『七日の王妃』、何度観ても、チェギョンとヨクが引き離される場面で泣いてしまいます。
でも観終わったあとに気になるのは「あの2人、本当はその後どうなったの?」ということ。
結論から言うと、チェギョンもヨクも燕山君も実在の人物です。ただしドラマの名場面の多くは創作で、史実の2人は二度と会えなかったとされています。
この記事では、ドラマを観た人の「?」を史実で埋めていきます。
まずは早見表:ドラマの登場人物は実在した?
| ドラマの人物 | 実在? | 史実ではどんな人? | その後 |
|---|---|---|---|
| シン・チェギョン | ○ | 端敬王后(タンギョンワンフ)。中宗の最初の妻 | 王妃になって7日で廃され、1557年に満70歳で亡くなる |
| イ・ヨク | ○ | 第11代王・中宗(チュンジョン)。燕山君の異母弟 | 1544年まで王位にあった |
| 燕山君(イ・ユン) | ○ | 第10代王。暴君として廃位された | 1506年、流刑先で亡くなる(満29歳) |
| ユン・ミョンヘ | △ | ドラマの架空の人物。モデルは章敬王后(チャンギョンワンフ) | 1515年、仁宗を産んだ直後に満23歳で亡くなる |
| パク・ウォンジョン | ○ | 中宗反正(クーデター)の首謀者 | 反正から4年後の1510年に亡くなる |
| シン・スグン | ○ | チェギョンの父 | 反正の夜に殺される |
| イム・サホン | ○ | 燕山君の側近 | 反正で殺される |
| チャン・ノクス | ○ | 燕山君が寵愛した側室 | 反正で処刑される |
ここから先は、この表の「その後」をひとつずつ見ていきます。
史実のヨク(晋城大君)は、燕山君に命を狙われていた?
ドラマのヨクは、兄の燕山君に命を狙われ続けます。史実の晋城大君は、そこまで劇的な目にはあっていません。でも「いつ殺されてもおかしくない」という危険は、本物でした。
晋城大君は燕山君の異母弟です。母は成宗の3番目の王妃・貞顕王后(チョンヒョンワンフ)で、幼い燕山君を育てた人でもありました。
1504年の甲子士禍で、燕山君は「実の母が死んだのは、父の側室たちのせいだ」と信じ込み、側室2人を宮中で打ち殺させました。さらに、そのうちの1人が産んだ王子2人まで殺しています。この2人は、晋城大君と同じ燕山君の異母弟でした。
晋城大君が生き延びられたのは、目立たないように、おとなしく暮らしていたからだと考えられます。
反正の夜、晋城大君は「殺される」と思った
1506年9月2日、反正の兵が屋敷を囲んだとき、晋城大君は「兄の燕山君が、自分を殺すために兵を送ってきた」と思い込み、自害しようとしました。それを止めたのがチェギョンだったと伝わっています。
「兵の馬の頭が屋敷の方を向いていたら、私たちは死ぬしかありません。宮殿の方を向いていたら、あなたを守りに来たのです」
晋城大君がどれほど怯えて暮らしていたかがわかる話です。
② チェギョンはなぜ7日で王妃をやめさせられたのか
1506年9月2日の反正で夫が王になり、チェギョンも王妃になりました。ところが、反正に加わらなかった父シン・スグンは、その夜のうちに殺されます。そして9月9日、チェギョンは宮殿を追われました。ここまでは、ほぼドラマのとおりです。
【ここはドラマも史実も同じ】燕山君の王妃は、チェギョンの叔母さん
燕山君の王妃・慎氏(シンシ)は、チェギョンの父シン・スグンの妹です。慎家は「前の王の妃」と「次の王の妃」を両方出した一族でした。
功臣たちが本当に恐れたもの
反正の功臣たちは、なぜそこまでチェギョンを追い出したかったのでしょうか。カギは、つい2年前に起きた甲子士禍です。
- 燕山君のとき:母(廃妃尹氏)が死を賜る → 息子の燕山君が王になり、甲子士禍で関わった人たちに復讐した
- チェギョンのとき:父(シン・スグン)が功臣たちに殺される → もしチェギョンが王子を産み、その子が王になったら…?
