6世紀の終わりに、日本で二つのことが同時に起きました
ひとつは、巨大な墓が造られなくなったこと。
もうひとつは、日本で最初の本格的な寺が建ちはじめたこと。
この二つは、別々の出来事ではありません。同じ一つの変化の、表と裏です。
古墳時代のあいだ、豪族たちは自分の墓に信じられないほどの富を注ぎ込んできました。数百メートルの盛り土、何千本もの埴輪、金銅の馬具、大陸から取り寄せた鏡。その全部が「墓」のためのものでした。
それが、ぱたりと止まります。
代わりに彼らが金を出しはじめたのが、寺でした。
飛鳥時代というのは、ひとことで言えば「豪族の財布の向き先が、墓から寺へ変わった時代」です。
1. 古墳時代と飛鳥時代を、並べて比べる
まず全体像から。細かい年号は後回しでかまいません。
| 古墳時代 | 飛鳥時代 | |
|---|---|---|
| 時期の目安 | 3世紀後半〜6世紀末 | 592年〜710年(約120年) |
| 何に金をかけたか | 墓 | 寺 |
| 誰に見せるためか | 生きている人(この土地の支配者は誰か) | 仏(と、それを支える一族の格) |
| 呼んできた技術者 | 鍛冶・馬具・須恵器の職人 | 寺の大工・瓦職人・仏師・画工 |
| 残るモノ | 埴輪、鏡、馬具、須恵器 | 瓦、金銅仏、塔の心礎 |
| 建物の屋根 | (そもそも建物が残らない) | 瓦葺き ← 日本で初めて |
| 文字 | 刀に数十字を刻むのがやっと | 経典を書き写す・読む |
いちばん右下、「瓦」に注目してください。
古墳時代までの日本に、瓦はひとつもありません。屋根といえば茅葺きか板葺きでした。それが飛鳥時代になると、いきなり瓦が大量に出土しはじめます。
これがこの記事の物差しです。
土の中から埴輪が出てきたら古墳時代。瓦が出てきたら飛鳥時代以降。
乱暴な言い方ですが、博物館の展示ケースを眺めるときの目安としては、これで十分に使えます。
2. なぜ、墓ではなく寺になったのか
仏教が来てから、半世紀かかった
仏教が公式に日本に伝わったのは、538年説と552年説の二つがあります。前者は『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起』、後者は『日本書紀』にもとづくものです。
どちらにせよ、百済の王から倭の王へ、仏像と経典が贈られた、というかたちで伝わりました。
ただし、そこからすぐに寺が建ったわけではありません。半世紀ちかく、日本は仏教をめぐって揉めています。
受け入れようとした蘇我氏と、拒んだ物部氏。この対立が武力衝突にまで発展し、587年に物部守屋が滅ぼされます。勝った蘇我馬子が、翌年から造りはじめたのが飛鳥寺(法興寺)でした。
百済から、まるごとチームが来た
ここが面白いところです。
『日本書紀』によれば、飛鳥寺の造営にあたって百済から送られてきたのは、仏舎利と僧だけではありませんでした。寺大工、鑪盤博士(塔の相輪を作る技術者)、瓦博士、画工──寺を一棟建てるのに必要な職人が、職種ごとにセットで派遣されています。
つまり日本は、仏教という宗教だけを輸入したのではなく、「寺を建てるための技術パッケージ」をまるごと受け取ったのです。
瓦がこの時期から急に出てくるのは、そのためです。瓦は、思いつきで作れるものではありません。粘土の選び方、型の作り方、焼く窯の構造、屋根への葺き方──そのすべてがセットで海を渡ってきました。
倭と朝鮮半島の300年のやりとりは、こちらにまとめています。飛鳥時代は、この流れの「技術」の段階にあたります。
寺は「新しい古墳」だった
蘇我馬子が寺を建てた動機は、信仰心だけではなかったはずです。
考えてみてください。古墳の役目は何でしたか。遠くからでも見える、巨大で、金のかかった建造物によって、一族の力を示すことでした。
