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ワカタケル大王とは誰か?|稲荷山鉄剣・江田船山大刀が語る5世紀の王

日本の古代史には、推理小説みたいな話がいくつかあります。

そのなかでも私がいちばん好きなのが、これです。

熊本で100年近く読めなかった文字が、埼玉から出てきた一本の剣で解けた。

しかも片方は、東京国立博物館で本物が見られます。

事件その1:明治6年、熊本の畑

話は1873年(明治6年)の正月にさかのぼります。

熊本県玉名郡(現在の和水町)に、池田佐十という農民がいました。彼はある夜、白装束の侍が出てきて「船山の地を掘れ」と告げる夢を見た──と伝えられています。

言い伝えの部分はどこまで本当か分かりませんが、とにかく彼は畑の小山を掘りました。

出てきたのは、とんでもないものでした。

刀剣類、銅鏡6面、金銅製の冠帽と沓、金の耳飾り、玉、甲冑、馬具、そして陶質土器。ぜんぶで92件。5世紀末から6世紀初めに築かれた前方後円墳、江田船山古墳の石棺の中身です。

なかでも1本の大刀に、銀で文字が象嵌されていました。75文字

明治政府はこれを買い上げ、博覧会事務局へ移します。だから今、熊本で掘られたこの大刀は東京国立博物館にあります。1965年に国宝に指定されました。

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読めない3文字

さて、その75文字。冒頭はこう始まります。

「治天下獲□□□鹵大王世」

──天下を治める、獲□□□鹵(わく・□□□・る)大王の世に。

大王の名前の、真ん中3文字が読めない。

刀は錆びていて、象嵌の銀も欠けています。もっとも肝心なところが、抜け落ちてしまっていました。

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事件その2:100年間、別人だと思われていた

研究者たちは推理しました。

欠けた文字をいろいろ当てはめてみて、有力とされたのが「多遅比瀰都歯大王(たじひのみずは)」という読みです。

これは反正天皇のことです。記紀に「瑞歯別(みずはわけ)」という名で出てくる、5世紀前半の天皇。

この読みが定説として通用していた期間は、およそ100年近くありました。

「5世紀前半に、ヤマトの王権はもう九州まで届いていた」

そういう歴史像が、この読みの上に組み立てられていました。

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事件その3:1968年、埼玉

場面が変わります。

1968年、埼玉県行田市。埼玉(さきたま)古墳群のなかの稲荷山古墳が発掘されました。全長120メートルの前方後円墳、5世紀後半のものです。

後円部の頂上から2基の埋葬施設が見つかり、そのひとつから鏡や武具、馬具とともに1本の鉄剣が出てきました。

長さ73.5センチ。ただし、真っ赤に錆びていました。

正直に言えば、この時点では「たくさんある出土品のひとつ」でした。

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事件その4:1978年、錆の下

出土から10年後。

腐食が進んでいたこの鉄剣を保存処理するため、X線検査がおこなわれました。

そのとき、錆の下から浮かび上がったものがあります。

金象嵌の文字。両面あわせて115文字。

古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては、圧倒的な長さです。しかも115文字すべてが判読できました。