「次に復讐されるのは自分たちだ」。功臣たちは、燕山君のときと同じことが起きるのを恐れたと考えられています。
身を引いたのは、チェギョンではなかった
ドラマでは、チェギョンがヨクを守るために自分から身を引きます。
でも史実では、中宗は「糟糠の妻(苦労を共にしてきた妻)なのに、どうしたものか」と一度はためらいました。けれども功臣たちに重ねて迫られると、「国が何より重い。私情は考えていられない」と受け入れます。チェギョンはその日の夕方、輿に乗って宮殿を出ていきました。
【ここがドラマと違う】中宗には「NO」と言う力がなかった
ドラマのファンには厳しい現実ですが、中宗は自分で反乱を起こして王になったのではありません。功臣たちに担がれて王になった人です。即位したばかりの中宗に、妻を追い出せという要求を断る力はありませんでした。
その後も中宗は、功臣、新しく登用した若い学者たち、王妃の実家と、そのときどきに力のある人たちの間で揺れ続けました。ドラマのヨクのように「愛する人を自分の手で守る王」ではなかったのです。
2人はその後、もう一度会えたのか
答えは「会えなかった」です。
チマ岩の伝説
ソウルの仁王山(インワンサン)には「チマ岩」と呼ばれる岩があります。
宮殿の中宗が、仁王山の方を眺めては妻を想っていると聞いたチェギョンが、宮中で着ていた赤いチマ(スカート)を実家の裏の岩に広げた、という伝説です。ドラマもこの話をモチーフにしています。
ただし、これは後の時代に語られた伝説で、公式の記録にはありません。
→ 実際に仁王山で見たチマ岩の写真は、こちらの韓国旅行の記事で紹介しています。
実録に残る、中宗の「ため息」
伝説ではなく『中宗実録』に残る、こんな記事があります。
1516年、中宗は『高麗史』を読んでいました。権力者が太子の妻を追い出し、自分の娘を太子妃にしようとした場面です。中宗は深くため息をつき、しばらくぼんやりしていたといいます。
自分とチェギョンのことを重ねていたのかもしれません。
1515年、復位を願った人たちがいた
1515年、次の王妃(章敬王后)が亡くなりました。それをきっかけに、金浄(キム・ジョン)や朴祥(パク・サン)らが「チェギョンを王妃に戻すべきだ」と上疏します。
しかし反対の声が強く、願いは通りませんでした。上疏した人たちも処罰されています。
全羅道・淳昌(スンチャン)の「三印台(サミンデ)」は、このとき覚悟を決めた役人たちにちなむ史跡です。
別れてから50年以上
- 1544年:中宗が亡くなる
- 1557年:チェギョンが満70歳で亡くなる
チェギョンは中宗より13年長く生き、宮殿を出てから50年以上をひとりで過ごしました。王妃に戻ることはないまま、実家の墓地に葬られています。
233年後の名誉回復
1739年、第21代王・英祖(ヨンジョ)がチェギョンを王妃に戻し、「端敬王后」の名を贈りました。廃されてから233年後のことです。
英祖は反対する声に対して「夫が王になった日に、妻も王妃になったのだ」という趣旨の言葉で押し切ったといいます。
お墓は「温陵(オンルン)」として整えられ、今は世界遺産の朝鮮王陵の一つです。2019年から一般公開されています。
③ 反正の「勝ち組」:パク・ウォンジョンとミョンヘ
パク・ウォンジョンは反正の首謀者
パク・ウォンジョンは実在の人物です。ドラマで脇を固める柳順汀(ユ・スンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)も実在で、3人は「反正の三大将」と呼ばれました。
- ソン・ヒアン:反正の計画を最初に言い出した人。燕山君に睨まれ、吏曹参判(人事担当の次官)からいちばん下の武官の位まで落とされていました。この場面はドラマも史実どおりです
- ユ・スンジョン:文武両道のエリートで、燕山君からも信頼されていた大臣。
- パク・ウォンジョン:ソン・ヒアンの計画を形にした実行役
反正のあと、3人は順番に最高の位である領議政に就きます。ところが3人とも、就任から数か月で亡くなりました(パク・ウォンジョン1510年、ユ・スンジョン1512年、ソン・ヒアン1513年)。権力の頂点にいた時間は、意外なほど短かったのです。