寺は、その条件をすべて満たします。しかも古墳より優れている点がありました。
- 塔は高い。飛鳥寺の五重塔は、平野のどこからでも見えたはずです
- 瓦は光る。日本人が初めて見た瓦屋根は、相当な衝撃だったと思われます
- 中に入れる。古墳は閉じた墓ですが、寺は人が集まり、儀式ができます
- 最新の外国文化そのものである
墓に金をかける意味が薄れ、寺に金をかける意味が生まれた。だから豪族たちはこぞって寺を建てはじめます。『日本書紀』は、624年の時点で寺が46か所、僧816人、尼569人にまで増えていたと記録しています。
半世紀足らずで、風景が変わったのです。
3. 物差し①──瓦を見れば、時代がわかる
博物館で瓦を見るときは、丸い瓦の先端(軒丸瓦)の文様を見てください。ここに蓮の花が彫られています。
蓮の花びらの形が、時代によって変わります。
| 時期 | 花びらの特徴 | 印象 |
|---|---|---|
| 飛鳥(7世紀前半) | 一枚ずつが単純でふっくら(素弁) | 素朴・力強い |
| 白鳳(7世紀後半) | 花びらの中に線が入り、複雑化 | 繊細になる |
| 奈良(8世紀) | 花びらが二重・輪郭がシャープ | 整いすぎて硬い |
古い瓦ほど、文様が単純です。
飛鳥寺の瓦は、百済の都・扶余で出土する瓦と共通する特徴が指摘されています。海を渡ってきた職人が、故郷でやっていたとおりに作った──と考えると、実物を見る目が変わってきます。
おまけ:瓦は最初、寺にしか葺かれなかった
意外に思われるかもしれませんが、飛鳥時代の宮殿には、瓦がありません。
天皇の住む宮殿でさえ、屋根は檜皮葺きや板葺きでした。宮殿に本格的に瓦が葺かれるのは、694年の藤原京からです。
つまり100年ちかくのあいだ、瓦屋根は「寺だけの特別な姿」でした。当時の人にとって、瓦の光る屋根は、それだけで「あれは仏の建物だ」という記号だったわけです。
4. 物差し②──仏像は、まだ小さい
飛鳥時代の仏像を博物館で見ると、たいてい最初に思うのは「思ったより小さい」です。
高さ20〜30センチ台のものがたくさんあります。両手で持てる大きさです。
これには理由があります。飛鳥時代の仏像の多くは、個人や一族が身近に置いて拝むためのものだったからです。寺の本尊としてどっしり据えるものではなく、厨子に入れて持ち運べる仏でした。
この「大きさ」は、時代を読む物差しになります。
| 時代 | 代表的な仏像 | だいたいの高さ | 誰が作らせたか |
|---|---|---|---|
| 飛鳥 | 小金銅仏の数々 | 20〜30cm | 個人・一族 |
| 飛鳥 | 飛鳥大仏(飛鳥寺) | 約2.7m | 蘇我氏(一族の総力) |
| 奈良 | 東大寺の大仏 | 約15m | 国家 |
仏像の大きさは、注文した人の規模をそのまま表しています。
個人が持てる大きさから、一族が総力を挙げる大きさへ、そして国家が国を挙げる大きさへ。飛鳥から奈良への100年は、仏像がひたすら大きくなっていく100年でもありました。
顔を見る
飛鳥時代の仏像には、顔つきに共通の特徴があります。
- 目が細長く、アーモンドのような形(杏仁形)
- 口元がかすかに笑っている(アルカイックスマイル)
- 正面から見たときが一番きれい。横から見るとぺたんと薄い
- 衣のひだが、左右対称に整っている
この様式は、飛鳥大仏や法隆寺金堂の釈迦三尊像を作った仏師・鞍作止利(止利仏師)の名から、止利様式と呼ばれます。
横から見ると薄い、というのがポイントです。飛鳥の仏像は「正面から拝まれること」だけを想定して作られています。ぐるりと回り込んで見られる立体として作られるのは、もう少し後の時代です。
5. 7世紀後半、もう一度大きな波が来る
