博物館の朝鮮半島コーナーで、金ぴかの装身具のケースを抜けると、やきものが始まります。
ここは時代の幅がとても広い。原三国時代から朝鮮王朝まで、1500年分が一続きに並んでいます。
順路がそのまま年表になっています。迷ったら、素朴 → 華麗 → 崩し → 無地という坂道を下っていると思って歩けば大丈夫です。
そしてこの坂道の途中に、日本の茶碗の実家があります。
1500年を1枚の表に
まず全体像です。
| 時代 | やきもの | 見た目のキーワード |
|---|---|---|
| 原三国〜三国 | 陶質土器 | 灰色・硬い・透かし穴 |
| 統一新羅 | 印花文陶器・骨壺 | スタンプの連打 |
| 高麗(11〜13世紀) | 高麗青磁 | 翡翠色、雲と鶴 |
| 朝鮮前期(15〜16世紀) | 粉青沙器 | 白い化粧、刷毛のあと |
| 朝鮮中後期 | 白磁 | 無地、ゆがみ、素朴 |
華やかさのピークは真ん中の高麗青磁です。そこから先は、だんだん飾りを捨てていきます。
足していく前半と、引いていく後半。
この形を頭に入れて歩くと、展示の順番に意味が出てきます。
まず素朴から──叩いて、透かして
坂道のいちばん上、原三国時代(3世紀ごろ)から始めます。

胴に、細かい格子の跡がびっしり残っています。
解説によれば、この時代には土器を焼く窯が発達し、ろくろが盛んに使われるようになりました。あわせて、表面を格子目の叩き板で叩き締めて丸底にする技法も広まります。
叩いて締めると、土の粒が詰まって丈夫になる。模様ではなく、作業の跡です。
この叩き板の技法が、5世紀に日本へ渡ります。日本で須恵器が生まれる、そのはじまりがここです。
脚に、穴が開いている
三国時代(4〜6世紀)に入ると、脚のついた器が主役になります。

高杯(こうはい)といいます。脚に細長い穴が開いているのが分かるでしょうか。
この2点は咸安(ハマン)の出土。解説によれば、咸安を中心とした「阿羅(アラ)」は加耶諸国のひとつで、金官加耶や大加耶のような有力国から距離を置き、独自に百済・倭と交渉して新羅に対抗しました。
口縁部外面の段や、曲線的に開く脚に、阿羅加耶の特徴が見られるそうです。
この透かし穴、数や並び方が国ごとに違います。ジグザグに並ぶのか、上下一列にそろうのか、そもそも開けないのか。キャプションでも、そこから出土地の勢力を議論しています。
同じ物差しは、隣のケースの金の冠や耳飾りにも効きます。
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統一新羅──スタンプを、押しまくる
7世紀後半、新羅が半島を統一します。ここから「足していく」時代が本格化します。

スタンプの連打です。小さな花文や点の列が、帯になって何段も巡っています。
これは骨壺。火葬した骨を納める器です。仏教とともに火葬が広まった時代のものです。
解説に、細かいけれど大事なことが書かれていました。この壺では、把手に開いた孔に鉄の棒が貫通したままさびついている。蓋と身の把手の孔に棒を挿して、蓋が開かないようにしていたことが分かる、と。
1300年前の人が、蓋を閉じた。その手つきが、錆になって残っているわけです。

