純祖・憲宗・哲宗の60年余り——王よりも、王の妻の実家のほうが強かった時代です。『雲が描いた月明り』の若き世子、『哲仁王后〜俺がクイーン』の江華島育ちの王、『風と雲と雨』が描いた王朝の黄昏。この3作品は、すべてこの同じ60年の中にあります。
系図
時代背景——王が消え、外戚が国を喰った
勢道政治の60年は、王に力がなく、上層部が腐敗を極めた時代であると同時に、農民が搾取され続けた時代でもありました。その不満は各地で大規模な農民蜂起へと発展していきます。
① 健在だった貞純王后の復活と大弾圧
正祖の死後、純祖 満10歳で即位します。まず表舞台に躍り出たのが、英祖の継妃であり老論強硬派(僻派)のトップ・貞純王后(チョンスンワンフ)です。
ドラマ『イ・サン』でも正祖を苦しめ続けたあのテビ(大妃)は、実は健在でした。
幼い純祖に代わって政治を行う権力(垂簾聴政:すいれんちょうせい)を手に入れた彼女は、すぐさま正祖の遺志を打ち砕く行動に出ます。
名目は「邪教(キリスト教)の排除」:1801年、カトリック禁止令を発布(辛酉迫害/シンユパッカイ)。
本当の狙いは「政敵の一掃」:正祖が重用した改革派の官僚や実学者たちを、キリスト教にかこつけて逮捕・処刑・流刑に追い込みました。
この弾圧により、正祖が築き上げた「朝鮮ルネサンス」の頭脳たちは壊滅状態となってしまったのです。
② 正祖が最も信頼した男が、最大の外戚になった
正祖は生前、「息子の将来を頼む」と最も信頼する臣下・金祖淳(キム・ジョスン)に後事を託し、その娘を世子嬪(のちの純元王后)に選びました。
貞純王后が実権を握っていた間、金祖淳は目立った行動を控え、忠臣として時機を待ちます。1805年に貞純王后が亡くなると、国舅(王妃の父)、金祖淳が朝廷の実権を握りました。
金祖淳の家門、安東金氏は一族を次々と要職に就け、科挙や地方官人事にも大きな影響力を及ぼします。宮中では純元王后も実家を支え、こうして安東金氏による勢道政治がはじまるのです。
純祖・憲宗・哲宗の3代、約50年、純元王后は死ぬまで朝鮮王朝の裏から君臨し続けました。——『哲仁王后〜俺がクイーン』の大王大妃がこの人です。
純祖(スンジョ)の抵抗しました。
息子、孝明世子(ヒョミョンセジャ)の妃に豊壌趙氏(プンヤンチョシ)の娘迎えます。のちの神貞王后(シンチョンワンフ)——『哲仁王后〜俺がクイーン』の趙大妃です。
③ 孝明世子の早世
そして1827年、満17歳の孝明世子に代理聴政を委ねます。実質的な王の交代——安東金氏は一時的に勢力を失いました。ところがです。1830年——孝明世子、満20歳で夭逝。原因は不明(病死とされる)。代理聴政開始からわずか3年。安東金氏は再び勢力を取り戻すことになりました。
『雲が描いた月明り』は、「もし彼が生き延びて改革を成し遂げていたら…」というもしもを描いた物語、ドラマではヨン(孝明世子)の「実母は亡くなり、悪役の継妃が君臨している」設定ですが、史実での実母はまさに安東金氏・純元王后(スノンワンフ)その人です。
1832年に金祖淳が没した後、息子の金左根(キム・ジャグン)が実権を継承し、安東金氏による絶対的な独裁体制を完成させました。
1834年、純祖が崩御。孫の憲宗が満7歳で即位し、純元王后が再び垂簾聴政を行います。
④ 哲宗——農夫から王になった男
1849年、憲宗が満21歳で子なく崩御。
純元王后(この時すでに大王大妃)が打った手が、朝鮮王朝史上最も奇妙な王の誕生劇でした。
江華島で薪を集めていた青年・李元範(イ・ウォンボム)
思悼世子の庶子・恩彦君の孫。罪人の子孫として江華島で農民同然の生活をしていた。読み書きもろくにできなかったとされる。