飛鳥時代は120年あります。前半と後半では、かなり空気が違います。
後半を決定づけたのは、663年の白村江の戦いでした。
滅亡した百済を復興させるために倭が送った大軍が、唐と新羅の連合軍に大敗します。倭は朝鮮半島から完全に撤退し、二度と半島に軍を出しませんでした。
ただし、この敗戦は「終わり」ではありませんでした。技術と人の、第二の波を連れてきたからです。
百済という国が消えたことで、行き場を失った百済の貴族・官人・技術者が、大量に日本へ亡命してきます。彼らは近江などに移され、日本の政治や技術のなかに組み込まれていきました。九州に築かれた大野城や基肄城といった山城は、亡命してきた百済人の指導によるものと伝えられています。
そして7世紀後半、日本は急速に「国」の形を整えていきます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 645年 | 乙巳の変(大化の改新のはじまり) |
| 646年 | 薄葬令 ── 墓の大きさを身分ごとに制限する法令 |
| 663年 | 白村江の戦い、敗戦 |
| 672年 | 壬申の乱 |
| 694年 | 藤原京へ遷都(宮殿に初めて瓦) |
| 701年 | 大宝律令 |
| 703年 | 持統天皇の火葬(天皇として初) |
| 710年 | 平城京へ遷都 ← 飛鳥時代の終わり |
646年の薄葬令に注目してください。
「墓に金をかけるな」と、国が法律で決めたのです。それまで各地の豪族が好き勝手に巨大な墓を造っていたのを、身分に応じたサイズに抑え込む。墓から寺への流れは、この時点で国家の方針になりました。
6. では、古墳は消えたのか
ここで疑問が出てくるはずです。
「高松塚古墳とかキトラ古墳って、飛鳥時代じゃなかったっけ?」
そのとおりです。古墳は消えていません。変わったのです。
7世紀ごろの古墳を、考古学では終末期古墳と呼びます。飛鳥時代とほぼ重なる時期です。特徴はこの4つです。
① 小さくなった
前方後円墳のような巨大なものは造られなくなり、直径10〜20メートル程度の小さな墳丘になります。
② 形が特別になった
天皇の墓は、八角形になりました。八角墳です。舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳以降、天皇陵に八角墳が採用されます。
八角形は「天下八方」を表す中国の思想にもとづくとされ、「大王」から「天皇」へと支配者の性格が変わったことの表れと考えられています。
③ 中身が豪華になった
外は小さくなったぶん、中に金をかけるようになります。高松塚古墳とキトラ古墳の壁画が、その典型です。石室の壁いっぱいに、四神・星宿・人物が描かれています。
④ 一人用になった
石室の作りが変わります。
古墳時代後期までは横穴式石室が主流でした。横から入る通路があって、追葬(後から家族を入れる)ができる作りです。
ところが終末期になると、横口式石槨という形が現れます。棺がぴったり入るだけの小さな石の箱で、通路がありません。追葬できないのです。高松塚もキトラもこの形です。
埋葬される人が「◯◯一族の一員」から「◯◯という個人」になった、ということです。
そして、とどめ ── 火葬がやってくる
飛鳥時代の最後の最後に、決定打が現れます。
火葬です。
記録に残っているかぎりでは、文武4年(700年)に入唐留学僧の道昭を火葬したのが最初とされます。『続日本紀』は「天下の火葬これよりして始まる」と記しました。
その3年後、703年には持統天皇が、天皇として初めて火葬されます。藤原京を造ったあの持統天皇です。以後、文武・元明・元正と、歴代の天皇が火葬されていきました。
火葬をすると、遺体は骨だけになります。すると、こうなります。