「100年に一度の発見」と言われました。

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そして、二つがつながった

稲荷山の鉄剣には、こう刻まれていました。

「獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)」

──ワカタケル。

熊本の大刀の「獲□□□鹵」に、この3文字を入れてみてください。

獲加多支鹵

ぴたりとはまります。

100年近く「反正天皇」と読まれてきた文字は、ワカタケル大王だったのです。埼玉から出た一本が、熊本の読みを書き換えました。

そしてワカタケルとは、雄略天皇のことだとする説が有力です。

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なぜこれが、そんなに重要なのか

地図を思い浮かべてください。

  • 埼玉県行田市──関東平野のまんなか
  • 熊本県和水町──九州の内陸

直線距離でおよそ1,000キロ。この東西両端の古墳から、同じ大王の名前が出てきた。

これが意味するのは、ひとつです。

5世紀後半、ヤマトの王権の力は、関東から九州まで実際に届いていた。

記紀にはそう書いてあります。でも記紀は8世紀に編纂された書物で、後から都合よく書いた可能性がつきまといます。

ところがこの2本は違います。5世紀にその場で刻まれ、地面の中で1500年待っていた同時代の物証です。書き換えようがない。

日本の国のかたちができていく過程が、錆びた鉄2本の上に残っていた。だから「100年に一度」なんです。

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ヲワケという男の誇り

稲荷山の115文字には、もうひとつ心を打たれる部分があります。

刻ませたのは「ヲワケ臣」という人物です。彼はこう書かせました。

自分の先祖の名を、8代さかのぼって列挙する。そして、その一族が代々「杖刀人首(じょうとうじんのかしら=武官の長)」として大王に仕えてきたこと。自分はワカタケル大王が天下を治めるのを補佐したこと。それを記念して、この剣を作らせたこと。

5世紀に文字が使えたのは、渡来人が集まる畿内や北部九州が中心で、まだ文字が「特殊な技術」でした。

その時代の関東から、115文字が出た。しかも金象嵌という高い技術です。文字を書ける人と、象嵌ができる工人が、関東の首長のもとに届いていたということです。

しかも読んでもらうためではありません。この剣は墓に入れるものです。誰にも見られない。

それを残した。「うちの家は、8代にわたってお仕えしてきた家だ」という記録。これはヤマトとつながっていることが、押しつけられた服従ではなく、示したい資格、自慢です。

中央とつながっていることが、誇りだった。その誇りだけが、1500年後に読まれることになりました。

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ムリテという男の刀──熊本のほうは何を書いたか

では、江田船山の75文字には何が書かれていたのでしょうか。

同じように家系を刻んだのだろう、と思いきや。まったく違います。

ざっと訳すと、こうです。

天下を治めるワカタケル大王の世に、典曹人としてお仕えした者、名はムリテ(无利弖)。八月、大きな鉄の釜を用いて、四尺の刀を作った。八十回練り、九十回振るった、三寸の上等な刀である。この刀を持つ者は長寿を得、子孫は栄え、恩恵を受け、治めるところを失わない。作った者は伊太和、書いた者は張安。

系譜は、どこにもありません。

かわりに真ん中に来ているのは、刀そのものの自慢と、持ち主への祝福です。

「八十練九十振」は誇張です

八十回練って九十回振るった、というのは実際の回数ではありません。うんと手をかけた、という言い回しです。中国の刀剣の銘文にも似た表現が出てきます。

「長寿」「子孫洋々」といった吉祥句も、中国の銅鏡の銘文でおなじみの定型句です。

書いた人の名が張安──明らかに中国系──であることを思い出してください。大陸の文章の型を、そのまま借りているわけです。

「履歴書」と「保証書」

2本を並べると、性格の違いがはっきりします。

稲荷山(埼玉)江田船山(熊本)
人物ヲワケ臣ムリテ
役職杖刀人首(武官の長)典曹人(文書・行政の役)
中身8代の系譜と功績製作工程と吉祥句
性格自分は何者かこの刀は何か

稲荷山は「私はこういう家の者です」という自己申告。履歴書です。

江田船山は「この刀はこれだけ手をかけた品で、持てばご利益があります」という宣言。保証書、あるいはお守りです。

いちばん唸るのは「役職が違う」こと

東の関東には武官の長がいて、西の九州には文官がいる。しかも、どちらも同じ大王に仕えている。

つまり5世紀後半のヤマト王権には、すでに役割の分業があったことになります。

ただ「支配していた」だけではない。組織のかたちが見えてくる。

じつは、名前が一致したこと以上に、ここが学術的には大きな収穫でした。

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471年から479年、8年間の密度

さて、ここが今回いちばんお伝えしたいところです。

出来事
471稲荷山鉄剣の「辛亥年」
475高句麗が百済の都・漢城を落とす。百済の蓋鹵王が殺される
478倭王武が中国・宋へ上表文を送る
479倭にいた末多王が兵をつけられて帰国し、百済の東城王に

