ります。百済の王子・豊璋(ほうしょう)を送り返し、663年、白村江(はくすきのえ)で唐・新羅の水軍と激突。日本は大敗しました。
白村江の敗戦が、日本を変えた
この敗戦のあと、日本は唐・新羅の来襲に備えて北九州に水城や山城を築き、都を内陸の近江大津宮へ移します。そして国内の体制を一気に固めていきました。
百済の滅亡が、日本という国家の形を作ったとも言えます。だからこそ百済は、日本の教科書にあれだけ登場するわけです。
百済が日本に残したもの
百済からは、王だけでなく人と技術が大量に渡ってきました。
| 伝えたもの | 時期 | 日本側の記録 |
|---|---|---|
| 漢字・論語 | 4〜5世紀 | 王仁(わに)が『論語』『千字文』を伝える |
| 仏教 | 538/552年 | 聖王が仏像・経論を送る |
| 暦・医・易 | 6世紀 | 五経博士らが交代で派遣される |
| 寺院建築 | 6〜7世紀 | 飛鳥寺の造営に百済の技術者 |
滅亡後には、王族・貴族・技術者が難民として大量に亡命してきました。彼らの多くが官人として朝廷に登用されています。
奈良の飛鳥や、大阪の百済(くだら)という地名。そのあたりを歩くと、この国が確かにここにあったことが実感できます。
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