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正祖(イ・サン)|戦い続けた王の史実

名君として知られる正祖ですが、その人生は決して華やかなものではありませんでした。父・思悼世子は「罪人」とされ、自らは「罪人の息子」という重い宿命を背負って即位します。しかも、王になってからも命を狙われ、政争に明け暮れ、腹心さえ自ら切り捨てなければなりませんでした。

韓国時代劇の金字塔『イ・サン』の主人公、朝鮮王朝第22代王・正祖(チョンジョ)の史実を見ていきましょう。

正祖・早見表

生没1752年〜1800年(満47歳・数え49歳)
在位1776年〜1800年(24年間)
即位年齢満23歳(数え25歳)
思悼世子(サドセジャ)※米びつで餓死
祖父第21代 英祖(ヨンジョ)
即位を阻んだ人々洪麟漢(母方の大叔父)・鄭厚謙・金龜柱
最大の政敵大妃・貞純王后(チョンスンワンフ)と老論僻派
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「罪人の息子」が王になるまで

1762年、父・思悼世子は米びつに閉じ込められ、8日後に亡くなりました(壬午禍変)。このときサンは満9歳。以後、政敵からは「罪人の息子」と呼ばれ続けます。

「正祖 vs 老論」とよく言われます。このころの朝廷はほぼ老論の独占状態でした。倒すべき相手がいないので、争いは老論の内側で起きます。その軸になったのが、王室と縁組した二つの家でした。

中心人物のちに
慶州金氏金龜柱:貞純王后(英祖の継妃)の兄僻派の源流
豊山洪氏洪鳳漢:恵慶宮洪氏(思悼世子の妻・正祖の母)の父時派の源流

この二つが「洪鳳漢を守るか、引きずり下ろすか」で正面衝突していました。

母方の外戚までが、サンの味方ではありません。

1775年、英祖は高齢を理由に、世孫へ代理聴政(王の代わりに政務を執ること)を任せようとします。これに真っ向から反対したのが、母方の大叔父にあたる洪麟漢(ホン・インハン/洪鳳漢の弟)でした。彼は英祖の面前で、こう言い放ちます。

三不必知説(サンブルピルチソル)

「世孫は、老論と少論を知る必要がありません。
 吏曹判書・兵曹判書が誰かも、知る必要がありません。
 まして朝廷のことなど、なおさら知る必要がありません」

要するに、「王として育つな」と突きつけられたようなものだったのです。

流れが変わったのは、1775年12月3日

徐命善(ソ・ミョンソン)という一人の官僚が、命がけで洪麟漢を弾劾する上疏を提出したのです。

英祖はその日のうちに領議政・韓翼謩と洪麟漢を罷免。こうして、世孫(後の正祖)の代理聴政が実現しました。

※正祖は即位後、毎年12月3日に功臣たちを招いて食事をふるまいました。この集まりは「同徳会(トンドクフェ)」と呼ばれ、「百年ののちまで徳をともにしよう」と語ったと伝えられています。12月3日という日付を選んだことからも、正祖にとってこの日が特別な意味を持っていたことがうかがえます。

父の記録を洗い流した「洗草(セチョ)」

1776年2月4日。24歳になったサンは、祖父・英祖に一通の上疏を提出します。

「王の秘書室の日記『承政院日記』に、父について読むに堪えない記述が残っています。どうか、その記述を改めてください。」

さらにサンは、これが聞き入れられないのであれば、代理聴政も世孫の地位も返上すると訴えました。事実上の最後通牒でした。

英祖はこの願いを受け入れ、該当箇所の洗草(セチョ)を命じます。

洗草とは、紙を水に浸して墨を洗い落とし、記録を書き改める処置のことです。正祖にとっては、父・思悼世子の汚名を少しでもぬぐおうとする、長年の悲願がかなった瞬間でもありました。

そして、そのわずか1か月後、英祖はこの世を去ります

凍りついた即位の日

1776年、23歳で即位した正祖。

集まった臣下たちを前に、彼が最初に発した言葉は、たった一言でした。

「私は思悼世子の子である。」

父を死へ追い込んだ事件に関わった者たちが居並ぶ朝廷での宣言です。

この一言は、父の名誉を回復するという強い決意を、臣下たちに突きつけるものでした。とりわけ、思悼世子の処分を正当と考えていた勢力にとっては、大きな衝撃だったことでしょう。

こうして、正祖の24年にわたる治世が幕を開けます。

即位しても終わらなかった命の危機

政争は終わりません。

正祖即位の翌年には、宮中に刺客が侵入した正祖暗殺未遂事件(丁酉逆変)、首謀者たちは恩全君を「次の王」として担ぎ上げる計画を立てていました。

計画は未遂に終わりましたが、正祖は即位したあとも命を狙われ続け、王位が盤石ではなかったことを物語っています。

正祖が壮勇営(チャンヨンヨン)を創設し、自らの親衛体制を整えていく背景には、こうした命の危険が常にあったのです。

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手が出せない大妃と、切り捨てた腹心

即位した正祖が最初に取り組んだ政治課題の一つは、自らの即位を阻もうとした外戚勢力の整理でした。

洪麟漢(ホン・インハン)母方の大叔父(賜死)
鄭厚謙(チョン・フギョム)英祖の愛娘・和緩翁主の養子(賜死)
金龜柱(キム・ギジュ)貞純王后の兄(流罪)

