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純祖→憲宗→哲宗|雲が描いた月明り・哲仁王后〜俺がクイーン・風と雲と雨の時代が5分でわかる

純祖・憲宗・哲宗の60年余り——王よりも、王の妻の実家のほうが強かった時代です。『雲が描いた月明り』の若き世子、『哲仁王后〜俺がクイーン』の江華島育ちの王、『風と雲と雨』が描いた王朝の黄昏。この3作品は、すべてこの同じ60年の中にあります。

系図

第22代 正祖 前記事から・1800年に急死 貞純王后(英祖の継妃)が垂簾聴政 1800〜1803 ▲辛酉迫害で改革派が壊滅 第23代 純祖 満10歳で即位 在位 1800〜1834 純元王后 安東金氏・金祖淳の娘 憲宗・哲宗の2代で垂簾聴政 孝明世子 1827代理聴政→満20歳で夭逝 『雲が描いた月明り』 神貞王后=趙大妃 豊壌趙氏・趙萬永の娘 ※1863年に高宗を擁立 第24代 憲宗 満7歳で即位 在位 1834〜1849 孝顕王后 安東金氏・満15歳で早世 孝定王后 南陽洪氏・どちらにも傾かない人選 1849年 跡継ぎなく断絶 江華島の青年・李元範(イ・ウォンボム) 思悼世子 → 恩彦君 → 全渓大院君 の系統・農民同然の暮らし 純元王后が純祖の養子にして即位 第25代 哲宗 満18歳で即位 在位 1849〜1863 哲仁王后 安東金氏・金汶根の娘 満32歳で崩御・子なし 1863年、哲宗の死で安東金氏の60年に幕 → 第26代 高宗へ
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時代背景——王が消え、外戚が国を喰った

勢道政治の60年は、王に力がなく、上層部が腐敗を極めた時代であると同時に、農民が搾取され続けた時代でもありました。その不満は各地で大規模な農民蜂起へと発展していきます。

① 健在だった貞純王后の復活と大弾圧

正祖の死後、純祖 満10歳で即位します。まず表舞台に躍り出たのが、英祖の継妃であり老論強硬派(僻派)のトップ・貞純王后(チョンスンワンフ)です。

ドラマ『イ・サン』でも正祖を苦しめ続けたあのテビ(大妃)は、実は健在でした。

幼い純祖に代わって政治を行う権力(垂簾聴政:すいれんちょうせい)を手に入れた彼女は、すぐさま正祖の遺志を打ち砕く行動に出ます。

名目は「邪教(キリスト教)の排除」:1801年、カトリック禁止令を発布(辛酉迫害/シンユパッカイ)。

本当の狙いは「政敵の一掃」:正祖が重用した改革派の官僚や実学者たちを、キリスト教にかこつけて逮捕・処刑・流刑に追い込みました。

この弾圧により、正祖が築き上げた「朝鮮ルネサンス」の頭脳たちは壊滅状態となってしまったのです。

② 正祖が最も信頼した男が、最大の外戚になった

正祖は生前、「息子の将来を頼む」と最も信頼する臣下・金祖淳(キム・ジョスン)に後事を託し、その娘を世子嬪(のちの純元王后)に選びました

貞純王后が実権を握っていた間、金祖淳は目立った行動を控え、忠臣として時機を待ちます。1805年に貞純王后が亡くなると、国舅(王妃の父)、金祖淳が朝廷の実権を握りました。

金祖淳の家門、安東金氏は一族を次々と要職に就け、科挙や地方官人事にも大きな影響力を及ぼします。宮中では純元王后も実家を支え、こうして安東金氏による勢道政治がはじまるのです。

純祖・憲宗・哲宗の3代、約50年、純元王后は死ぬまで朝鮮王朝の裏から君臨し続けました。——『哲仁王后〜俺がクイーン』の大王大妃がこの人です。

純祖(スンジョ)の抵抗しました。

息子、孝明世子(ヒョミョンセジャ)の妃に豊壌趙氏(プンヤンチョシ)の娘迎えます。のちの神貞王后(シンチョンワンフ)——『哲仁王后〜俺がクイーン』の趙大妃です。

③ 孝明世子の早世

そして1827年、満17歳の孝明世子に代理聴政を委ねます。実質的な王の交代——安東金氏は一時的に勢力を失いました。ところがです。1830年——孝明世子、満20歳で夭逝。原因は不明(病死とされる)。代理聴政開始からわずか3年。安東金氏は再び勢力を取り戻すことになりました。

