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百済の武寧王はなぜ日本で生まれたのか|5世紀、倭と百済の100年

佐賀県の唐津から、船で20分。
加唐島(かからしま)という小さな島があります。

周囲12キロ、人口100人ほど。特別な観光地ではありません。
ところがこの島に、韓国から毎年のように訪問団が訪れます。

百済の王が、ここで生まれたからです。

答えを先に言うと、理由は偶然です。
王族の一行が海を渡っている途中、船に乗っていた女性が産気づいた。それだけのことでした。

でも、そこで新しい問いが立ちます。

なぜ、身重の女性が百済から倭へ向かう船に乗っていたのか。

こちらは偶然ではありません。
その答えが、この記事で追いかける100年です。

4世紀後半の倭と百済

出発点を確認しておきます。

奈良の富雄丸山古墳(4世紀後半)から出た、2.37メートルの蛇行剣と、盾の形をした鼉龍文銅鏡。
どちらも手本となるようなものが、半島からも中国からも見つかっていません。

かつては、手本がありました。
3世紀の古墳に大量に副葬された三角縁神獣鏡です。文様も銘文も中国式でした。

ところが4世紀のはじめ、それが届く道が消えます。
中国が内乱で自壊し、半島に置いていた出先機関(楽浪郡・帯方郡)が高句麗に滅ぼされたためです。

腕はあった。素材も買えた。ただ、手本だけが途切れていた。

そんな時期に、369年、百済から七支刀が贈られます。

当時の百済は、第13代・近肖古王のもとで、北から迫る高句麗と激しく争っていました。
東晋—百済—倭というラインで高句麗に対抗する。
背後の味方を求めていた——それが理由です。

なお、その3年後の372年。百済は東晋から「鎮東将軍領楽浪太守」の称号を受けています。

楽浪は、すでに高句麗が押さえている土地です。
それでもこの称号が通ったのは、その前年に百済が平壌まで攻め込み、
高句麗の王を戦死させていたからでした。

いずれ楽浪まで取り返す。それを言える国だと、中国に認めさせたわけです。

まさに、百済が勢力を大きく伸ばしていた全盛期でした。

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第1幕・405年——最初の「王子の帰国」

5世紀に入って、まず起きたのがこれです。

397年、百済の阿莘王(あしんおう)が、王子の腆支(てんし)を倭へ送りました。

なぜ王子を送ったのか。追い詰められていたからです。

このころ高句麗は、広開土王(好太王)のもとで最盛期を迎えていました。
即位は391年。在位22年で、領土を四方に広げた王です。

その戦績は、息子が414年に建てた広開土王碑に刻まれています。
中国吉林省に今も立つ、高さ6メートルを超える巨大な石碑です。

そこに、倭が3度登場します。

碑文が語ること
391年倭が海を渡ってきた
400年新羅の救援要請を受け、高句麗が歩騎5万を派遣。新羅にいた倭軍を退けた
404年帯方の地に侵入した倭を、高句麗が撃退した

倭は、高句麗と直接ぶつかっていました。そして負けています。

396年には百済も攻め込まれ、阿莘王は高句麗に降伏しています。
腆支が海を渡ったのは、その翌年でした。

そして405年、阿莘王が亡くなります。
百済では王位をめぐって内紛が起きました。

腆支は、倭の兵に護衛されて帰国し、腆支王として即位します。

この時点では、まだ「たまたまそうなった」話に見えます。

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第2幕・461年——加唐島で生まれた子

そして、冒頭の島の話につながります。

『日本書紀』雄略天皇5年(461年)の条に、こんな記述があります。

百済の第21代・蓋鹵王(がいろおう)が、弟の昆支(こんき)を倭へ遣わすことにしました。

そのとき昆支は、兄に願い出ます。「王の夫人をひとりいただきたい」。

蓋鹵王はこれを承知し、ある女性を弟に与えました。
ところがこの女性は、すでに身重でした。

一行が海を渡る途中の6月。
筑紫の各羅嶋(かからのしま)——現在の加唐島で、女性は男児を産みます。

生まれた子は嶋君(せまきし/斯麻)と名づけられました。

「シマ」——島で生まれたから、島。

昆支は母子を船に乗せて百済へ送り返し、自分はそのまま倭の宮廷へ入りました。

送り返されたこの子が、のちの第25代・武寧王です。

『日本書紀』の話でしょう?そう思われるかもしれません。

ところが、裏付けがあります。

1971年、韓国の公州で武寧王陵が未盗掘のまま発見されました。
そして墓誌石が出てきます。そこには、こう刻まれていました。

斯麻王、62歳で、癸卯年(523年)に亡くなった

当時の記録なので数え年とみられ、逆算すると生年は462年前後。
『日本書紀』の記述と、ほぼ一致します。

しかも名前が「斯麻」。『日本書紀』の「嶋君」と同じです。

当人の墓に刻まれた一次資料が、8世紀に日本で編まれた書物の記述を裏づけた。
これは相当に重い一致です。

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第3幕・475年——百済が滅びかける

461年から14年後。

高句麗の長寿王が南下し、百済の都・漢城が陥落します。
第21代・蓋鹵王は殺されました。

生き延びた一族は南の熊津(現在の公州)へ逃げ、そこで国を建て直そうとします。

しかし内紛が続きました。
第22代・文周王が暗殺され、次の第23代・三斤王も10代で急死します。

王がいない。

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幕間・478年——再び閉じかけた道

漢城が落ちた3年後。倭が中国の南朝へ使者を送ります。倭王武の上表文です。

ここで、前半の話を思い出してください。
4世紀のはじめ、楽浪郡が滅びて、倭は中国への道を失いました。
以後およそ120年、倭は中国の史書から姿を消します。手本の途切れた時代です。