正祖は、母方の一族も、継祖母・貞純王后の実家も、どちらにも容赦しませんでした。

少年時代、二つの外戚勢力の対立に翻弄され続けた正祖は、「外戚が権力を握るかぎり、王権は安定しない」と考えるようになります。

そして、老論一党に偏っていた政局を立て直すため、長く政権の中枢から遠ざけられていた少論や南人も積極的に登用し、独自の蕩平政治を進めていきました

手が出せない大妃

ここまで徹底して政敵を整理した正祖にも、ただ一人だけ簡単には手を出せない相手がいました。ドラマで最大の敵役として描かれることも多い、英祖の継妃・貞純王后です。

理由は儒教にありました。

義理とはいえ祖母にあたる大妃を王自ら処罰すれば、国の根本理念である「孝」を否定することになりかねません。王権を守るために、大妃を力ずくで排除することはできなかったのです。

そこで正祖は、貞純王后本人ではなく、その政治基盤となる外戚や側近たちを次々と処分しました。兄・金龜柱の流罪も、その一つです。

表向きには大妃として最大限の礼を尽くしながら、裏では勢力を削り続ける――。

正祖は、24年の治世を通して、この難しい均衡を保ち続けました。

切り捨てた腹心

即位を支えた最大の功臣が、洪国栄(ホン・グギョン)です。老論出身でありながら正祖を支持し、その信頼は誰よりも厚いものでした。

ところが、権力を握った洪国栄は、その地位を永続させようとします。まだ13歳だった実の妹を、正祖最初の側室・元嬪洪氏として入宮させたのです。

しかし、元嬪洪氏は入宮からわずか1年後、14歳で急逝します。

妹の死に動揺した洪国栄は、王妃による毒殺を疑い、廃位を画策したとも伝えられています。さらに、王族の子(恩彦君の長男)を元嬪の養子として後継者に据えようとするなど、その行動は王権そのものを揺るがすものになっていきました。

1780年、正祖は洪国栄からすべての官職と権限を剝奪し、都から追放します。

かつて命がけで自分を支えた最大の功臣であっても、王権を脅かす存在になれば容赦しない――。

正祖の政治姿勢を象徴する出来事でした。

「時派」と「僻派」

さて、正祖の治世が進むと、老論は正祖への態度によって再編されます。

正祖在位12〜19年(1788〜1795年)ごろには、「時派」と「僻派」という呼び名が定着しました。

僻派正祖の改革に反対
思悼世子処分は正しかったと考える
時派正祖を支持
思悼世子の名誉回復にも理解

こうして正祖後半の政局は、時派+少論+南人 VS 僻派という構図になっていきます。

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朝鮮のルネサンス ─ 身分の壁を越えた人材

正祖の時代は「朝鮮のルネサンス」と呼ばれます。中心にあったのが、王立図書館兼シンクタンク奎章閣(キュジャンガク)でした。

正祖はここで、当時の朝鮮では考えられない人事を行います。庶子の生まれ(庶孽/ソオル)の学者を、正式な役人として採用したのです。

人物立場業績
丁若鏞(チョン・ヤギョン)実学の天才学者水原華城の建設で「起重機」を考案
金弘道(キム・ホンド)宮廷画家王の肖像画、庶民を描いた風俗画
白東脩(ペク・ドンス)剣の達人(庶子)『武芸図譜通志』の実技を担当
朴斉家・李徳懋・柳得恭学者(いずれも庶子)奎章閣の検書官として書物を管理・編纂

『武芸図譜通志』は、庶子3人が作った本

1790年に完成した武芸書『武芸図譜通志』。編纂したのは、奎章閣検書官の李徳懋と朴斉家、そして実技を受け持った白東脩です。

この3人は、全員が庶子でした。

白東脩は1771年に武科に合格しながら、身分の壁と定員オーバーで職に就けず、山あいの村で農業をして暮らしていた人物です。ようやく壮勇営に入ったのは1788年、45歳のとき。しかも位は最下級の哨官でした。

朝鮮最強の剣士が颯爽と親衛隊を率いる──というドラマの姿とは、だいぶ違います。ただ、世に出られなかった三人に国家事業を任せたという事実のほうが、正祖という王をよく表しています。

