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日韓古代史の史書ガイド|日本書紀・三国史記・三国遺事・百済三書の違いをわかりやすく

古代の日本と朝鮮半島の話を読んでいると、いろいろな本の名前が出てきます。

『古事記』『日本書紀』『三国史記』『三国遺事』、そして『百済記』『百済新撰』『百済本記』。

「この話はどの本に書いてあるのか」で、話の信頼度はずいぶん変わります。このページは、その本たちの見取り図です。

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まず、これだけ

まとめた人いつ今どこで読めるどんな本
古事記太安万侶(日本)712年全巻残っている神話と天皇の物語
日本書紀舎人親王ら(日本)720年全巻残っている倭(日本)の側の正史
三国史記金富軾ら(高麗)1145年全巻残っている高句麗・百済・新羅の正史
三国遺事僧・一然(高麗)1280年代全巻残っている伝説や仏教の話を集めた本
百済三書(百済記・百済新撰・百済本記)不明(百済系の人々)はっきりしない本は失われた。日本書紀の引用だけ百済の側の記録

年代の順に並べると

できたもの
369年ごろ七支刀(百済から倭へ)
414年広開土王碑(高句麗)
712年古事記
720年日本書紀
1145年三国史記
1280年代三国遺事

ここで意外なのは、この順番です。

日本書紀のほうが、三国史記より400年以上古い。

そして、百済の人が書いた本の文章を、書名つきでまとまって読めるのは、韓国の本ではなく日本書紀の中なのです。

ややこしいので、先に注意
『日本書紀』が引用する「百済本」と、『三国史記』の中にある「百済本」は、漢字1字違いの別の本です。読みはどちらも「くだらほんき」。このページでは、混ざらないように「『日本書紀』の百済本記」「『三国史記』の百済本紀」と書き分けます。

『古事記』と『日本書紀』──日本側の2冊

どちらも8世紀のはじめに、天皇の朝廷がまとめた本です。

古事記日本書紀
読者国の中向け国の外(中国など)も意識
書き方物語風。和語まじりの漢文年ごとに記す。中国風の漢文
特徴1つの話を1本の筋で語る「一書にいわく」と別の説も並べる。外国の本も引用する

日韓古代史で大事なのは、日本書紀が外国の本を引用していることです。中国の『魏志』や、百済三書の文章が、書名つきで入っています。

一方で、天日槍の子孫が神功皇后の母になる系譜は、古事記にだけ出てくる話です。同じ伝説でも、どちらの本に書かれているかは確かめておきましょう。

『三国史記』──高麗が編んだ三国の正史

『三国史記』は、1145年、高麗の王の命令で、金富軾(キム・ブシク)たちがまとめた歴史書です。朝鮮半島に現存するいちばん古い歴史書でもあります。

全50巻の中身は、こう分かれています。

部分巻数中身
本紀28巻王ごとの出来事。新羅本紀12巻、高句麗本紀10巻、百済本紀6巻
年表3巻三国と中国の年表
雑志9巻祭り、音楽、衣服、地理、役職など
列伝10巻人物の伝記

新羅本紀がいちばん分厚いのは、高麗が新羅を受け継いだ国だったからです。編者の金富軾自身も、新羅王族の流れをくむ人物とされます。

新羅本紀には、倭が攻めてきた記事が何度も出てきます。日本の本には書かれていない、半島側から見た倭の姿です。

初期の記事は、年代に注意

『三国史記』では、建国の年が 新羅(紀元前57年)→ 高句麗(紀元前37年)→ 百済(紀元前18年) の順になっています。

でも、中国の史書などから見ると、実際に国としてまとまったのは高句麗がいちばん早く、新羅がいちばん遅いと考えられています。新羅をいちばん古い国に見せる書き方になっているわけです。

脱解や瓠公、倭の女王「卑弥乎」の使いが出てくるのも、この初期の部分です。話として面白くても、年代はそのまま信じないのが安全です。

『三国遺事』──伝説を集めた本

『三国遺事』は、13世紀の終わりごろ、高麗のお坊さん一然(いちねん)がまとめた本です。

正史の『三国史記』が載せなかった伝説、昔話、仏教の話がたくさん入っています。建国神話の檀君(だんくん)の話が最初に出てくるのも、この本です。

新羅の王・脱解が「うちの先祖は鍛冶屋だった」と名乗る話や、新羅の夫婦が日本に渡って王と王妃になる延烏郎(ヨノラン)・細烏女(セオニョ)の話は、こちらに載っています。

