はじめに
天皇の系譜や事績について、基本的に『日本書紀』に書かれている内容をもとにまとめています
考古学の発見や他の歴史資料とちがう点もありますが、できるだけ注釈をつけながら紹介しています
▲ 諱(いみな)と諡号(しごう)について
→ 諱(いみな)= 天皇が生きていたときの本名
とても神聖な名前とされ、ふつうは口にしませんでした(タブー)
→ 諡号(しごう)= おくり名(天皇の死後につける名前)
・・・▲ 漢風諡号(かんふうしごう):「○○天皇」というような漢字2文字+天皇
・・・▲ 和風諡号(わふうしごう):もっと長く、日本風の名前(例:神日本磐余彦天皇)
🔍 注意しておきたいこと
▲『日本書紀』が完成した720年当時には、「○○天皇」という「漢風諡号」はまだ存在していません
→ 約40年後、淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の学者が、それ以前の天皇たちにまとめて「漢風諡号」をつけたと考えられています
▲ 一方、「和風諡号」は、記録としては41代持統天皇(703年没)の名前が最初に確認されます
💡だから…それより前の天皇たちの名前が、本当に死後につける名前(諡号)なのか?それとも生きていたときの本名(諱)なのか?はっきりわからない場合があります
1〜14代(神武〜仲哀:ほとんどが神話上の人物) で、あとから話が盛られた部分が大きいけど、
15〜26代(応神〜継体:古墳や遺物が出てくる時代)なので、実在の可能性があり「本名かも」と考えて、名前の由来などを想像してみると歴史が楽しくなる😆
▲ 📚「異伝」について本文:皇后は〇〇の娘とする。
一書第一:△△の娘とする。
一書第二:□□の娘とする。
→ このように複数の別バージョンが書き添えられている
→「本編ではこの説を採用するけど、こんな伝承もあった」と提示する
→ 豪族・土地の神・伝承にも気を配った結果(根回しの記録)
▲ 👤消える皇子
→ 地方豪族とのつながりを示すだけの役割のような存在を表現しています
→ 系譜には登場するが、その後の活躍や足跡がぱたりと消える皇子
▲📘『新撰姓氏録』
→ 平安初期にまとめられた氏族リストで、古代豪族の由来や分類を知る重要な資料
👉 詳しくは 参照用ページ(史料のまとめ)/新撰姓氏録
基本情報
在位期間 | 前290年~前215年(享年128歳) 『古事記』106歳 |
皇居 | 黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや:奈良県磯城郡田原本町) |
陵 | 片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ:奈良県北葛城郡王寺町) |
和風諡号 | 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとに) |
父 | 孝安天皇 |
母 | ✅押媛(おしひめ) |
皇后 | ✅細媛命(くわしひめのみこと) |
妃 | ✅倭国香媛(やまとくにかひめ) |
妃 | ✅絙某弟(はえいろど) |
✅ 母:押媛(おしひめ)
→ 父:天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
・・・天足彦国押人命は、第6代孝安天皇の同母兄で、和珥氏の始祖
5孝昭天皇
├ 天足彦国押人命
│ └ 押媛(おしひめ)
└ 6孝安天皇
📚「異伝」
ある書によると磯城縣主葉江の娘の長媛(ながひめ)です
またある書によると十市縣主五十坂彦の娘の五十坂媛(いさかひめ)です
→ 子:大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと:第7代孝霊天皇)
🔍 ひとこと:天足彦国押人命(👤消える皇子)
→ 天足彦国押人命は「和珥氏」の祖とされる
→ 和珥氏は、奈良県天理市あたりを本拠とする「中央豪族」