父のために築いた理想都市・水原華城

正祖は父の墓を移し、その地に新都市水原華城(スウォンファソン)を築きました。ゆくゆくは首都を移し、老論の地盤を丸ごと置き去りにするつもりだったと言われます。

このとき丁若鏞が考案したのが、滑車を組み合わせて重い石材を持ち上げる装置起重機(キジュンギ)でした。完成後、正祖自身が「四万両を節約できた」と語っています。

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正祖が愛した女性たち

正祖には、王妃が1人、側室が4人いました。

王妃孝懿王后(ヒョイワンフ)金氏10歳で嫁ぎ、生涯子はなし。徳の高さで知られる
側室元嬪洪氏洪国栄の妹。13歳で入宮し、翌年に死去
側室和嬪尹氏1780年に入宮。子はなし
側室宜嬪成氏(ウィビンソンシ)『イ・サン』『赤い袖先』のヒロインのモデル
側室綏嬪朴氏(スビンパクシ)第23代・純祖の生母

正祖が敬った妻 ─ 孝懿王后

10歳で世孫だったサンに嫁いだ正妻です。子どもには恵まれませんでしたが、嫉妬とは無縁の謙虚な人柄で、姑である恵慶宮からも実の娘のように愛されました。正祖も生涯、彼女を敬い続けています。

彼女が選ばれた理由は、家柄にありました。実家の清風金氏は、かつて顕宗の妃・明聖王后を出した家。「明聖王后が粛宗を産んだように、この家からまた世継ぎを」という英祖の期待だったのです。結果として子は生まれず、期待は静かに外れました。

二度も求愛を断った女性 ─ 宜嬪成氏

女出身の側室です。王からの求愛を「一人の女性として自分の意思で生きたい」と二度も断ったという逸話を持ちます。

のちに側室となり、待望の長男・文孝世子を産みますが、その子を幼くして失い、自身も次の子を身ごもったまま病で世を去りました。

正祖が自ら書いた追悼文(御製宜嬪墓誌銘)には、王という立場を離れた、剥き出しの悲しみが残されています。

王朝の未来をつないだ ─ 綏嬪朴氏

深い悲しみのあと、正祖が迎えた側室です。穏やかな人柄から「有徳の側室」と呼ばれました。1790年に男児を出産。これがのちの第23代王・純祖です。

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揺らぐ毒殺説、死後の皮肉な結末

1800年、正祖は背中にできた腫れ物(背瘡)の悪化により、満47歳で急死します。水原華城への遷都という夢は、実現目前で途切れました。あまりにタイミングが良すぎる死であること。そして最も得をしたのが政敵だったこと。この2点から、老論による毒殺説が長く語られてきました。

揺らぐ毒殺説 ─ 200年後にひっくり返った前提

2009年、驚くべき史料が公開されました。正祖が、毒殺の黒幕とされてきた老論僻派の領袖・沈煥之(シム・ファンジ)に宛てて出していた秘密の手紙299通です。

期間は1796年から、亡くなるわずか13日前の1800年6月15日まで。そこには政局の相談だけでなく、自分の病状や、飲んでいる薬まで細かく書き送られていました。

「政敵に自分の病状を実況していた」となると、毒殺説の土台はかなり揺らぎます。同時に、この手紙は真面目な改革君主というイメージも壊しました。手紙のなかの正祖は、気に入らない臣下に容赦なく毒づく、かなり短気な人だったのです。

※ただし、毒殺説を唱えてきた研究者は「この手紙から死の真相はわからない」と反論しており、決着はついていません。

死後の皮肉な結末

王位を継いだ純祖は、まだ10歳。摂政として実権を握ったのは、正祖が24年間手を出せなかった貞純王后でした。彼女は壮勇営を解体し、奎章閣の機能を縮小。正祖が24年かけて築いた改革は、わずか数年で崩れていきます

しかし、本当の皮肉は、その後でした。貞純王后が亡くなると、今度は王妃の実家・安東金氏が実権を握ります。その中心人物が、金祖淳。実は彼は、正祖が最も信頼した臣下の一人でした。正祖は晩年、金祖淳の娘を世子嬪(後の純元王后)に選びます。ところが、この縁組が結果として安東金氏による勢道政治の出発点となりました。

王権を守ろうとした正祖自身の選択が、皮肉にも王権を弱める時代の幕開けにつながったのです。

※ 金祖淳の家門・安東金氏は、丙子の乱で節義を貫いた金尚憲(キム・サンホン)や、英祖の即位を守って命を落とした金昌集(キム・チャンチプ)など、代々「王に忠義を尽くした家」として知られていました。正祖が金祖淳を深く信頼したことは、決して不自然ではありません。

まとめ

  • 正祖の敵は「老論」そのものではありませんでした。実際に争っていたのは、母方の洪氏と、貞純王后の実家・慶州金氏という二つの外戚勢力で、即位直前に最大の障害となったのは、母方の洪氏。
  • 自ら『思悼世子の子』であることを宣言し、逃げるのではなく真正面から受け止めた。
  • 大妃には手を出せず、その兄を流罪に。命の恩人だった洪国栄も、暴走すれば自分で切った
  • 身分の壁に阻まれていた庶子たちを登用し、『武芸図譜通志』や水原華城を残した
  • 毒殺説は、2009年に見つかった手紙で大きく揺らいでいる
  • 外戚を憎み抜いた王が選んだ息子の妃が、勢道政治の入口になった
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