百済三書──日本書紀の中にだけ残る本

『百済記』『百済新撰』『百済本記』の3冊をまとめて、百済三書と呼びます。名前のとおり、百済の歴史を書いた本です。

でも、本そのものはもう失われています。今読めるのは、『日本書紀』が「百済記にいわく」と引用した部分だけです。

どの本が引用されるかは、巻ごとに分かれています。

書名引用されている巻百済のだいたいの時代
百済記神功皇后・応神・雄略4世紀後半〜475年(近肖古王〜漢城陥落)
百済新撰雄略・武烈5世紀後半〜6世紀はじめ(蓋鹵王〜武寧王)
百済本記継体・欽明6世紀前半〜半ば(武寧王〜聖王)

時代ごとに担当の本が分かれていて、つなぐと百済の約200年分になります。

純粋な「百済の記録」とは限らない

手がかりは、言葉づかいです。

  • 『百済記』は、倭のことを「貴国(きこく)」とうやまって呼んでいます。
  • 『百済本記』には「日本天皇」という言葉が出てきます。「日本」「天皇」は、百済があった時代より後に使われるようになった呼び名です。

そのため、百済で書かれた記録そのものではなく、百済が滅んだあとに日本へ逃れてきた人々が、朝廷に出すためにまとめ直したものではないか、という見方があります。

百済の目線と、日本の朝廷への気づかい。その両方が混ざっていると考えて読むのがよさそうです。

中国の史書と、刻まれた文字(ひとことだけ)

日本と半島の本のほかに、外から見た記録と、その時代に刻まれた文字があります。

名前いつ日韓古代史で出てくる話
『三国志』魏書 東夷伝3世紀末倭人伝(卑弥呼)、韓伝(弁辰の鉄)
『後漢書』東夷伝5世紀前半57年、奴国の王に金印
『宋書』倭国伝488年倭の五王
『隋書』倭国伝636年遣隋使
七支刀369年ごろ百済から倭へ贈られた刀の銘文
広開土王碑414年高句麗と倭の戦い
稲荷山古墳の鉄剣471年ごろワカタケル大王の名前

中国の史書は、日本書紀や三国史記より何百年も早く書かれたものが多いのが強みです。刻まれた文字は、あとから書き直されていない、その時代の本物です。

120年のずれ──百済三書が見つけた手がかり

百済三書は、『日本書紀』の大きな「ずれ」を見つける手がかりになりました。

『日本書紀』の神功皇后・応神天皇の巻には、百済の王が亡くなった年などの記事があります。それを『三国史記』と照らし合わせると、こうなります。

出来事日本書紀の年三国史記の年
百済の肖古王(=近肖古王)が亡くなる神功55年=255年375年120年
百済の阿花王(=阿莘王)が亡くなる応神16年=285年405年120年
七支刀(七枝刀)が献上される神功52年=252年120年足すと372年

ぴったり120年。干支(えと)でいうと、ちょうどふた回りです。

七支刀の銘文は369年と読む説が有力で、120年足した372年とほぼ重なります。

このずれは、明治時代の歴史学者・那珂通世(なかみちよ)らによって詳しく論じられました。いまでは、神功皇后・応神天皇の巻の百済の記事は、120年足すと実際の年代に近づくと考えられています。

同じ巻の中で、年代が二重になっている

面白いのは、同じ神功皇后の巻に、中国の『魏志』から引いた「倭の女王(卑弥呼)」の記事も入っていることです。

こちらは神功39年=239年と、中国の本の年代のまま。

つまり同じ巻の中で、中国の記事は元の年代のまま、百済の記事は120年前にずらされている。神功皇后を卑弥呼の時代に置こうとした結果、百済の記事までいっしょに古くなってしまった、と考えられています。

読むときのコツ

古い本を読むときは、「誰が・いつ・何のために書いたか」を頭に置いておくと、迷いにくくなります。

誰の目線か気をつけたいこと
古事記・日本書紀8世紀の日本の朝廷天皇の国を古く、立派に見せたい
三国史記12世紀の高麗(新羅の後継)新羅を中心に、儒教の考え方で書く
三国遺事13世紀のお坊さん伝説や仏教の話が中心
百済三書百済系の人々百済の目線と、日本の朝廷への気づかいが混ざる
中国の史書中国の役人外から見た記録。伝え聞きや中国中心の見方が入る
刻まれた文字その時代の人本物だが文字が少なく、読み方が分かれる

どの本も、うそを書いているわけではありません。でも、どの本も誰かの立場から書かれています。だから、1冊だけで決めずに、ほかの本や出土品と照らし合わせる。120年のずれも、そうやって見つかりました。

こうした読み方については、こちらでも詳しく書いています。

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このあたりが気になった方へ

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