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聖武天皇とはどんな人?|大仏をつくった理由を生涯からわかりやすく

奈良の大仏をつくった天皇。
聖武天皇について、多くの人が知っているのはこのひとことだと思います。

でも、その生涯をたどってみると、聖武天皇は「偉大な天皇」というより、次々に起きる不幸と、ずっと向き合い続けた人でした。

母に会えない子ども時代。生まれたばかりの跡継ぎの死。政変、疫病、反乱。
そして、都を捨てて5年間さまよったあとにたどり着いたのが、大仏でした。

この記事では、聖武天皇の生涯を順番にたどりながら、「なぜ大仏をつくったのか」を考えます。

奈良時代全体の流れや系図は、こちらの記事にまとめています。

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聖武天皇のプロフィール

項目内容
生まれ701年
亡くなった年756年
名前首皇子(おびとのみこ)
在位724〜749年(奈良時代3人目の天皇)
文武天皇
藤原宮子(藤原不比等の娘)
皇后光明皇后(藤原不比等の娘)
跡を継いだ子孝謙天皇(娘)
残したもの東大寺の大仏、全国の国分寺、正倉院の宝物

母も妻も、藤原不比等の娘だった

聖武天皇を理解するいちばんの手がかりは、家族の顔ぶれです。

  • :藤原宮子 ── 藤原不比等の娘
  • :光明子(光明皇后) ── 藤原不比等の娘

母と妻が、姉妹なのです(母はちがいます)。
つまり聖武天皇は、藤原不比等から見ると孫であり、娘婿でもある天皇でした。

聖武天皇は、藤原氏の血を引いた初めての天皇です。
藤原氏にとっては、自分たちの家から生まれた「うちの天皇」。
だからこそ、聖武天皇の周りでは、藤原氏とそれ以外の力争いが激しくなっていきます。

光明子は、皇族以外で初めての皇后

729年、光明子は皇后になります。
それまで皇后になれるのは、皇族の女性だけでした。皇族ではない家から皇后が出たのは、これが初めてです。

光明皇后は、貧しい人や病気の人を助ける施設(悲田院・施薬院)をつくったことでも知られています。のちに聖武天皇の遺品を大仏に納め、正倉院の宝物を残した人でもあります。

母に会えなかった36年

聖武天皇は、父の文武天皇を幼いころに亡くしています。
そして母の宮子とは、生まれてから一度も会えないまま育ちました。

宮子は出産のあと、深くふさぎこむ状態になり、人前に出られなくなっていたのです。
母と子がようやく対面したのは737年。聖武天皇が生まれてから36年後のことでした。

これは伝説ではなく、奈良時代の正式な歴史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』に書かれている出来事です。

宮子については、「実は和歌山の海女だった」という不思議な伝説も残っています。くわしくはこちらで。

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即位してから、不幸が続いた

724年、聖武天皇は即位します。
父を亡くしてから、祖母(元明天皇)と伯母(元正天皇)がつないできた位を、ようやく受け継いだのです。

ところが、そこからの十数年は、つらい出来事の連続でした。

できごと
727光明子との間に基王(もといおう)が生まれ、すぐに皇太子に
728基王が満1歳の誕生日を迎える前に亡くなる
729長屋王の変。皇族の長屋王が自害に追いこまれる
737天然痘が大流行。政権の中心だった藤原四兄弟が全員亡くなる
740藤原広嗣の乱。九州で大規模な反乱が起きる

生まれてすぐ皇太子にした息子を、1年もたたずに亡くす。
その翌年には、天皇家の重鎮だった長屋王が、謀反の疑いで死に追いやられる。
さらに疫病で、国じゅうの人々と、政権を支えていた妻の兄たちが次々に亡くなる。

当時の人々は、天災や疫病を「天皇の政治がよくないからだ」と受け止める考え方を持っていました。
聖武天皇はこれらの不幸を、自分の責任として重く受け止めていたと考えられています。

長屋王の変と藤原四兄弟の死については、こちらでくわしく書いています。

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都を転々とした5年間

740年、九州で藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇は思いがけない行動に出ます。
反乱のさなかに「思うところがあって、しばらく東へ行く」と言い残し、平城京を出てしまうのです。

そこから5年間、聖武天皇は都を次々に移していきます。

都・宮いまの場所
740恭仁京(くにきょう)京都府木津川市
742〜紫香楽宮(しがらきのみや)滋賀県甲賀市
744難波宮(なにわのみや)大阪市中央区
745平城京に戻る奈良市

