朝鮮王朝の後半を読んでいると、途中から王の名前よりも「○○氏」という家の名前が目立つようになります。安東金氏、豊壌趙氏、驪興閔氏──。
派閥政治が終わり、外戚が政治を支配する勢道政治が始まり、その勢道政治もやがて終わりを迎えます。
この記事では、派閥政治の終焉から勢道政治、興宣大院君による王権回復、そして明成皇后との権力争いまでを、一つの流れとしてたどります。
系図と権勢を振るった外戚
| 権勢の時期 | 家 | 王室との関係と中心人物 |
|---|---|---|
| 純祖の初期(約5年) | 慶州金氏 (キョンジュキムシ) | 貞純王后(英祖の継妃)の実家 貞純王后・金龜柱 |
| 純祖〜哲宗(約60年) | 安東金氏 (アンドンキムシ) | 純元王后・哲仁王后の実家 金祖淳 → 金左根 |
| 憲宗の時代が中心 | 豊壌趙氏 (プンヤンチョシ) | 神貞王后(趙大妃)の実家 趙萬永・趙寅永 |
| 高宗の時代 | 驪興閔氏 (ヨフンミンシ) | 明成皇后(閔妃)の実家 閔升鎬ら |
哲宗と高宗の即位は、王位継承というだけでなく、その背後で権力を握ろうとする勢力の思惑が大きく影響していました。
(余談)養子の王:哲宗・高宗の出自
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助走:勢道政治の入口
1776年に正祖が即位すると、一部の老論を粛清し、長く政権の中枢から遠ざけられていた少論や南人を積極的に登用し、老論に偏っていた政局の立て直しを図りました。
そして、老論は正祖への態度で勢力が再編されます。
| 派閥 | 基本的な立場 | 代表的人物 |
|---|---|---|
| 僻派 | 正祖の改革に消極的・反対。 思悼世子の処分を正当と考える傾向が強い。 | 貞純王后 |
| 時派 | 正祖の改革を支持。 思悼世子の名誉回復にも協力する勢力が多い。 | 金祖淳 |
正祖の後半は、時派+少論+南人 vs 僻派という構図で、勢道政治の入口は、時派(シパ)と 僻派(ピョクパ)という二つの派閥です。
💡 正祖最大のミス!?
正祖は、最も信頼した臣下の一人である金祖淳(時派系)の娘を、息子の嫁(世子嬪)に選びました。しかし、この縁組が結果として安東金氏による勢道政治の出発点となりました。
1800年、正祖が急死。ここから動き出します。
権力の変換フロー
① 勢道政治の始まり─僻派(慶州金氏)の5年天下
純祖は、まだ10歳。摂政として実権を握ったのは、貞純王后(英祖の継妃)――僻派の後ろ盾でした。
翌1801年、「辛酉迫害」。表向きはカトリック信者の弾圧でしたが、実際にはカトリックと関わりの深かった南人や、正祖に重用された時派を排除する政治粛清。
しかし、勝者となった僻派も長くは続きません。1803年に貞純王后が垂簾聴政を終え、1805年に死去。翌1806年の「丙寅更化」で、今度は僻派が政界から姿を消しました。
こうして僻派と南人は、わずか5年ほどの間に表舞台から消えます。
残ったのは、勝った側の時派でした。けれど、倒すべき相手がいなくなった時派は、派閥である意味を失っていきます。そこに残ったのは思想ではなく、家でした。
② 安東金氏の60年(勢道政治)─安東金氏 vs 豊壌趙氏
1806年、僻派が姿を消すと、安東金氏が権力を握りました。こうして始まったのが、王の外戚が政治を支配する勢道政治です。
純祖は、この状況に抵抗――1819年に息子・孝明世子の妃として豊壌趙氏の娘(のちの神貞王后)を迎えました。1827年、17歳になった孝明世子は代理聴政を始め、王権の回復を目指します。ところが1830年、わずか20歳で急死。改革は3年で終わります。
再び安東金氏が実権を握りました。
1834年、純祖が亡くなると、満7歳の憲宗が即位――祖母の純元王后(安東金氏)が垂簾聴政を行いました。
憲宗が成長すると、今度は母・神貞王后(豊壌趙氏)の実家が力を伸ばし、朝廷は安東金氏と豊壌趙氏の綱引きになります。
