約60年続いた勢道政治が終わると、朝鮮は改革・開国という新たな時代へ進みます。
しかし、その裏では大院君と閔妃の権力闘争、そして列強の介入が激化。
王朝は近代化への希望と混乱のはざまで、滅亡への道を歩みます。
系図
哲宗の実系 英祖 → 思悼世子 → 恩彦君 → 全渓大院君 → 哲宗
高宗の実系 仁祖 → 麟坪大君 →〜→ 南延君 → 興宣大院君 → 高宗
※南延君が恩信君(思悼世子の子)の養子に入ったため、系譜上は高宗も思悼世子の子孫とされる。
実際の血をたどると、17世紀の第16代・仁祖まで遡る。
時代背景——改革・開国・列強介入の時代
① 勢道政治の終焉と大院君の鎖国攘夷
1864年、哲宗が後継者なく崩御すると、神貞王后は王族の傍系・李昰応(興宣大院君)と組み、その次男・命福(高宗)を即位させました。これによって約60年続いた安東金氏の勢道政治は終焉を迎えます。幼い高宗に代わり摂政となった興宣大院君は、外戚勢力を一掃して王権を回復し、景福宮を再建、書院を大幅に廃止するなど改革を進めました。
1866年、大院君は「外戚政治を繰り返さない」ため、後ろ盾のない家から閔妃(後の明成皇后)を高宗の妃に選びました。しかし、この人選が皮肉にも最大の誤算となります。
また、徹底した鎖国攘夷を進め、西洋列強を退けた成功体験が、後の朝鮮の孤立につながっていきました。
② 嫁と舅の権力闘争と、開国の時代
政治的手腕を持つ閔妃は次第に閔氏一族の勢力を拡大し、1873年、高宗の親政開始とともに大院君を失脚させました。
朝廷は鎖国攘夷から開国路線へとかじを切りますが、近代化を進める開化派と保守派の対立は激しさを増していきます。そんな1880年代の激動を描いたのが、ドラマ『朝鮮ガンマン』です。
一方、大院君と閔妃の権力争いも続き、その争いには清や日本など外国勢力が深く介入していきました。
そして1894年、東学党の乱をきっかけに清と日本が朝鮮へ出兵し、日清戦争が勃発。清の影響力がなくなり、朝鮮は名目上は独立国となります。『緑豆の花』は、東学党の乱を背景に、身分の異なる異母兄弟が農民軍と官軍・日本軍側に分かれて戦う姿を描いた作品です。
翌1895年、日本公使・三浦梧楼の主導で閔妃が王宮内で殺害され(乙未事変)、大院君と閔妃の長きにわたる対立も、悲劇的な結末を迎えました。
③ 大韓帝国の宣言から日韓併合へ
1897年、高宗は大韓帝国の成立を宣言し、朝鮮王朝は「皇帝」を頂く近代国家として再出発しました。しかし、日露戦争(1904〜1905年)の結果、日本が朝鮮半島で優位に立つと状況は一変。1905年の乙巳条約で外交権を失い保護国となり、ハーグ密使事件を機に高宗は退位へ追い込まれます。そして1910年、日韓併合によって大韓帝国は消滅し、518年続いた朝鮮王朝の歴史は幕を閉じました。
ハーグ密使事件とは
1907年、高宗はオランダ・ハーグで開かれた第二回万国平和会議に密使を派遣し、日本との乙巳条約(1905年)の不当性を世界に訴えようとしました。しかし、日本は「韓国には外交権がない」と主張し、密使たちは会議への参加すら認められませんでした。
朝鮮王朝27代518年。第1代・太祖李成桂の建国から、第27代・純宗の亡国まで、王たちと王妃たちの物語は、ここで終わります。
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タイムライン(時系列を追う)