三本脚の、緑がかった壺。
解説によれば、これは中国・唐代の銅製品や金属器の形を、緑釉陶器で模倣したものです。灰色の土器が主流だった時代に、施釉陶器を焼く新技術を中国から導入したことで生まれた。
そして新文物であった緑釉陶器は、身分の差別化を図る威勢品として重宝されたとあります。釉は、地位の記号でもあったわけです。
高麗青磁──「彫って、埋める」を発明した
青磁そのものは中国生まれです。高麗は10世紀から11世紀にかけて、中国から技術を輸入して青磁を焼き始めました。ここまでは弟子です。
手本になったのは、中国の南の系統でした。唐の時代、中国のやきものは「南は青磁、北は白磁」と分かれていて、青磁の中心は浙江省の越州窯。高麗が受け取ったのは、そちらの流れです。
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これが高麗青磁の色です。翡翠色としか言いようがない、青とも緑ともつかない釉。
左の水注は、蓋が蓮の花のかたち。解説によれば、肩が張った形でギザギザした特徴的な蓋をそなえ、金属器に倣った姿だとされます。底は平らで6つの小さな砥石目があり、北宋末に宮廷御用の器を焼いた汝窯の影響がみられる、と。
ここまでは、中国を見ています。ところが12世紀、高麗は中国にない技法を生み出します。
象嵌青磁です。
どうやって作るのか
手順にすると、こうなります。
- 器の形を作り、生乾きのうちに文様を彫り込む
- 彫った溝に、白い土や赤い土を埋める
- 乾いてから表面を削って平らにする
- 青磁の釉薬をかけて焼く
焼き上がると、翡翠色の地に白い鶴と黒い雲が浮かびます。しかも表面はつるりと平ら。
模様が表面にのっているのではなく、中に沈んでいる。
ケースの前に立ったら、指で撫でたところを想像してみてください。ツルツルなら象嵌です。絵の具で描いたものとは、まったく別の技術です。
なぜ高麗にこれができたのか
この「彫って、別の素材を埋めて、平らにする」という発想。
どこかで聞き覚えはないでしょうか。
金属工芸の象嵌と同じです。 刀の柄に銀を埋め込む、あの技法。
高麗の職人は、金工の技をやきものに翻訳したわけです。分野をまたいだこの発想の飛躍が、世界の陶磁史における高麗の一発でした。
代表的な文様は「雲鶴文」。鶴が飛び、雲が流れる。当時の高麗の貴族が理想とした、道教的な天上の世界です。
上の器を、下の素材で真似る
もうひとつ、見逃してほしくないものがあります。

黒っぽい、細身の瓶。これは青磁ではありません。土器です。
解説によれば、青磁や白磁が主流となる高麗時代以降も、三国時代以来の陶質土器は作られ続けていました。日用としての機能を追ったそれらの器形は統一新羅時代以降ほとんど変わらないものの、このように青磁の瓜形瓶をそっくり写したものもある、と。
形を真似た例です。そして、技法まで真似た例もあります。

灰色の地に、小さな白い草花がぽつぽつと散っています。
解説によれば、胴に草花文のスタンプを押し、くぼみに白土を埋め込んだ後、表面を篦で削り出している。高麗青磁の象嵌技法を、土器に取り入れたのだろう、と。
さきほどの4つの手順を思い出してください。
- ①文様を彫る(ここではスタンプを押す)……同じ
- ②白い土を埋める……同じ
- ③削って平らにする……同じ
- ④青磁の釉をかけて焼く……これだけ、やらない
最後のひとつを省くと、こうなる。翡翠色にはならないけれど、白い模様は沈んで残る。
高級品の形を、手に入る素材で真似る。この構図は、日本の「写し」とまったく同じです。
粉青沙器──ここが日本と直結する
高麗が滅び、朝鮮王朝の時代になると、青磁の格調はゆるみます。
その「ゆるみ始めた瞬間」が、展示のなかにあります。

解説を読んで、うなりました。
灰色の胎に白土で化粧掛けをした素地に、象嵌技法で蓮弁文や唐草文をあらわしている。全体的に淡くひかえめな印象であり、小さな口に大きく張り出したアンバランスな形にも、青磁から粉青沙器へ移行する新たな時期の到来をうかがうことができる——。
色も、形も、まだ決まりきっていない。高麗のあの張りつめた翡翠色から、力が抜けていく途中です。
王室の管理が緩んだ地方の窯で、職人たちはあることを始めました。器に白い土を化粧のように塗る。
これが粉青沙器(ふんせいさき/プンチョンサギ)です。
技法が、とにかく多い