年表の下のほう、太字にした4行を見てください。わずか8年のあいだの出来事です。

471年、ヲワケが埼玉で剣を作らせます。

その4年後、海の向こうで百済の都が炎上し、王が殺されました。

その3年後、倭王武が中国の宋に使いを送ります。この上表文が、なかなか生々しい。要約するとこういう内容です。

高句麗は道理をわきまえず、我々の領域を飲み込もうとしている。父と兄を失った。 だから我々に、正式な称号を与えてほしい

そして武が求めた称号には、朝鮮半島南部の国々に対する軍事的な権限まで含まれていました。中国の皇帝に、半島での立場を公認してもらおうとしたのです。

その翌年、倭にいた百済の王子・末多王が、兵をつけられて帰国し、百済の王に立ちます。

中国に対しては、へりくだって肩書きを願い出る。
半島に対しては、王を送り出す。

倭の王権が、東アジアの秩序のなかで自分の居場所を確保しようと必死になっている。その姿が、この8年に凝縮されています。

ヲワケが剣を作らせたのは、そういう時期でした。

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細かいけれど面白いこと

片方は剣、片方は大刀

同じように扱われがちですが、正確には違います。

  • 稲荷山……剣(両刃、突く武器)。弥生からある古い形式
  • 江田船山……大刀(片刃、斬る武器)。5世紀に半島から入ってきた新しい形式

5世紀は、ちょうど剣から大刀へ主流が移っていく時期でした。古い形と新しい形が、東西で並んでいる。

ちなみにどちらも、平安時代以降の反りのある日本刀とは似ていません。まっすぐな棒のような形です。

金と銀

稲荷山は金象嵌、江田船山は銀象嵌。

象嵌は、刀身に細い溝を彫り、そこに金や銀の線を叩き込んで埋める技法です。この技術そのものが朝鮮半島から渡ってきたものでした。

新しい形(大刀)のほうが銀で、古い形(剣)のほうが金というねじれも、そのまま面白いですね。

異説もあります

念のため書いておくと、「ワカタケル=雄略天皇」は有力説であって、全員一致ではありません。

江田船山の大王を、百済の蓋鹵王とみる説などもあります。475年に高句麗に殺された、あの王です。「鹵」の字が共通していること、江田船山の副葬品が百済・武寧王陵のものと似ていることなどが根拠とされます。

議論は今も続いています。断定しきらずに見ておくのが、いまのところ誠実な態度だと思います。

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どこで見られるか

資料場所
江田船山古墳の銀象嵌銘大刀東京国立博物館(平成館1階 考古展示室)
稲荷山古墳の金錯銘鉄剣埼玉県立さきたま史跡の博物館(埼玉県行田市)

熊本で掘られたほうが東京にあり、埼玉で掘られたほうが埼玉にある。ややこしいのですが、明治政府が買い上げた経緯を思い出すと納得できます。

なお、さきたま史跡の博物館では、資料保存のため実物ではなくレプリカが展示されている時期があります。実物を狙うなら事前に確認を。

おわりに

中国の史書『宋書』に登場する「倭王武」。その正体は、雄略天皇ではないかと考えられています。

  • ワカタケル……当時、列島の人々が呼んでいた名
  • 雄略……8世紀につけた名
  • ……中国の史書に記録された名

そして、この2本の刀が作られた時期を思い出してください。471年。

中国の史書から倭が消えていた「謎の4世紀」が明け、ふたたび記録に現れはじめたころです。空白を抜けた倭が、どんな姿になっていたのか。その答えが、この2本に刻まれていました。

東西1000キロに、同じ大王の名が届いている。
5世紀にはすでに、東北南部から九州まで前方後円墳が並んでいました。墓の形が語っていたことを、刀に刻まれた名前が裏づけたわけです。

そして、金象嵌の技術と漢字を扱える誰かが、関東にまでいる。

政治の力だけではありません。渡来系の技術や文字も、そこまで届いていた。

誰も記録しなかった百年のあいだに、倭はそれだけのことをやっていた。


博物館のケースの中で、ただの黒い棒に見えるものがあります。近寄って、金や銀の細い線を探してみてください。

1500年前の誰かが、自分を残そうとした跡です。

そしてそれは同時に、文字を持たなかった国が、文字を持ちはじめた瞬間の跡でもあります。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🍵