『善徳女王』『花郎』『大王の夢』──韓国時代劇でおなじみの新羅(しらぎ/シルラ)。
三国のなかでもっとも小さく、もっとも遅れていた国が、最後には高句麗と百済を滅ぼして半島を統一します。そして紀元前57年から935年まで、実に992年。ほぼ千年続いた、東アジア屈指の長寿国家です。
王の数は全部で56代。このページでは、その56代すべてを一覧にまとめました。
新羅はどんな国だったのか
一覧を見る前に、30秒だけ全体像を。
新羅(しらぎ/シルラ)の基本情報
- 建国 紀元前57年、朴赫居世(パク・ヒョッコセ)が建国
- 場所 朝鮮半島の南東部
- 都 金城(キムソン/今の慶州)── 一度も動かず992年
- 三国統一 676年
- 滅亡 935年、高麗に降伏
- 王の数 全56代
百済が3回も都を移したのに対し、新羅は千年間まったく動いていません。今の慶州(キョンジュ)がそのまま王都でした。だから慶州は街全体が世界遺産で、「屋根のない博物館」と呼ばれます。
新羅を理解するカギは、次の3つです。
① もっとも遅れていた国だった
半島の東南の隅、山に囲まれた立地。中国と直接つながる海路を持たず、文物は高句麗や百済を経由して届きました。仏教の公認は527年で、高句麗より155年、百済より143年も遅い。「後発国」だったわけです。
② でも、それが逆に効いた
遅れていたぶん、中国の唐と手を組むという大胆な外交ができました。半島の統一を成し遂げたのは、軍事力ではなく外交です。
③ 血統がすべての社会だった
新羅には骨品制(こっぴんせい)という厳格な身分制度がありました。王になれるのは最高身分の「聖骨」だけ。この制度が、のちに女王が3人も誕生する理由になります。
新羅 歴代王 全56代一覧(前編)三国時代の新羅
まずは建国から統一直前まで、1〜29代です。
| 代 | 王名(読み) | 在位 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 1 | 朴赫居世(パク・ヒョッコセ) | 前57–4 | 建国者。卵から生まれたと伝わる。朴氏 |
| 2 | 南解次次雄(ナムヘチャチャウン) | 4–24 | 「次次雄」=祭司の意 |
| 3 | 儒理尼師今(ユリイサグム) | 24–57 | 六部を定める |
| 4 | 脱解尼師今(タレイサグム) | 57–80 | 昔(ソク)氏初の王。伽耶の金首露のライバル |
| 5 | 婆娑尼師今(パサイサグム) | 80–112 | — |
| 6 | 祇摩尼師今(チマイサグム) | 112–134 | — |
| 7 | 逸聖尼師今(イルソンイサグム) | 134–154 | — |
| 8 | 阿達羅尼師今(アダルライサグム) | 154–184 | — |
| 9 | 伐休尼師今(ポルヒュイサグム) | 184–196 | 昔氏 |
| 10 | 奈解尼師今(ネヘイサグム) | 196–230 | — |
| 11 | 助賁尼師今(チョブンイサグム) | 230–247 | — |
| 12 | 沾解尼師今(チョメイサグム) | 247–261 | — |
| 13 | 味鄒尼師今(ミチュイサグム) | 262–284 | 金(キム)氏初の王。以後この一族が主流に |
| 14 | 儒礼尼師今(ユレイサグム) | 284–298 | 倭の侵入に苦しむ |
| 15 | 基臨尼師今(キリムイサグム) | 298–310 | — |
| 16 | 訖解尼師今(フルヘイサグム) | 310–356 | — |
| 17 | 奈勿麻立干(ネムルマリプカン) | 356–402 | 金氏の世襲が確立。高句麗に従属 |
| 18 | 実聖麻立干(シルソンマリプカン) | 402–417 | 高句麗の人質から帰国し即位 |
| 19 | 訥祇麻立干(ヌルジマリプカン) | 417–458 | 高句麗から自立。百済と同盟(羅済同盟) |
| 20 | 慈悲麻立干(チャビマリプカン) | 458–479 | — |
| 21 | 炤知麻立干(ソジマリプカン) | 479–500 | 郵便網・市場を整備 |
| 22 | 智証王(チジュンワン) | 500–514 | 国号を「新羅」・称号を「王」に統一。于山国(鬱陵島)を服属 |
| 23 | 法興王(ポプンワン) | 514–540 | 527年 仏教を公認。律令を制定。金官伽耶を併合(532) |
| 24 | 真興王(チヌンワン) | 540–576 | 最大版図。漢江流域を奪取。花郎を組織化 |