1849年、憲宗が後継者なく亡くなると、江華島で農民同然に暮らしていた哲宗を、純祖の養子にして即位させました。――3年間、純元王后が垂簾聴政を行い、妃も安東金氏の娘(哲仁王后)を迎え、安東金氏の支配は続く。再び安東金氏が主導権を握る形で決着します。
どちらが勝っても、政治の仕組みは変わりません。王ではなく外戚が国を動かし、官職の売買や財政の乱れが進み、民衆の暮らしは苦しくなります。その不満は各地で農民蜂起へと発展しました。
勢道家門がいちばん恐れたのは、王を助ける有能な王族の登場でした。王が幼く無力であるほど、王妃の実家は儲かる。賢い王族は邪魔なのです。
だから、人望のある王族は「謀反の疑い」という罪が着せられ、流刑や賜死に追い込まれました。※哲宗擁立は、誰も殺していません。けれど「政治を知らない王を選ぶ」という点では、徹底した排除でした。
興宣大院君が「宮廷の犬」と呼ばれながら、わざと愚かに振る舞うったのは、そのためです。
ついに安東金氏の勢道政治60年が終わります。
③ 王権回復(興宣大院君の時代)※実態は王ではなく大院君の独裁
1863年、哲宗も後継者なく亡くなりました。次の王を決める権限を持っていたのは、王室で最年長の女性——神貞王后(豊壌趙氏)。彼女は真っ先に玉璽を押さえたと伝えられます。
※1857年に純元王后が亡くなったことで、序列が一段ずつ繰り上がり、神貞王后が王室の最長老になりました。
安東金氏が集まって相談している間に、王族・李昰応(イ・ハウン)の次男。数え12歳の少年を、孝明世子(翼宗)の養子として即位させました。※ 趙大妃は王の母になりました。14年前、安東金氏が哲宗を純祖の養子にしたのと、同じ手です。
こうして即位したのが第26代・高宗(コジョン)。父の李昰応は興宣大院君(フンソンテウォングン)となります。※ 存命のまま大院君になったのは、彼が初めてです。
神貞王后は垂簾聴政を始めますが、政務はほぼ大院君に任せ、1866年に簾を下ろします。※ 神貞王后はそのあと24年生き、1890年に世を去ります。朝鮮王朝最後の大王大妃。政治には二度と戻りませんでした。
ここから10年、大院君の時代です。
※なお、安東金氏が一夜で政界から消えたわけではなく、金炳學(キム・ビョンハク)は大院君のもとでも領議政を務め、金左根(キム・ジャグン)は1869年まで健在でした。実際には数年かけて影響力を失っていきました。
興宣大院君は、王室へ実権を取り戻しました。しかし、朝鮮を待っていたのは平穏ではありませんでした。※王権の回復や、書院を整理した改革者として評価される一方、景福宮再建による重税や強制労働、強権的な政治、鎖国政策などへの批判も多く、朝鮮王朝で最も評価が分かれる政治家の一人です。
④ 王室内の権力争い(明成皇后 vs 興宣大院君)
政権を握った興宣大院君。高宗の妃には、政治勢力となる実家を持たない娘を選びます。1866年、驪興閔氏の娘と婚姻。父は早くに亡くなり、有力な男兄弟もいませんでした。
しかし、その予想は大きく外れます——明成皇后(閔妃)。王妃自身が政治を動かし、閔氏一族は急速に力を伸ばしていきます。
1873年、高宗が親政を宣言し、興宣大院君は表舞台から退きました。それを仕掛けたのが、明成皇后(閔妃)と閔氏一族でした。
こうして始まった朝鮮王朝最後の大きな権力争いは、舅・興宣大院君と嫁・明成皇后。二人の対立は25年にわたって続き、やがて清・日本・ロシアを巻き込む国際問題へと発展していきます。
そして、どちらも勝ちませんでした。閔妃は1895年に殺害され、大院君は幽閉と失意のうちに晩年を終えます。
1910年、朝鮮王朝は幕を閉じました。
けれど、純宗にいたる最後の十数年を動かしていたのは、もう外戚ではありません。
王室の内側の争いではなく、国際政治の中で決まっていきました。
正祖は「信頼できる家」を選び、大院君は「力を持たない家」を選びました。それでも、王妃の実家は権力の中心となったのです。
そして、形を変えながら500年続いた権力闘争の行き着く先は、王朝そのものの崩壊でした。
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