映画『世宗大王 星を追う者たち』を観て、「どこまでが本当なの?」「なぜ最後は歴史から消えてしまったの?」と気になった方も多いのではないでしょうか。
世宗大王と天才技術者チャン・ヨンシル(蔣英実)の絆、そして彼らが築いた科学技術の物語は、映画以上にワクワクする歴史ロマンに満ちています。
映画の背景にある史実と、今なお語り継がれる歴史のミステリーを分かりやすく解説します!
15世紀の朝鮮は、ダ・ヴィンチ以前の「科学大国」だった!
「15世紀の朝鮮」と聞くと政治劇の印象が強いかもしれませんが、実は当時、東アジア屈指のハイテク科学国家でした。
世界史のタイムラインで比べると、その凄さが一目で分かります。
- 1434年: チャン・ヨンシルが自動水時計「自撃漏」を完成
- 1441年: 世界初の標準化雨量計「測雨器」が作られる
- 1452年: レオナルド・ダ・ヴィンチ誕生
- 1543年: コペルニクスが「地動説」を発表
レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれるより前、朝鮮ではすでに、からくり人形が自動で時を告げていました。そして、コペルニクスが地動説を唱えるより約100年も前に、全国統一の雨量観測システムが動いていたのです。
世宗とヨンシルが生んだ3つの神発明
- 全自動水時計「自撃漏(チャギョンヌ)」: 水の力を利用し、からくり人形が自動で鐘や太鼓を叩いて時間を知らせるシステム。
- 日時計「仰釜日晷(アンブイルグ)」: 文字が読めない農民のために、目盛りに「十二支の動物の絵」を刻んだユニバーサルデザイン。
- 雨量計「測雨器(チェグギ)」: ヨーロッパより約200年も早く、全国で器具を統一して雨量をデータ化した仕組み。
当時の朝鮮にとって、天体を観測して雨や時間を正確に知ることは「民の命を飢饉から守る」ための国家最優先事業でした。
奴婢(最低身分)から王の右腕へ!世宗との胸熱な絆
当時の朝鮮王朝は、厳格な身分社会でした。
ヨンシルは最低身分である「奴婢(ノビ)」の生まれ。奴婢は人権がなく、売買や相続の対象とされる存在で、この身分から抜け出すのは本来不可能に等しいことでした。
ヨンシルの父は、中国系の家系で高麗王朝では官職に就いていた人物と伝えられています。一方で、ヨンシルが奴婢となった理由については、「王朝交代で家が没落した」とする家譜と、「母が奴婢だったため母の身分を継いだ」とする『世宗実録』があり、史料によって異なります。
しかし、壊れた道具の修理や揚水機の発明で有名だったヨンシルは、その才能を世宗大王に見出されます。
破格の抜擢:世宗は「国に必要なのは学問だけでなく実力だ」と考え、貴族たち(両班)の猛反発を押し切ってヨンシルを重用しました。
- 国費留学: 明(中国)へ留学させ、最新の天文学や製鉄技術を学ばせる
- 身解放: 自らの権限で奴婢の身分を解放する
- 官職の授与: 貴族と反発しにくい技術職のポスト(従三品という高位まで)を与える
世宗の「民のために技術が欲しい」という強い情熱と、ヨンシルの「技術への純粋な才能」が噛み合って生まれた、まさに身分を超えた最強のバディ(相棒)だったのです。
安輿事故と「記録からの消滅」——ヨンシル失脚の3つの説
順風満帆に見えた二人ですが、1442年に大事件が起きます。
ヨンシルが製作監督を務めた王の乗り物「安輿(アニョ)」が、試運転中に壊れる事故が発生。不敬罪に問われたヨンシルは、杖刑80代(棒でお尻を叩く凄惨な罰)を受け、官職を追放されました。
そして、この記録を最後に、ヨンシルは朝鮮の公式歴史記録から完全に姿を消します。
いつどこで亡くなったのか、お墓がどこにあるのかすら分かっていません。
世宗はなぜヨンシルを救わなかったのか——。
この問いには、現在も決定的な答えはなく、歴史研究や作品の中でいくつかの説が語られています。
- 説①:明(中国)の圧力をかわす「身隠し」説(★映画の解釈)
独自に天体観測をする朝鮮に明が圧力をかけてきたため、ヨンシルを守り明との戦争を避けるために「処罰したフリ」をして歴史から隠した(逃がした)という説。 - 説②:両班(保守派貴族)の陰謀説
奴婢出身のヨンシルを嫌う貴族たちが事故を仕組んだ(または大騒ぎした)ため、世宗が他の国家事業を守るために苦渋の決断で処罰したという説。 - 説③:厳格な責任追及説(法治主義)
王の安全に関わる重大事態であったため、世宗が名君・法治国家の君主として情を殺し、厳正に処罰したという説。
なかでも興味深いのが、「明(中国)との外交関係を考え、世宗があえてヨンシルを歴史の表舞台から退かせたのではないか」という説です。一見すると大胆な解釈に思えますが、当時の東アジア情勢を知ると、「そう考える人がいる理由」も見えてきます。
🌏 なぜ「星を追う」ことが命がけだったのか?——大国・明の存在
当時の朝鮮の隣には、世界最強クラスの超大国・明(みん)がありました。
世宗が即位する直前から初期にかけては、北京に紫禁城を築き、鄭和(ていわ)の大艦隊をアフリカまで送り込んだ、あの永楽帝(えいらくてい)の時代です。
この明を中心とする国際秩序(冊封体制=さくほうたいせい)では、「星の動きを計算し、正確な暦(カレンダー)を作って周辺国に配る」ことが、皇帝だけに許された特権でした。暦を制する者が、天下を制する——そういう世界観です。
つまり、明から暦を”与えられる”立場の朝鮮が、独自に天体を観測して自前の暦を作ろうとするのは、皇帝の権威に逆らう「裏切り」と受け取られかねない危険な行為。だからこそ世宗とヨンシルは、明の使者の目を盗み、密かに星を追う必要があったのです。
ヨンシルが失脚する1442年前後になると、明の状況にも少し変化が出てきます。幼くして即位した第6代皇帝(英宗)の周囲で、宦官(かんがん)たちが権力を握り始め、北方のオイラト(モンゴル系)の勢力が強まり、1449年にはなんと明の皇帝自身が戦場で捕虜にされてしまう大事件が起きます。このように、1440年代の明は北方の防備や国内の政情でかなり神経質になっていました。
ヨンシルが表向き「失脚」させられた裏に、この明への配慮があったのでは——という説(説①)は、こうした背景から生まれています。
もちろん、この説を裏付ける史料はなく、映画『世宗大王 星を追う者たち』でも採用された解釈の一つです。
実は近年では、事故の原因は「ヨンシルの設計ミスではなく、健康悪化で肥満気味だった世宗の体重が一因だったのではないか」という見方もあります。ただし、これは史料に記された事実ではなく、後世の研究者による推測の一つです。
「明から命を守るための愛の追放だったのか?」
「政治の陰謀に敗れた苦渋の決断だったのか?」
「法を守るための冷徹な処分だったのか?」
公式記録が途絶えているからこそ、その真相は今も歴史の闇の中です。
映画『世宗大王 星を追う者たち』を観たあとにこの史実を知ると、夜空を見上げる二人の姿がより一層、深く心に刻まれるのではないでしょうか。