| 25 | 真智王(チンジワン) | 576–579 | 4年で廃位される |
| 26 | 真平王(チンピョンワン) | 579–632 | 在位53年。娘が次の善徳女王 |
| 27 | 善徳女王(ソンドクヨワン) | 632–647 | 新羅初の女王。瞻星台・皇龍寺九層木塔 |
| 28 | 真徳女王(チンドクヨワン) | 647–654 | 最後の聖骨。唐との同盟を固める |
| 29 | 武烈王(ムヨルワン)/金春秋 | 654–661 | 真骨初の王。660年 百済を滅ぼす |
新羅 歴代王 全56代一覧(後編)統一新羅
ここからが統一新羅。30〜56代です。
| 代 | 王名(読み) | 在位 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 30 | 文武王(ムンムワン) | 661–681 | 668年 高句麗を滅ぼし、676年 三国統一。海中王陵 |
| 31 | 神文王(シンムンワン) | 681–692 | 貴族の反乱を鎮圧。国学を設立 |
| 32 | 孝昭王(ヒョソワン) | 692–702 | — |
| 33 | 聖徳王(ソンドクワン) | 702–737 | 統一新羅の全盛期。在位35年 |
| 34 | 孝成王(ヒョソンワン) | 737–742 | — |
| 35 | 景徳王(キョンドクワン) | 742–765 | 仏国寺・石窟庵を造営。文化の頂点 |
| 36 | 恵恭王(ヘゴンワン) | 765–780 | 8歳で即位。反乱で殺され武烈王系が断絶 |
| 37 | 宣徳王(ソンドクワン) | 780–785 | ここから王位争奪が常態化 |
| 38 | 元聖王(ウォンソンワン) | 785–798 | 読書三品科(官吏登用試験)を導入 |
| 39 | 昭聖王(ソソンワン) | 799–800 | — |
| 40 | 哀荘王(エジャンワン) | 800–809 | 叔父に殺される |
| 41 | 憲徳王(ホンドクワン) | 809–826 | 甥を殺して即位。金憲昌の乱 |
| 42 | 興徳王(フンドクワン) | 826–836 | 茶の栽培を始める |
| 43 | 僖康王(ヒガンワン) | 836–838 | 自死 |
| 44 | 閔哀王(ミネワン) | 838–839 | 殺される |
| 45 | 神武王(シンムワン) | 839 | 在位わずか半年。張保皐の支援で即位 |
| 46 | 文聖王(ムンソンワン) | 839–857 | 張保皐を暗殺させる |
| 47 | 憲安王(ホナンワン) | 857–861 | — |
| 48 | 景文王(キョンムンワン) | 861–875 | 「王様の耳はロバの耳」説話の王 |
| 49 | 憲康王(ホンガンワン) | 875–886 | 都の繁栄が記録に残る最後の時代 |
| 50 | 定康王(チョンガンワン) | 886–887 | — |
| 51 | 真聖女王(チンソンヨワン) | 887–897 | 3人目の女王。全国で農民反乱が噴出 |
| 52 | 孝恭王(ヒョゴンワン) | 897–912 | 後百済・後高句麗が建国(後三国時代へ) |
| 53 | 神徳王(シンドクワン) | 912–917 | 朴氏が王位に復帰 |
| 54 | 景明王(キョンミョンワン) | 917–924 | 高麗の王建に助けを求める |
| 55 | 景哀王(キョンエワン) | 924–927 | 後百済の甄萱に攻められ自害を強いられる |
| 56 | 敬順王(キョンスンワン) | 927–935 | 最後の王。935年、高麗に自ら降伏 |
935年 新羅滅亡(992年)
攻め落とされたのではなく、敬順王が国を高麗に譲り渡した
王の呼び方が4回も変わります
一覧を見て「尼師今」「麻立干」と見慣れない字が並ぶのに気づいたと思います。新羅は王の称号が4回変わっているんです。
| 称号 | 使われた時期 | 意味 |
|---|---|---|
| 居西干(コソガン) | 1代 | 君長 |
| 次次雄(チャチャウン) | 2代 | 祭司・シャーマン |
| 尼師今(イサグム) | 3〜16代 | 年長者・継承者 |
| 麻立干(マリプカン) | 17〜21代 | 頭領・最高位 |
| 王 | 22代〜 | 中国式の「王」 |
つまり最初は部族の長、やがて世襲の首長、そして22代・智証王のときに中国式の「王」を名乗るようになりました。称号の変化が、そのまま国家として成長していく過程になっているわけです。ここは高句麗・百済にはない、新羅ならではの面白さです。