その道が、5世紀に開き直します。421年、倭が南朝へ使者を送りました。

以後およそ60年、倭の五王が10回近く使者を送り続けます。

自力で開いた道というより、369年の七支刀が示す百済との深い関係が、その後の倭の大陸外交を支える土台になったのではないでしょうか。

百済は倭より早く中国と通じていて、航路も、朝廷での作法も知っています。上表文を書ける人材そのものも、百済から来ていてたと考える方が自然です。

ところが475年、その百済の都が落ちます。

478年の上表文で、倭王武は訴えました。
高句麗が道を塞いでいて、中国へ行けない、と。

120年前と同じことが、また起きかけている——それが478年の倭の立ち位置でした。

なお、この上表文で倭王は、支配下と称する国々の名を並べて称号を求めています。
その中に「百済」が入っていました。

宋の返答は、百済だけを削除。倭が申請するたび、宋は百済を削って返してきました。

百済は、宋にとってすでに正式な冊封国でした。倭は、百済を通じて宋への道を開いた。ところが宋は、その百済との関係を飛び越えるような倭の要求を、そのまま認めなかった。当然といえば当然でしょう。

——そして、その翌年です。

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第4幕・479年——王を送り出す

話を戻します。

『日本書紀』雄略天皇23年(479年)の条によれば、三斤王が急死したため、
当時倭に滞在していた昆支の5人の子のうち第2子が、幼いながら聡明だということで選ばれました。

そして倭の側は、筑紫の軍士500人をつけて彼を百済へ帰国させます。

即位して、第24代・東城王となりました。

これは日本側の言い分だけではありません

まず、韓国の『三国史記』も479年に東城王が即位したと記録しています。年代が一致する。

さらに、公州の丹芝里古墳群にある横穴墓を、東城王を護衛して渡った倭人兵士の墓とみる見解があります。出土品に倭系とみられる須恵器が含まれているためです。

送った側の記録、受け取った側の記録、そして現地に残された墓。
三方向から、同じ像が結びます。

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2回起きた、ということの意味

405年、腆支は倭から帰国し、百済王となりました。
479年には、昆支の子・末多王も倭から帰国し、東城王となります。

74年の間隔をあけて、同じように「倭にいた百済王族が、王位継承の局面で帰国する」という出来事が繰り返されています。

これは、少なくともこの時代、百済の王族が倭に滞在することが、両国関係の一形態になっていたことを示しています。

書き方には、注意が要ります

『日本書紀』はこれらを「人質」「王を立ててやった」という書き方で記録しています。
倭が上、百済が下、という構図です。

しかし韓国側の研究では、百済が倭の軍事力を必要として結んだ同盟とみるのが一般的です。
王子の派遣は人質というより、同盟の保証。当時の東アジアでは、ごく普通の外交手段でした。

倭の側にも、切実な事情がありました。
半島南部から供給される鉄が止まれば、倭の王権は立ち行きません。
百済が潰れると、倭も困るのです。

つまり——

どちらが上でも下でもなく、互いに必要としていた。

これがいちばん実態に近いと思います。
同じ出来事でも、どちらの史書から見るかで景色が変わる。そこは踏まえておきたいところです。

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百済を、誰が立て直したか

475年に漢城が落ちてから、百済の王は4年で3人代わりました。
21代・蓋鹵王は殺され、22代・文周王も臣下に殺され、23代・三斤王は幼くして世を去ります。

その混乱を収めたのが、倭から呼び戻された24代・東城王でした。
22年の在位で熊津の体制を固めます。ただし、この王も最後は臣下に殺されました。

本当の再建は、次の25代・武寧王の代です。
加唐島で生まれ、赤ん坊のうちに送り返された、あの嶋君です。

地方に王族を配して支配を立て直し、高句麗にも押し返す。
中国の梁へ送った文書では、百済はふたたび強国となったと自ら報告しています。

そして26代・聖王
都をさらに南の泗沘へ移し、国の体裁を整えました。
その治世に、倭へ仏教が伝えられます。

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おわりに——加唐島には今も

加唐島には、武寧王が生まれたと伝えられる洞窟と、産湯を使ったとされる井戸が残っています。
韓国の公州市とは交流が続き、毎年のように訪問団が訪れるそうです。

1500年前、船の上で産気づいた女性がいました。生まれた子は島の名をもらい、送り返され、やがて崩れかけた国を立て直す王になりました。

その記憶が、日本の小さな島と韓国の地方都市を、いまもつないでいます。

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