ミョンヘは架空、でもモデルがいる
ドラマのユン・ミョンヘは架空の人物です、最後まで王妃になる場面は描かれません。モデルは、中宗の2番目の王妃・章敬王后です。
そして実際の章敬王后も、パク・ウォンジョンの姪でした。
章敬王后は1507年に王妃になりました。そして1515年、のちの仁宗(インジョン)を産んで約1週間後に、満23歳で亡くなります。その死が、「チェギョンを王妃に戻そう」という運動のきっかけになりました。
章敬王后が亡くなったあと、中宗の3番目の王妃になったのは文定王后(ムンジョンワンフ)です。ここから先の宮廷の争いは、こちらで。
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④ 反正の「負け組」のその後
燕山君
燕山君は王の身分を取り上げられ、王子時代の呼び名「燕山君」に戻されました。江華島(カンファド)の喬桐(キョドン)に流され、その年の11月に病気で亡くなっています。満29歳でした。
王の資格を失ったので、記録も『実録』ではなく『燕山君日記』と呼ばれています。
『中宗実録』には、燕山君が流刑先で亡くなったときの報告も残っています。「6日に燕山君が疫病で亡くなりました。死ぬ間際に他の言葉はなく、ただ慎氏に会いたいと言っていました」とあり、この慎氏は燕山君の王妃(チェギョンの叔母)のことです。
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王妃・慎氏
慎氏も王妃の位を取り上げられましたが、命は助かりました。
1512年には、江華島に葬られた夫の墓を移したいと中宗に願い出て、許されています。今のソウル市道峰区(トボング)にある燕山君の墓がそれです。慎氏は1537年に亡くなり、夫の隣に葬られました。
息子たち
いちばん悲しいのは、燕山君の子どもたちです。世子だったイ・ファン(満8歳)をはじめ、10歳にもならない王子4人が、反正の直後に流刑先で死を賜りました。中宗は反対したものの、功臣たちに押し切られたとされています。すでに嫁いでいた公主は命こそ助かりましたが、家を没収されています。
燕山君のそばにいた2人:イム・サホンとチャン・ノクス
燕山君が出てくるドラマには、必ずと言っていいほどセットで登場する2人がいます。側近のイム・サホンと、側室のチャン・ノクスです。
イム・サホンは、燕山君に母・廃妃尹氏(ペビユンシ)の死の真相を伝え、甲子士禍の引き金を引いた人物とされています。燕山君のいちばん近くで権力をふるいましたが、反正で殺されました。
チャン・ノクスは、燕山君に寵愛された側室です。反正で捕らえられ、処刑されました。ドラマでは燕山君に「殺してほしい」と頼んで最期を迎えますが、これは創作です。
ドラマでは2人が手を組む姿も描かれますが、コンビだったという記録ははっきりしません。どちらも燕山君の寵愛を受けた「取り巻き」で、反正でそろって命を落とした、というのが確かなところです。
まとめ:ドラマと史実、ここが違う
| ドラマ | 史実 |
|---|---|
| 成宗の密旨でヨクが次の王に | 創作 |
| ヨクが自分で反乱を率いる | 功臣たちに担がれた |
| 燕山君もチェギョンを愛していた | 創作 |
| チェギョンが7日で王妃を追われる | 史実 |
| 2人の再会 | 会えないまま別々に亡くなった |
ドラマのヨクの名場面は、ほぼ創作です
成宗の密旨、死んだと思われてからの帰還、ヨクが自分で率いる反乱は、どれも史実にはありません。実際の中宗は「担がれて王になった人」でした。ドラマファンとしては、ちょっと寂しい史実ですね。
でも、2人の絆まで作り話だったわけではなさそうです。少年少女のころに結婚し、7年間を共に過ごした2人。反正の夜に夫を励ましたと伝わるのはチェギョンで、中宗は「糟糠の妻なのに」と一度は彼女をかばいました。10年たっても、ため息をついていた中宗の姿を思うと、2人は本当に想い合っていたのかもしれません。
このドラマ、どこで観る?
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