純元王后はこの満18歳の青年を江華島から呼び寄せ、自分と亡夫・純祖の養子にして即位させました。第25代・哲宗(チョルチョン)の誕生です。
『哲仁王后〜俺がクイーン〜』の、哲宗は「愚かな王のフリをした名君」。
史実は政治の知識もないまま江華島から連れてこられた哲宗(あだ名:江華道令)は、「傀儡(あやつり人形)」のまま、酒色に溺れ、在位14年32歳で急逝。
哲仁王后は、実家の悪政には一切加担せず、寡黙で中立を保ち続けたと伝えられています。1858年に哲宗の嫡出の男子である元子・李隆俊(イ・ユンジュン)を産みましたが、生後6か月ほどで夭折。
1857年に純元王后が死去すると、神貞王后が王室の最長老になりました。
『風と雲と雨』では、哲宗の「架空の王女(ポンリョン)」が登場し、安東金氏の圧政を打ち破って新しい王(高宗)を擁立する時代が描かれます。
しかし、これで「めでたしめでたし」のハッピーエンドとはなりません。
安東金氏を追い払った後に待っていたのは、清・日本・ロシアなど列強の思惑を引きずり込んだ、嫁と舅による泥沼の権力闘争でした。
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純祖→憲宗→哲宗→高宗|勢道政治から明成皇后までの外戚政治朝鮮王朝の後半を読んでいると、途中から王の名前よりも「○○氏」という家の名前が目立つようになります。安東金氏、豊壌趙氏、驪興閔氏──。 派閥政治が終わり、外戚が…
タイムライン(時系列を追う)
| 1800年 | 正祖 崩御/純祖 満10歳で即位 |
| 1800〜1803年 | 貞純王后の垂簾聴政 英祖の継妃が大王大妃として実権を掌握。老論強硬派の復権が始まる |
| 1801年 | 辛酉迫害(シニュバッケ) 貞純王后主導のカトリック大弾圧。南人派が壊滅し、正祖時代の改革派が一掃される |
| 1802年 | 純元王后 冊封 安東金氏・金祖淳の娘が正式に純祖の王妃に。父・金祖淳は正祖が信頼していた忠臣 |
| 1804年 | 純祖の親政開始/金祖淳の実権掌握 貞純王后が引退すると、それまで沈黙していた金祖淳が動き出す。勢道政治の幕開け |
| 1805年 | 貞純王后 死去 権力は完全に安東金氏へ移行 |
| 1811〜1812年 | 洪景来(ホンギョンネ)の乱 平安道で起きた大規模反乱。約4ヶ月続き官軍が鎮圧。社会不満の最初の爆発 余談:『雲が描いた月明り』では、ヒロイン・ラオンのお父さんが洪景来という設定です |
| 1819年 | 孝明世子嬪に豊壌趙氏 純祖が安東金氏に対抗するため、世子の妃を別の家門から選ぶ。純祖の最後の抵抗 |
| 1827年 | 孝明世子の代理聴政 純祖の体調悪化を受け、世子が政務を代行。安東金氏を一時抑え込む |
| 1830年 | 孝明世子 夭逝 安東金氏が再び勢力を取り戻す |
| 1834年 | 純祖 崩御/憲宗 満7歳で即位 今度は純元王后(安東金氏)が垂簾聴政を行う |
| 1849年 | 憲宗 崩御/哲宗 満18歳で即位 憲宗は子なく崩御。江華島で農民同然の生活をしていた王族の末裔・李元範が呼び寄せられて即位 |
| 1851年 | 哲仁王后 冊封 哲宗の妃も安東金氏 |
| 1857年 | 純元王后 死去 王室の最長老が神貞王后(趙大妃)に交代。安東金氏の絶対的な後ろ盾が消える |
| 1862年 | 壬戌民乱(イムスルミルラン) 慶尚道・忠清道・全羅道で連鎖的に農民蜂起。三政の紊乱(軍布・還穀・田税の腐敗)への怒りが全国に広がる |
| 1863年 | 哲宗 崩御 子なく崩御。神貞王后(孝明世子の妃・豊壌趙氏)が興宣君・李昰応(のちの興宣大院君)と連携し、その次男・李命福を高宗として即位させる。勢道政治60年に幕 |
