『雲が描いた月明り』を観ていると、ヒロインのラオンにこんな出自が与えられています。
「父は、洪景来(ホン・ギョンネ)」
罪人の娘。だから男装して、宦官として生きている。物語を動かす、重たい設定です。
では——この洪景来という人は、実在するのでしょうか。
します。しかも、ドラマが描かなかった部分のほうが、はるかに劇的でした。
科挙に受からなかったのではない
洪景来は1780年ごろ、平安道の龍岡(リョンガン)に生まれたとされます(1771年生まれとする説もあります)。
名門・南陽洪氏の末裔ですが、家はすでに没落していて、暮らしぶりはほぼ平民でした。それでも彼は儒教を学び、兵法を学び、風水地理まで修めます。書堂(寺子屋)で子どもたちに教えるほどの知識人でした。
1797年、平壌の郷試に合格します。ここまでは順調です。
ところが翌1798年、司馬試に失敗。彼は家を出ます。満18歳ごろのことでした。
郷試と司馬試って?
科挙は一発勝負ではなく、何段階もあるトーナメントでした。
郷試 地方で行われる一次予選
司馬試 都で行われる本試験。通れば「生員」「進士」の資格を得て、国立大学にあたる成均館に入れます
ただし、ここを通ってもまだ官僚ではありません。その先に「文科(大科)」という別の試験があり、それに受かって初めて役人になれます。
つまり洪景来は、ゴールの2段階も手前にいたことになります。
ここで、ひとつ押さえておきたいことがあります。
💡能力の問題ではなかったかもしれません。
当時、平安道の出身者は、中央の官界への道が基本的に閉ざされていました。
どれだけ学んでも、どれだけ受かっても、その先がない。先は長く、しかもゴールに扉がない。
彼が家を出たのは、試験に落ちたからというより、落ちて初めて壁の存在がはっきり見えたから——そう読むこともできます。
以後10年近く、彼は地師(土地の吉凶を占う仕事)をしながら各地を放浪し、同志を集めて回ります。
10年です。思いつきの反乱ではありません。
なぜ、平安道だったのか
「貧しい土地の、貧しい人々の一揆」——そう思いがちですが、少し違います。
平安道は、清(中国)と国境を接する土地でした。そのため貿易で商品経済が発達し、富裕な商人や農民が育っていた地域です。18世紀末からは鉱山も動き始めていました。
つまり、お金はあった。力もあった。ただ、政治の場に席がなかった。
そこへ中央政府と地方官の収奪が重なります。富める者には不満が、貧しい者には飢えが積もっていきました。
だから洪景来の軍には、いろいろな人が集まりました。没落した両班、名門の庶子、富裕な商人、流浪の農民、鉱山で働く者たち。
身分がバラバラなのに、一点で一致していた。「この土地に生まれたというだけで損をしている」という一点で。
檄文が名指ししたもの
1811年の暮れ、嘉山郡の多福洞で、洪景来はおよそ1000人を率いて挙兵します。
このとき彼が発した檄文が、なかなかのものです。掲げたのは2つ。
❗檄文の2つの主張
① 平安道出身者への差別を撤廃せよ
② 幼い王の外戚による専権政治に反対する
②に注目してください。
当時の王は純祖。満10歳で即位し、王妃の実家である安東金氏が実権を握っていました。いわゆる勢道政治です。
つまりこの反乱は、単なる地方の不満の爆発ではありませんでした。都で誰が国を私物化しているかを、正確に名指ししていたのです。
地方の農民反乱が、中央の権力構造を撃った。ここがこの乱のすごいところです。
純祖→憲宗→哲宗→高宗|勢道政治から明成皇后までの外戚政治朝鮮王朝の後半を読んでいると、途中から王の名前よりも「○○氏」という家の名前が目立つようになります。安東金氏、豊壌趙氏、驪興閔氏──。 派閥政治が終わり、外戚が…
なお、掲げた旗印そのものは、かなり空想的でもありました。鄭始守(チョン・シス)という架空の聖人が、明の遺臣の子孫である10万の鉄騎を率いて朝鮮を正しに来る——そういう物語です。当時の民衆に届く言葉が、そういう形をしていたということなのでしょう。
4か月の籠城
緒戦は、勢いがありました。
反乱軍はまたたく間に広がり、清川江から北の9つの邑を占領します。最盛期には、清川江以北をほとんど支配下に置いていました。
しかし博川の松林での戦いに敗れ、定州城に立て籠もります。
ここから、4か月。
政府軍はおよそ8000名。攻城具と火器、そして爆薬を持ち込みます。最終的には地下道を掘って城壁を爆破し、定州城は落ちました。
1812年、陰暦4月19日。洪景来は官軍の銃弾に撃たれ、戦死します。腹心だった禹君則(ウ・グンチク)と洪総角(ホン・チョンガク)は捕らえられ、誅殺されました。
そして、この後が重いです。
⚠️ 記録によれば、生け捕りにされた男女2983名のうち、10歳以上の男子1917名が斬首されました。
数字を見たとき、しばらく手が止まりました。
それでも、彼は死ななかった
ここからが、この話のいちばん面白いところです。
定州城は落ちた。洪景来は撃たれた。乱は完全に鎮圧された。
にもかかわらず——「洪景来は生きている」という噂が、民衆のあいだで絶えなかったのです。
どこかで生きていて、いつか戻ってくる。そういう話が、長く語り継がれました。
そして実際、19世紀後半になると、彼が撃ったものと同じ相手に向かって、反乱が次々と起こります。1862年の壬戌民乱。そして1894年の甲午農民戦争(東学農民運動)。
三政の紊乱(さんせいのびんらん)って?