3点とも粉青沙器ですが、やっていることが全部違います。
- 中央……白土で化粧掛けをしてから、文様の外側を掻き落として牡丹を浮かび上がらせる(彫花)
- 右……白い地に、鉄の顔料でざっと線を引く(鉄絵)
- 左……耳のついた鉢に、線彫りの唐草
技法がやたらと豊富なのが粉青沙器の特徴で、これがそのまま見分けの手がかりになります。
| 技法 | どんな見た目 |
|---|---|
| 印花 | スタンプを一面に押しまくり、へこみに白土を刷り込む |
| 粉引 | 白い泥にどぶりと浸ける。ムラも垂れもそのまま |
| 刷毛目 | 白泥を刷毛でざっと塗る。刷毛のあとが残る |
| 鉄絵 | 白い地に、鉄の顔料で自由な絵を描く |
さて。ピンときた方はきたと思います。
三島。粉引。刷毛目。
全部、日本の茶の湯の言葉です。
雑器が、海を渡って国宝になった
粉青沙器は、朝鮮ではごく普通の日常の器でした。飯を盛り、汁を入れる雑器です。
それを16世紀の日本の茶人が見て、「これは美しい」と言い出した。ゆがみも、ムラも、刷毛のあとも、すべて景色として愛でた。
そして名前をつけて珍重しました。井戸茶碗も、この系譜にあります。
朝鮮ではただの飯茶碗だったものが、海を渡って国宝にもなった。
粉青沙器のケースの前に立つというのは、日本の茶碗の実家を訪ねているのと同じことなんです。
茶人が実際に何をどう読み替えたのかは、日本側の記事で詳しく書きました。
日本のやきもの2000年・磁器400年──有田焼を生んだ、朝鮮陶工の技術博物館のやきものの部屋は、正直むずかしい。 「青磁」「白磁」「炻器」「施釉陶器」。キャプションを読んでも、目の前のものとどうつながるのか分からないまま通り過ぎて…
そして、消えた
粉青沙器は16世紀末に姿を消します。
理由はふたつ重なりました。ひとつは、朝鮮王朝の器が白磁に統一されていったこと。もうひとつは、壬辰・丁酉倭乱(日本でいう文禄・慶長の役)で、地方の窯が壊滅したことです。
一世紀半ほどで消えた、短い花でした。
白磁──引き算の美
朝鮮王朝は儒教の国です。理想とされたのは、質素であること、飾らないこと。
だから王室の器は、絵も色もない白磁になりました。京畿道広州に官窯が置かれ、宮廷の器を焼き続けます。


模様が、ひとつもありません。
解説によれば、肩から胴裾にかけてのなだらかな曲線に沿って、篦(へら)で削って十二に面取りを施しています。この手法は朝鮮時代の中期から後期の白磁に多用され、とくに18世紀代のそれは、独特の温和な感覚をそなえている、と。
彫って足すのではなく、削いで形を作る。高麗青磁の象嵌とは、まるで逆方向です。
コバルトがないから、鉄で描いた
白磁に絵を描くとき、いちばん使われたのはコバルトです。あの青い染付の色。
ところがコバルトは輸入品で、簡単には手に入りませんでした。そこで、こういうものが生まれます。


白い地に、茶褐色の太い線が、ぐるりと一周しています。絵とも文字ともつかない、勢いだけの線です。
解説によれば、朝鮮王朝は白磁を奨励し、15世紀後半に京畿道広州に官窯を設置しました。まもなく青花の生産も始まりますが、入手困難なコバルトに代わり、17世紀以降は鉄絵具を用いた製品もつくられたそうです。
小品ながら雅趣に富んだ絵付けで、鉄砂の魅力を余す所なく発揮している——と解説は結んでいます。
材料がないから、あるもので描いた。その制約が、そのまま味になっています。
日本が「秋草手」と呼んだ壺
そしてもう一点。この記事の芯に触れるものがあります。