大阪城の近くにある難波宮跡は、大化の改新のあとに孝徳天皇が都を置いた場所でもあります。その宮殿が焼けたあと、同じ場所に聖武天皇が建て直した宮が、このとき一時的に都になりました。

なぜこんなに都を移したのか。はっきりした理由は、実はわかっていません。
反乱への不安、政権の中心にいた橘諸兄の本拠地に近い場所を選んだ、仏教の都をつくろうとした、などいくつもの説があります。

ひとつ言えるのは、この5年のあいだに、聖武天皇が国の立て直し方を大きく変えたということです。

なぜ大仏をつくったのか

きっかけは、河内のお寺で見た仏さま

740年、聖武天皇は河内国(いまの大阪府柏原市あたり)にあった知識寺というお寺で、盧舎那仏(るしゃなぶつ)という仏さまを拝みました。
この仏さまに深く心を動かされ、「自分も盧舎那仏をつくりたい」と考えるようになったといわれています。

「知識」とは、人々がお金や労力を出しあって仏さまやお寺をつくること。
知識寺は、その名のとおり、地域の人々の力でつくられたお寺でした。

盧舎那仏は「宇宙を照らす仏さま」

盧舎那仏は、宇宙の中心にいて、太陽のように世界のすみずみまで光を届ける仏さま(如来のひとり)です。

聖武天皇は、この考え方を国づくりに重ねました。

仏教の世界聖武天皇の国づくり
宇宙の中心にいる盧舎那仏都の東大寺にいる大仏
光が世界のすみずみまで届く全国に国分寺・国分尼寺を置く

たとえるなら、東大寺が本社で、国分寺は全国の支店。
都の大仏から、国じゅうの国分寺へ、仏の力が行きわたる。
バラバラになりかけた国を、仏教でひとつにつなぎ直すという計画でした。

できごと
741全国に国分寺・国分尼寺を建てる命令
743紫香楽宮で、大仏をつくる命令
745平城京に戻り、東大寺で大仏づくりを再開
749陸奥国(いまの宮城県)で金が見つかり、大仏に使われる
752大仏開眼会(完成の儀式)

「一枝の草、ひとにぎりの土でもいい」

743年に出された大仏をつくる命令(大仏造立の詔)には、印象的なことばがあります。

聖武天皇は、「天下の富も力も、自分が持っている」と述べたうえで、それでも力ずくでつくるのではなく、人々の心でつくりたいと語りました。
そして、協力したい人は「一枝の草」「ひとにぎりの土」を持ってくるだけでもいい、と呼びかけたのです。

これは、河内の知識寺と同じやり方。
天皇の命令でつくる仏ではなく、国じゅうの人が少しずつ力を出しあってつくる仏。そこに聖武天皇の願いがありました。

行基という「民衆のお坊さん」

この呼びかけに力を貸したのが、行基(ぎょうき)という僧です。

行基は、各地で橋や道、ため池をつくりながら教えを広め、民衆にとても慕われていました。
ところが、国の許可なく人々を集めていたため、かつては朝廷から取りしまられていた人でもあります。

聖武天皇は、その行基を大仏づくりの協力者として迎え入れ、745年には僧のいちばん上の位「大僧正(だいそうじょう)」を与えました。
かつて取りしまった人の力を、国づくりのために借りたのです。

聖武天皇が残したもの──正倉院へ

749年、聖武天皇は位を娘の孝謙天皇にゆずります。
そして752年、ついに大仏開眼会が開かれました。インドから来た僧が大仏に目を入れる、国際色ゆたかな大法要でした。

754年には、唐から何度も渡航に失敗しながらやってきた鑑真から、正式な戒律を授かっています。

756年、聖武天皇は亡くなりました。

その四十九日に、光明皇后は夫が大切にしていた品々を、東大寺の大仏に納めます。
そのとき一緒に納めた目録が『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』。
そしてその品々をしまった蔵が、正倉院です。

鏡、楽器、碁盤、水差し、刀。
1300年たったいまも、聖武天皇の愛した品々は、正倉院に残っています。

ひとことで言うと
聖武天皇は、次々に起きる不幸のなかで、「仏の力で国をひとつにする」ことに生涯をかけた天皇でした。大仏はその答えであり、正倉院はその人の生きた証です。

聖武天皇の宝物は、いまも見られる

聖武天皇の愛用品は、毎年秋に奈良国立博物館で開かれる「正倉院展」で、少しずつ公開されています。

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