好奇心の赴くままに。気になったことを、気ままに深掘り

【知識ゼロからの仏像④】権現とは何か?——4分類に入らない仏と、神仏習合

神社の境内にお堂がある。お寺の中に鳥居が立っている。

旅先で「あれ?」と思ったことはないでしょうか。

熊野権現、白山権現、蔵王権現、東照大権現。この「権現」も、神なのか仏なのか、よく分かりません。

このシリーズの①で、仏像は如来・菩薩・明王・天の4つに分かれると書きました。ところが権現は、そのどれにも入りません。

なぜそんなものがあるのか。

答えを先に言ってしまいます。

AD – 読み進める前のひとやすみ

まず、結論だけ

明治より前、日本では神と仏は分かれていませんでした。

「神社」と「お寺」に分けたのは、明治政府です。

これだけです。この記事は、ここから先の説明にすぎません。

1000年以上のあいだ、神社には僧がいてお経を読み、お寺には神が祀られていました。それが普通でした。

私たちが「神社とお寺は別のもの」と思っているのは、150年前に法律でそう決められたからであって、日本の伝統ではないんです。

この混ざった状態を、神仏習合(しんぶつしゅうごう)といいます。

神社お寺
明治より前← ほぼひとつ境内に両方ある →
明治以降神社お寺

「昔から2つあった」のではなく、1つを2つに割った。順番が逆なんですね。

4分類のどこにも入らないもの

①の記事で、この4つを覚えていただきました。

分類特徴
如来悟った人。装飾なし
菩薩修行中。アクセサリーだらけ
明王怒っている。密教の仏
インドの神々が仏教に取り込まれたもの

ところが、お寺や博物館を歩いていると、この表に入らないものが出てきます。

  • 権現(熊野権現、蔵王権現、東照大権現)
  • 神像(男神坐像、女神坐像)
  • 僧形八幡神(僧の姿をした神)

これらは日本で生まれた、神と仏の中間にあるものです。順に見ていきます。

なぜ混ざったのか──4つの段階

仏教が伝わった6世紀、日本にはすでに神がいました。よその神が来たわけです。ふつうなら争います。

ところが日本では、理屈をつけて共存させました。しかも、その理屈が時代とともに深まっていきます。

段階時期理屈神の立場
神宮寺奈良神も悩んでいる。仏の教えで救ってあげよう救われる側
護法善神平安初期神は仏法を守る守護者だ用心棒
本地垂迹平安中期〜神の正体は仏。仏が姿を変えたものだ仏の変装
反本地垂迹鎌倉〜室町いや逆だ。神が本体で、仏が仮の姿だ本体(神社側の逆襲)

驚くのは①です。神様のほうが仏教で救われるという発想から始まっています。

奈良時代の記録には、神が「自分は神という身分に苦しんでいる、仏の教えで救われたい」と託宣した、という話がいくつも残っています。だから神社の隣に寺を建て、僧を置いてお経を読ませた。これが神宮寺です。

そして③が、習合の完成形になります。

権現とは、「仮に現れたもの」

本地垂迹(ほんじすいじゃく)——聞き慣れない言葉ですが、分解すると簡単です。

  • 本地=本当の姿。つまり
  • 垂迹=跡を垂れる。日本に現れた仮の姿。つまり

インドの仏が、日本人にも分かるように神の姿を借りて現れた、という理屈です。

その「仮に現れた姿」につける呼び名が、権現(ごんげん)です。「権」は「仮の」という意味。仮免許の「仮」と同じです。

つまり——

権現=この神の正体は、実はあの仏です、という宣言。

平安時代以降、全国の神に、対応する仏が割り当てられていきました。

神(垂迹)正体(本地)
天照大神大日如来
八幡神阿弥陀如来
熊野の神々阿弥陀・薬師・千手観音
東照大権現(徳川家康)薬師如来

家康まで入っているのが面白いところです。死後、神として祀られ、その正体は薬師如来ということになりました

神像——姿のなかった神が、彫られはじめる

ここで、③の記事(作り方で時代を見分ける)とつながります。

もともと日本の神には、姿がありませんでした

三輪山のように山そのものだったり、岩や木や鏡だったり。像を作るという発想が、そもそもなかったんです。

ところが仏教が来て、仏像という「目に見える、拝める姿」を見てしまいます。すると、こうなりました。

神の像を、彫りはじめる。

登場するのは平安前期(9世紀)。③の記事でいう、ちょうど一木造の時代です。彫ったのも、仏像と同じ仏師たちでした。

ただし、仏像とはっきり違います。

仏像神像
仕上げ金箔・彩色でぴかぴかに素木(そぎ)。塗らないことが多い
服装インド風の衣日本の貴族の装束(男神は束帯、女神は唐衣)
姿勢立つ・坐る・動くほとんど坐ったまま動かない
見せ方本尊として拝ませる見せない。秘仏よりさらに非公開

いちばん大事なのが、最後の行です。

神は、見せるものではない。

仏像は「悟った姿」を見せるのが仕事です。でも神は、もともと姿のないもの。だから像を作っても、拝観させません。彩色もしない。彫りすぎない

同じころ、鉈彫(なたぼり)といって、ノミの跡をわざと残して彫りかけのように仕上げる技法も現れます(こちらは仏像にも見られます)。完成させないことに意味があるという感覚が、この時代にはありました。