乳白色の肌に、青い草がすっと数本。余白のほうが、ずっと多い。
解説にこうあります。乳白色をおびた素地に余白を生かし、控えめな筆づかいで草花文が描かれている。落莫としたその作風は、日本では「秋草手」の名で親しまれています——と。
そして、抒情豊かな秋草手は、朝鮮独特の感性が最も率直にあらわれた青花磁器ということができるでしょう、と続きます。
ここでも同じことが起きています。朝鮮で焼かれ、日本で名前がついた。
三島、粉引、刷毛目、井戸、そして秋草手。日本語の側から見た朝鮮陶磁の地図が、こうしてできあがっていったわけです。
月壺──300年で、3回名前が変わった
白磁のなかに、この記事でいちばん話の長くなるものがあります。
18世紀に作られた、高さ40センチを超える白い壺です。満月のように丸い。ただし、よく見ると真円ではありません。
大きすぎて一度に成形できないので、上半分と下半分を別々に作って接ぐ。だから完全な丸にはならず、胴の真ん中に継ぎ目が残ります。
この壺が、300年ほどのあいだに3回、見られ方を変えています。
① 18世紀・朝鮮 ── 名前はなかった
もとは王室用の白磁を焼く官窯で作られた大型の壺で、穀物などを入れる実用の器でもありました。特別な呼び名はなく、「白磁の大きな壺」でした。
② 1920〜30年代・日本 ── 「雑器」に目が向く
きっかけは小さな器でした。1914年、朝鮮で教師をしていた浅川伯教が、千葉県我孫子の柳宗悦を訪ねます。このとき手土産に持参したのが、13cmほどの染付の小壺でした。
柳はこの壺に「形の美しさ」を見て、朝鮮の工芸に引き込まれていきます。1916年以降くり返し朝鮮半島へ渡り、1924年には浅川兄弟とともにソウルに朝鮮民族美術館を開きました。柳が向き合ったのは大きな名品ではなく、名もない職人が作った日用品でした。
当時、李朝の陶磁器はほとんど美的価値を認められていません。柳はそこに価値を見た先駆者の一人です。この見方を「用の美」と呼びます。
16世紀に茶人が井戸茶碗にしたことと、構図は似ています。作り手が価値だと思っていなかったものを、外から来た目が持ち上げた。
ただし決定的に違うのは、このとき朝鮮が日本の統治下にあったことです。柳が朝鮮の美を「悲哀の美」と表現したことについては、支配する側の眼差しだという批判が韓国側にあり、評価は今も割れています。
ただし、この段階でも壺に名前はついていません。名前がつくのは、次の段階です。
③ 1950年代以降・韓国 ── 「月壺」になる
「月壺(タルハンアリ)」という呼び名がついたのは1950年代とされます。解放後、韓国の人々が自分たちの文化を見つめ直すなかで、この壺が注目されるようになりました。画家の金煥基(キム・ファンギ)がくり返し描き、やがて国の美を代表する存在になります。
現在、韓国では複数の月壺が国宝・宝物に指定されています。2018年の平昌オリンピックの聖火台も、この壺から着想を得たものとされます。
同じ壺です。中身は300年変わっていない。
実用の器であり、統治する側が見つけた美であり、そして今は、韓国自身が選んだ自分たちの象徴です。
土と釉と火のことだけではなく、誰がそれを見ていたのかを一緒に見る。やきものを見るというのは、たぶんそういうことなのだと思います。
日本は、半島から二度もらっている
日本のやきものは、朝鮮半島から二度、大きな贈り物を受け取っています。
一度目は5世紀。 半島の陶質土器の技術が渡り、日本で須恵器が生まれました。
二度目は16〜17世紀。 倭乱で連れてこられた陶工たちが、有田・薩摩・萩を興します。
一度目の証拠は、この記事の最初に出てきました。あの格子目の叩き板です。同じ技法で作られた壺が、対馬の古墳から出ています。
日本ではこの戦争を「やきもの戦争」と呼ぶことがあります。
ただ、これは技術移転というより連行です。書くときには言葉を選びたいところ。
この二度のジャンプを日本側から追った記事を、別に書いています。



まとめ
- 陶質土器……格子目の叩き板と、脚の透かし。穴の並びで出土地の勢力を議論している
- 統一新羅……スタンプの連打。緑釉は身分を示す威勢品だった
- 高麗青磁……翡翠色に、白と黒の雲と鶴。彫って埋める象嵌は高麗の発明。手本は金属工芸
- 粉青沙器……白い化粧土。三島・粉引・刷毛目は日本の茶の湯の言葉。朝鮮では雑器だった
- 白磁……儒教の引き算。削いで形を作る面取り、コバルトの代わりの鉄絵
- 月壺……ゆがみは接いだ跡。300年で3回、見られ方が変わった
- 日本は二度もらった……5世紀の須恵器、16世紀の磁器
順路を歩きながら「いま足し算の時代か、引き算の時代か」を確かめるだけでも、1500年の坂道はずいぶん歩きやすくなります。