「三政」は国の3つの税の柱、「紊乱」は秩序が乱れることです。19世紀、この3つがすべて壊れました。
| 本来の制度 | 実際に起きたこと | |
|---|---|---|
| 田政 | 土地にかかる税 | 存在しない土地にまで課税 |
| 軍政 | 兵役の代わりに納める布 | 死んだ人や赤ん坊にまで課す |
| 還穀 | 春に穀物を貸し、秋に返させる救貧制度 | 高利貸しに変質。砂や籾殻を混ぜて貸す |
一番ひどいのが還穀です。もとは「飢える春を越させてあげる」という善意の制度でした。それが役人の集金装置になり、借りていないのに返済を迫られる例まで記録に残っています。
善意の制度が、いちばん残酷な収奪装置になった。 1862年の壬戌民乱は、これへの怒りが全国で同時に爆発したものです。
💡洪景来の乱が失敗した理由は、はっきりしています。
「平安道への差別をなくせ」という主張が、全国に届く言葉ではなかったからです。慶尚道の農民には、自分のこととして響かなかった。
けれど50年後、三政の紊乱という全国共通の苦しみが出てきたとき、そのエネルギーは一気に燃え広がりました。
先駆けとは、そういうものなのかもしれません。
ドラマと史実のちがい
| ドラマ『雲が描いた月明り』 | 史実 | |
|---|---|---|
| 洪景来 | ラオンの父して登場 | 実在。1812年に定州城で戦死 |
| ラオン | 洪景来の娘。男装して宦官に | ドラマの創作。娘の存在は確認できません |
| 反乱の理由 | 詳しくは描かれない | 平安道差別の撤廃と、外戚政治への反対 |
| 孝明世子との関係 | ラオンを通じて交わる | 洪景来の死は1812年、孝明世子の誕生は1809年 |
最後の行が、地味に効いています。
ラオンの父が死んだとき、ヨン(孝明世子)はまだ満2歳。
ドラマは、この2人を同じ物語の中で出会わせました。安東金氏に潰された父の娘と、安東金氏と戦うことになる世子を。よくできた設定だと思います。
もうひとつ。洪景来を主役級で描いた作品としては、2002年のMBCドラマ『商道(サンド)』があります。こちらでは朴贊煥(パク・チャンファン)が演じています。
おわりに
ラオンの父は、実在しました。
10年かけて準備し、1000人で立ち、9つの邑を取り、4か月籠城して、死にました。そして死んだあとも、50年にわたって噂の中で生き続けました。
史実の彼は、朝鮮王朝の19世紀を開けた人でした。
それまでも反乱はありました。500年のあいだ、揉めていなかった時期などありません。ただしその多くは、支配層同士の争いか、食い詰めた者の集団化です。身分の違う人々が、はっきりした政治的主張を掲げて手を組んだのは、これが最初でした。
だから彼のあとに、壬戌民乱が続き、甲午農民戦争が続きます。
ドラマは彼を「ヒロインの父」として置きました。けれど史実の彼は、そのあと100年の入口に立っていた人だったのです。
『雲が描いた月明り』をもう一度観るとき、ラオンの背中に、この4か月が見えるかもしれません。
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