・・・出自については朝鮮系鍛冶集団や海人族などさまざまの説がある
→ 和珥氏からのちに派生したのが、春日氏・小野氏など
▲ 春日氏は、蘇我氏の台頭期に衰退(春日大社がらみで藤原氏となにかありそうな気が❓🤔)
▲ 小野氏は、文化系エリート氏族(後の中央官僚として栄える)
→ 小野妹子や小野篁など有名人が多数
✅ 皇后:細媛命(くわしひめのみこと)
→ 父:磯城県主の大目
📚「異伝」
ある書によると春日千乳早山香媛(かすがのちちはやまわかひめ)
ある書によると十市縣主たちの祖先の娘の眞舌媛(ましたひめ)
→ 子:大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと:第8代孝元天皇)
✅ 妃:倭国香媛(やまとくにかひめ:別名は絙某姉(はえいろね))
→ 出自の記載がない
→『古事記』では安寧天皇の曾孫で淡路島出身の蠅伊呂泥
→ 妹:絙某弟(『古事記』では蠅伊呂杼)も孝霊天皇の側室
→ 子:倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、巫女的存在(卑弥呼説もある)
・・・第10代崇神天皇の時代に活躍する伝説的な女性で、三輪山信仰とも関係あり(大物主の妻)
・・・箸墓古墳(古墳時代の始まりとされる最古の前方後円墳)の被葬者とされている人物
→ 子:彦五十狭芹彦命は(ひこいさせりひこのみこと:別名は吉備津彦命(きびつひこのみこと))
・・・四道将軍の一人(西道)
・・・吉備地方を平定した武将(兄・主将格)
・・・温羅という鬼を退治した伝説(温羅伝説)は「桃太郎」のモチーフになったともいわれる
→ 子:倭迹々稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)
🔍 ひとこと:四道将軍とは
→ 第10代崇神天皇の時代に、国の四方(北陸・東海・西国・丹波)へ送り出した4人の将軍
→ 地方を平定し、勢力を一気に広げるためのチーム
→ 四道将軍が派遣された四つの地域は、前方後円墳が最も早く出現したエリアと重なり、たとえば岡山市の中山茶臼山古墳(全長約105 m、4世紀頃)は、その代表例であり、吉備津彦命の墓として宮内庁が治定している
🔍 ひとこと:温羅伝説と鬼ノ城
→ 地元に伝わるもうひとつの温羅像
→ 温羅は百済から来た王子で、鍛冶・土木・文化に優れた集団のリーダー的存在
→ 温羅が拠点とした「鬼ノ城」は、古代山城跡が実在❗️
→ 7世紀の朝鮮式山城の構造
→ 史書に記載のない謎の城(他の山城は記載有り)
→ 温羅が築いた山城をのちに政権側が再利用したのかも❓🤔
✅ 妃:絙某弟(はえいろど)は、倭国香媛の妹
→ 子:彦狭島命(ひこさしまのみこと:👤消える皇子)
・・・📘『新撰姓氏録』では、瀬戸内沿岸の海人系・播磨系氏族の祖神と位置付けられる
・・・ちなみに、伊藤博文は、自家の家譜で「彦狭島命の三男・小千王子」を遠祖と主張
→ 子:稚武彦命(わかたけひこのみこと)は、「吉備氏」の始祖
・・・吉備地方を平定した武将(弟・副将格)
・・・稚武彦命の子:播磨稲日大郎姫は、景行天皇の皇后でヤマトタケルの母
・・・稚武彦命の子:伊那毘能若郎女は、景行天皇の妃で彦人大兄命の母(彦人大兄命の娘:大中姫は、第14代仲哀天皇の妃で、その子供の麛坂皇子・忍熊皇子は仲哀天皇の死後に反乱を企て絶命)
事績
🌟 (先帝崩後の喪中)前年12月4日:都を黒田(奈良県磯城郡田原本町黒田)の廬戸宮(いほとのみや)に定める
🌟 即位元年(太歲辛未年1月12日):即位
🌟 即位2年2月:細媛命(くわしひめのみこと)を皇后とした
🌟 即位36年1月:彦国牽尊(ひこくにくるのみこと)を立太子
🌟 即位76年2月:崩御
🕓 更新日:2025年7月2日
個人的な備忘録として、調べながら書いているブログです
書き足し、修正、アップデートを重ねています