巨大な石室が、要らなくなる。
高松塚やキトラの横口式石槨でさえ、棺ひとつぶんの大きさは必要でした。しかし骨壺なら、小さな穴で足ります。実際このあとの時代、貴族の墓は骨を納めた蔵骨器を埋めるだけの、ごく小さなものになっていきます。
墓の変化を並べると、こうです。
| 段階 | 墓の姿 |
|---|---|
| 古墳時代 | 数百メートルの墳丘。遠くから見せる |
| 終末期古墳 | 10〜20メートル。小さいが、中は豪華 |
| 火葬以後 | 骨壺ひとつ。墳丘そのものが消える |
大王が巨大な墓に葬られるという何百年もの伝統を、天皇自身が終わらせたわけです。
補足
ただし「火葬が古墳を終わらせた」わけではありません。古墳が小さくなりはじめたのは7世紀前半で、火葬より半世紀以上前のことです。火葬は原因ではなく、とどめでした。
また6〜7世紀の火葬墓が見つかっていたり、『万葉集』に火葬を詠んだ歌があることから、実際の起源はもっとさかのぼるとみられています。700年は「記録に残る最初」です。
なお火葬はしばらく皇族・貴族・僧侶といった特権階級のものでした。一般に広まるのは平安時代以降で、庶民は長く土葬が続きます。
つまり墓は、遠くから見せる一族の墓から、中で完結する特別な個人の墓へ、そして最後には骨壺ひとつへと姿を変えました。
見せるための建造物という役割は、寺の塔に譲り渡したのです。造物という役割は、寺の塔に譲り渡したのです。
7. 博物館で、何を見るか
飛鳥時代のコーナーに立ったら、この5つを順に探してみてください。
① 軒丸瓦
花びらの形が単純かどうかを見ます。単純でふっくらしていれば飛鳥、線が入って複雑なら白鳳以降。展示ケースに複数の瓦が並んでいたら、古い順に並んでいることが多いので、左から右へ目で追うだけで変化がわかります。
② 仏像の大きさ
「持てるか、持てないか」で見ます。両手で持てそうな金銅仏がずらりと並んでいたら、そこは飛鳥です。
③ 仏像の横顔
正面ではなく、横から見てみてください。ぺたんと薄ければ飛鳥様式。厚みがあって、どこから見ても成立していれば、もっと後の時代です。
④ 伽藍配置の模型
寺の建物の並び方を示した模型があれば、必ず見てください。塔と金堂のどちらが中心にあるかで時代がわかります。古いほど塔が中心にあります。仏舎利(釈迦の遺骨)を納める塔のほうが、仏像を安置する金堂より格上だった時代の名残です。
⑤ 埴輪がないこと
飛鳥のコーナーに埴輪はありません。「ないもの」を確認するのも、時代を体で覚えるにはいい方法です。
どこで見られるか
| 場所 | 見どころ |
|---|---|
| 東京国立博物館・法隆寺宝物館 | 飛鳥時代の小金銅仏がまとまって見られる、国内屈指の場所 |
| 東京国立博物館・本館 | 彫刻の部屋に飛鳥〜奈良の仏像 |
| 奈良国立博物館 | 仏像館。飛鳥から鎌倉までを通しで見られる |
| 奈良文化財研究所 飛鳥資料館(明日香村) | 瓦、山田寺の回廊、飛鳥の遺跡の出土品 |
| 明日香村の史跡 | 飛鳥寺、石舞台古墳、高松塚壁画館、キトラ古墳壁画体験館 |
まとめ──飛鳥時代を一行で言うと
豪族が、墓に注いでいた金を、寺に注ぎ替えた120年。
だから埴輪が消えて、瓦が現れました。
そして墓のほうは、消えたのではなく、小さく特別なものに姿を変えて生き残りました。
この「墓から寺へ」の流れは、まだ途中です。飛鳥では、寺を建てていたのはあくまで豪族という個人でした。それが次の奈良時代になると、寺を建てるのは国になります。国が全国に国分寺を建て、都に15メートルの大仏を据える。仏像がひたすら大きくなっていく話は、次の記事で。
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