| 1864年 | 高宗 満11歳(数え12歳)で即位/興宣大院君が実権を握る 哲宗が1863年末に急死。神貞王后が垂簾聴政に就き、王の実父・興宣大院君が事実上の最高権力者となって勢道政治60年が終わる |
| 1866年 | 閔妃 高宗の妃に 大院君が「後ろ盾のない家」と判断して選んだ少女が、後に大院君最大の政敵になる |
| 1866年 | 丙寅洋擾(ピョンインヤンヨ) フランス艦隊が江華島に来襲。カトリック弾圧が引き金。大院君は鎖国強化へ |
| 1871年 | 辛未洋擾(シンミヤンヨ) アメリカ艦隊が江華島に来襲。大院君は全国に「斥和碑」を建て、攘夷を国是に |
| 1873年 | 大院君 失脚/高宗 親政 崔益鉉の上疏をきっかけに、満21歳(数え22歳)の高宗が閔妃と結んで実父を退け、開化路線へ転換 |
| 1876年 | 江華島条約(日朝修好条規) 前年の雲揚号事件を機に、日本の砲艦外交により開国。鎖国時代の終わり、不平等条約の始まり |
| 1882年 | 壬午軍乱(イモグンラン) 旧式軍隊の兵士が反乱、閔妃一族を襲撃。閔妃は変装して脱出し、大院君が約1ヶ月だけ復権。清軍が介入して鎮圧し、大院君は清に連行されて保定府に幽閉(1885年帰国) |
| 1884年 | 甲申政変(カプシンチョンビョン) 金玉均ら開化派が日本の支援でクーデター。3日天下で清軍が制圧、改革派は壊滅 |
| 1894年 | 東学党の乱(甲午農民戦争) 全琫準らが農民蜂起。日清両軍が朝鮮に出兵し、そのまま日清戦争へ |
| 1895年4月 | 下関条約/三国干渉 日清戦争に勝利した日本に対し、清は朝鮮の独立を承認。直後の三国干渉で日本が遼東半島を手放すと、閔妃はロシアへ接近する(引露拒日) |
| 1895年10月 | 乙未事変(ウルミサビョン) 日本公使三浦梧楼の主導で、王宮・景福宮にて閔妃が暗殺される。1897年に明成皇后と追諡 |
| 1896年 | 俄館播遷(アグァンパチョン) 高宗が身の危険を感じ、ロシア公使館に避難。約1年滞在し、内政はロシアの影響下に |
| 1897年 | 大韓帝国 宣言 高宗が皇帝に即位し、国号を「大韓帝国」へ。清との冊封関係は下関条約ですでに切れており、独立国家であることを国号と皇帝号で内外に明示した |
| 1898年 | 毒茶事件(茶毒事件) 元ロシア語通訳・金鴻陸が高宗を恨み、アヘン入りコーヒーで皇帝・皇太子の暗殺を企図したとされる。高宗は吐き出して無事だったが、皇太子(後の純宗)は飲み込んでしまい、歯が抜けるなど深刻な健康被害を受けた |
| 1904〜05年 | 日露戦争 朝鮮半島と満州を舞台に日露が激突。日本勝利。大韓帝国は事実上の戦場に |
| 1905年 | 乙巳条約(第二次日韓協約) 大韓帝国の外交権を日本が掌握。統監府の設置が決まる(翌1906年2月に開庁、初代統監・伊藤博文)。事実上の保護国化 |
| 1907年 | ハーグ密使事件/高宗 退位 高宗がオランダ・ハーグの万国平和会議に密使を派遣して訴えるも失敗。日本に退位を強要され、純宗即位。続く第三次日韓協約で内政権も奪われ、大韓帝国軍が解散させられて義兵闘争が本格化する |
| 1909年 | 安重根 伊藤博文を射殺 ハルビン駅で安重根が伊藤博文を暗殺。伊藤はこの時すでに統監を退任しており、日本政府は同年7月に併合の方針を閣議決定していた |
| 1910年 | 日韓併合 大韓帝国が日本に併合され、朝鮮王朝518年の歴史が幕を下ろす。純宗は最後の皇帝に |
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