③の記事で「作り方が顔つきを決める」と書きましたが、神像の場合は思想が仕上げを決めているわけですね。

代表的なものに、奈良・薬師寺の僧形八幡神像(平安前期・国宝)があります。八幡神が僧の姿で表されている。神が仏教に帰依した姿、そのものです。

さらに鎌倉時代には、③に登場した快慶が、東大寺の僧形八幡神像を手がけています。仏師が神像を彫るのは、当時ごく当たり前のことでした。

蔵王権現——日本で発明された仏

権現のなかでも、いちばん強烈なのがこれです。

蔵王権現(ざおうごんげん)。

奈良の大峯山(おおみねさん)で、役行者(えんのぎょうじゃ)が祈ったときに現れた、とされる存在です。

姿がすさまじい。

  • 髪は逆立ち、目を見開いて怒っている
  • 右手に武器を振り上げ、右足で地面を蹴り上げている
  • 全身が青黒い

②の記事を読まれた方は、「明王そっくり」と思われたはずです。その通りで、怒りの姿は密教の不動明王とよく似ています。

でも、明王ではありません

なぜなら、蔵王権現はインドにも中国にも、経典にも存在しないからです。

日本で生まれた、日本にしかいない尊格。

穏やかな仏では、末法の荒れた世は救えない。怒った姿でなければ間に合わない——そういう切迫感が生んだ姿です。

そして開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)も、不思議な人です。正史『続日本紀』には、699年に呪術で人を惑わした罪で伊豆に流されたという短い記事があるだけ。ところが平安以降、鬼を従えた、空を飛んだ、と伝説がふくらんでいきます。

痩せた事実に、後世が厚く肉を盛った人物なんですね。

なぜ、山だったのか

修験道は、その山で生まれました。

日本人にとって、山はもともとあの世です。亡くなると魂は山に登る。だから山に向かって拝む。三輪山のように、山そのものがご神体で社殿を持たない神社があるのは、その名残です。

そこへ仏教が重なって、山はこうなりました。

山=あの世 + 山=厳しい修行の場 + 山=仏の住む浄土

三重に神聖な場所です。

さらに修験道には、密教の呪法、道教の呪術、陰陽道の占いまで流れ込みます。日本の宗教のなかで、いちばん濃く混ざったものが修験道でした。

だから、お経も山頂に埋められました。前の記事で書いた経塚です。人が来ないからではなく、そこがいちばん仏に近い場所だったから。

経塚とは?56億7000万年後に宛てた手紙|末法思想と経筒平安時代の貴族たちが、山の頂上に穴を掘って、お経を埋めていました。 盗まれないように隠したのではありません。いつか掘り返すつもりでもありません。 宛先は、56億…

明治、1000年が引き裂かれる

そして、1868年。

明治政府が神仏分離令(神仏判然令)を出します。

神社から仏教的なものを一掃せよ、という命令でした。神社に置かれていた仏像は運び出され、僧は還俗させられ、鐘や仏具は撤去される。

「権現」という呼び名そのものも、仏教語だという理由で使用を禁止されました

さらにこれが民間で暴走し、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という寺院・仏像の破壊運動に発展します。この数年で失われた文化財の量は、計り知れません。

そして1872年、修験道は廃止されます。

理由は単純です。神でも仏でもあるので、どちらにも分類できなかった

神社は神社として残れました。寺は寺として残れました。でも修験道は、神も仏も道教も抜いてしまうと、あとに何も残らない。だから消すしかなかったのです。

山から行者が消え、権現像は壊されるか、無理やり「神」か「仏」のどちらかに登録し直されました。

修験道が復活するのは、戦後、信教の自由が保障されてからです。

現場で使える、見分けの手順

お寺や神社、博物館で「これは何だろう」と思ったら、この順に見てください。

1. 服装を見る
インド風の薄い衣 → 仏像
束帯や唐衣など、日本の装束神像

2. 仕上げを見る
金箔・彩色 → 仏像
木のまま、塗っていない → 神像の可能性

3. 名前に「権現」が入っていないか
入っていたら → 神仏習合のもの。①の4分類には入りません

4. 説明書きに「本地」とあれば
その神の正体とされた仏が書いてあります

5. 鏡に仏が彫ってあったら
これが御正体(みしょうたい)。神の依り代であるに、仏の姿を刻んだもの。習合そのものが形になった品です

博物館では、どこを見るか

東京国立博物館なら、平成館1階の考古展示室、通史展示の「祈りのかたち──山岳信仰と末法思想」のケースです。

ここに、線刻蔵王権現鏡像という品があります。奈良県大峯山頂から出土したもので、銅の鏡の面に蔵王権現の姿を線で刻んだものです。

見るポイントは、その組み合わせです。

  • =神の依り代。日本古来のもの
  • 蔵王権現=日本で生まれた、仏でも神でもない姿

神の道具に、日本製の仏を刻んで、山頂に埋めた。

この一枚に、この記事で書いてきたことが全部入っています。しかも、それを持って山を登った人が、1000年前に実在した。

彫刻を集めた展示室で神像に出会ったら、服装と、塗っていない木肌を見てください。仏像とは別の思想でできています。

まとめ

  • 神と仏を分けたのは明治政府。それ以前は原則ぜんぶ混ざっていた
  • 権現=仏が神の姿を借りて現れたもの。①の4分類には入らない
  • 神像は平安前期から。仏像と同じ一木造だが、塗らない・見せない
  • 蔵王権現は日本オリジナル。経典にない、日本にしかいない姿
  • 1868年の神仏分離と1872年の修験道廃止で、1000年の習合が断ち切られた
  • 現場では服装・仕上げ・名前の「権現」を見る

「神社とお寺は別物」という当たり前は、実はかなり新しい常識でした。そう思って歩くと、境内の隅にある小さなお堂や鳥居が、急に意味を持ちはじめます😊

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