『雲が描いた月明り』は、「もし彼が生き延びて改革を成し遂げていたら…」というもしもを描いた物語、ドラマではヨン(孝明世子)の「実母は亡くなり、悪役の継妃が君臨している」設定ですが、史実での実母はまさに安東金氏・純元王后(スノンワンフ)その人です。

1832年に金祖淳が没した後、息子の金左根(キム・ジャグン)が実権を継承し、安東金氏による絶対的な独裁体制を完成させました。

1834年、純祖が崩御。孫の憲宗が満7歳で即位し、純元王后が再び垂簾聴政を行います。

④ 哲宗——農夫から王になった男

1849年、憲宗が満21歳で子なく崩御。

純元王后(この時すでに大王大妃)が打った手が、朝鮮王朝史上最も奇妙な王の誕生劇でした。

江華島で薪を集めていた青年・李元範(イ・ウォンボム)

思悼世子の庶子・恩彦君の孫。罪人の子孫として江華島で農民同然の生活をしていた。読み書きもろくにできなかったとされる。

純元王后はこの満18歳の青年を江華島から呼び寄せ、自分と亡夫・純祖の養子にして即位させました。第25代・哲宗(チョルチョン)の誕生です。

『哲仁王后〜俺がクイーン〜』の、哲宗は「愚かな王のフリをした名君」。

史実は政治の知識もないまま江華島から連れてこられた哲宗(あだ名:江華道令)は、「傀儡(あやつり人形)」のまま、酒色に溺れ、在位14年32歳で急逝。

哲仁王后は、実家の悪政には一切加担せず、寡黙で中立を保ち続けたと伝えられています。1858年に哲宗の嫡出の男子である元子・李隆俊(イ・ユンジュン)を産みましたが、生後6か月ほどで夭折。

1857年に純元王后が死去すると、神貞王后が王室の最長老になりました。

『風と雲と雨』では、哲宗の「架空の王女(ポンリョン)」が登場し、安東金氏の圧政を打ち破って新しい王(高宗)を擁立する時代が描かれます。

しかし、これで「めでたしめでたし」のハッピーエンドとはなりません。
安東金氏を追い払った後に待っていたのは、清・日本・ロシアなど列強の思惑を引きずり込んだ、嫁と舅による泥沼の権力闘争でした。

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タイムライン(時系列を追う)

1800年 正祖 崩御/純祖 満10歳で即位
1800〜1803年 貞純王后の垂簾聴政 英祖の継妃が大王大妃として実権を掌握。老論強硬派の復権が始まる
1801年 辛酉迫害(シニュバッケ) 貞純王后主導のカトリック大弾圧。南人派が壊滅し、正祖時代の改革派が一掃される
1802年 純元王后 冊封 安東金氏・金祖淳の娘が正式に純祖の王妃に。父・金祖淳は正祖が信頼していた忠臣
1804年 純祖の親政開始/金祖淳の実権掌握 貞純王后が引退すると、それまで沈黙していた金祖淳が動き出す。勢道政治の幕開け
1805年 貞純王后 死去 権力は完全に安東金氏へ移行
1811〜1812年 洪景来(ホンギョンネ)の乱 平安道で起きた大規模反乱。約4ヶ月続き官軍が鎮圧。社会不満の最初の爆発
余談:『雲が描いた月明り』では、ヒロイン・ラオンのお父さんが洪景来という設定です
1819年 孝明世子嬪に豊壌趙氏 純祖が安東金氏に対抗するため、世子の妃を別の家門から選ぶ。純祖の最後の抵抗
1827年 孝明世子の代理聴政 純祖の体調悪化を受け、世子が政務を代行。安東金氏を一時抑え込む
1830年 孝明世子 夭逝 安東金氏が再び勢力を取り戻す
1834年 純祖 崩御/憲宗 満7歳で即位 今度は純元王后(安東金氏)が垂簾聴政を行う
1849年 憲宗 崩御/哲宗 満18歳で即位 憲宗は子なく崩御。江華島で農民同然の生活をしていた王族の末裔・李元範が呼び寄せられて即位
1851年 哲仁王后 冊封 哲宗の妃も安東金氏
1857年 純元王后 死去 王室の最長老が神貞王后(趙大妃)に交代。安東金氏の絶対的な後ろ盾が消える
1862年 壬戌民乱(イムスルミルラン) 慶尚道・忠清道・全羅道で連鎖的に農民蜂起。三政の紊乱(軍布・還穀・田税の腐敗)への怒りが全国に広がる
1863年 哲宗 崩御 子なく崩御。神貞王后(孝明世子の妃・豊壌趙氏)が興宣君・李昰応(のちの興宣大院君)と連携し、その次男・李命福を高宗として即位させる。勢道政治60年に幕
最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