ひと目でわかる 新羅56代の流れ
新羅の系図は、高句麗・百済とはまったく違う形をしています。
前半は3つの姓(朴・昔・金)が入れ替わり、13代から金氏が主流に。そして統一を果たした直後の30代・文武王から数代は安定しますが、36代・恵恭王で武烈王の血統が断絶してからは、王位争奪で目まぐるしく入れ替わります。
37代以降は、殺された王・自害した王・在位1年未満の王が続出。国が長かったぶん、末期も長かったのが新羅です。
ここだけ押さえる5人の王
24代 真興王 — 花郎を作り、最大版図を築いた王
ドラマ『花郎』の時代の王です。
7歳で即位し、在位36年で新羅の領土を最大にしました。百済・聖王と組んで高句麗から漢江流域を奪ったあと、その漢江を百済から横取り。怒って攻めてきた聖王を討ち取ります。
同盟相手を裏切った、と言えばそのとおりですが、この漢江の獲得こそが決定的でした。漢江を押さえると、黄海を通って中国と直接つながれる。ここで初めて新羅は唐と直接外交ができる国になり、100年後の三国統一につながります。
そしてもうひとつの功績が花郎(ファラン)の組織化。貴族の青年たちを心身ともに鍛える団体で、のちの新羅を支える人材が次々ここから出ます。
27代 善徳女王 — 東アジア初の女王
ドラマ『善徳女王』の主人公。新羅初の、そして朝鮮半島史上初の女王です。
なぜ女性が王になれたのか。骨品制のせいです。新羅では王になれるのは最高身分「聖骨」だけ。父・真平王に息子がおらず、聖骨の男子が尽きてしまったため、聖骨の女性である徳曼(トンマン)が即位しました。
つまり制度が厳格すぎたから、逆に女王が生まれたわけです。
在位中には瞻星台(チョムソンデ)という東アジア最古級の天文台を建て、皇龍寺に九層木塔を造営しました。瞻星台は今も慶州に現存しています。
29代 武烈王(金春秋)— 唐と組んだ外交の王
ドラマ『大王の夢』の主人公。統一への道を作った人です。
もともと王になれる血統ではありませんでした(聖骨ではなく真骨)。しかし娘婿を高句麗と百済に殺され、復讐のために動きます。まず高句麗へ行って同盟を持ちかけるも幽閉されて失敗。次に日本へ渡り、これも不調。最後に唐へ渡り、ついに唐・新羅同盟を成立させました。
この執念がすべてです。660年、唐の13万と新羅の5万で百済を挟撃し、滅亡させました。
30代 文武王 — 三国統一を完成させ、海の龍になった王
父・武烈王の事業を引き継ぎ、668年に高句麗を滅ぼします。
しかしここからが本番でした。唐は百済・高句麗の旧領をそのまま自分のものにしようとし、さらに新羅まで支配下に置こうとします。文武王は唐と正面から戦い、676年についに半島から唐軍を追い出しました。これが三国統一の完成です。
そして最期が印象的です。「死後は海の龍となって国を守る」と遺言し、慶州沖の岩礁に葬られました。大王岩(テワンアム)として今も残り、世界でも珍しい海中の王陵です。
56代 敬順王 — 戦わずに国を畳んだ最後の王
992年続いた国の、最後の王。
このころ新羅の支配は都の周辺だけに縮み、半島は後百済・高麗と争う後三国時代になっていました。935年、敬順王は家臣を集めてこう告げます。もはや国を保つことはできない、罪のない民をこれ以上死なせられない、と。
そして自ら高麗の王建に国を譲りました。王建はこれを厚遇し、敬順王を娘婿に迎え、慶州の長官に任じています。
なぜ新羅だけ「降伏」で終わったのか
高句麗も百済も、都を攻め落とされ、王は連行されて終わりました。新羅だけが自ら畳んだ。結果として慶州の街も王族も生き延び、新羅の文化はそのまま高麗へ引き継がれます。
今の慶州に仏国寺も石窟庵も瞻星台も残っているのは、この最後の選択があったからです。
新羅と日本のかかわり
百済ほど親密ではありませんが、新羅と日本の関係も濃いものです。
| 出来事 | 時期 | 内容 |
|---|---|---|
| 倭の侵入 | 3〜5世紀 | 『三国史記』に倭の来襲記事が頻出 |
| 白村江の戦い | 663年 | 唐・新羅連合が日本・百済遺民軍を撃破 |
| 新羅使 | 7〜8世紀 | 遣新羅使が往来。正倉院に新羅の文物 |
| 貿易 | 8〜9世紀 | 張保皐が東アジア海上交易を掌握 |
奈良の正倉院には、新羅から渡った品々が今も伝わっています。日本にとって新羅は、百済の敵であり、白村江で戦った相手であり、同時に貿易相手でもあった──複雑な隣国でした。
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