古代の朝鮮半島の話は、ややこしいです。
高句麗、百済、新羅、加耶。4つの名前が出てきて、同盟したり裏切ったり、そこに倭まで首を突っ込む。年表を見ても、頭に入ってきません。
でも、ひとつの問いを立てて眺め直したら、急に見通しがよくなりました。
倭は、半島に何を求めていたのか。
この問いで追いかけると、答えが時代ごとに変わっていくのが見えてきます。そして最後には、求めていたもの自体が消えてしまう。
369年から663年まで、およそ300年の話です。
まず、これだけ
細かい年表に入る前に、記事全体の骨をお渡しします。
骨その1:倭が求めたものは、4回変わる
| 時期 | 求めたもの | 相手 |
|---|---|---|
| 369〜404年ごろ | 鉄(素材) | 加耶 |
| 421〜479年ごろ | 称号(国際的な地位) | 中国 |
| 501〜562年ごろ | 技術と文明(文字・仏教) | 百済 |
| 589〜663年ごろ | 百済そのもの | 百済 |
鉄が欲しくて海を渡った倭が、最後には百済のために滅びかけた。
これがこの300年です。
骨その2:主役が3回替わる
| 時期 | 半島でいちばん強い勢力 |
|---|---|
| 391〜491年 | 高句麗。北から押してくる |
| 501〜553年 | 百済が復活、新羅が急伸。加耶が削られる |
| 553〜676年 | 新羅。裏切って一人勝ち、最後は統一 |
4つの国を同時に追いかけると混乱します。「いま誰が一番強いか」だけを見てください。
骨その3:百済と新羅の関係は、これ一行
共通の敵は高句麗。共通の獲物は加耶。
433年、百済と新羅は同盟を結びます。北の高句麗を向いているあいだは、たしかに仲間でした。
でも南を向くと、話が変わります。加耶という同じ獲物を、東から新羅が、西から百済が食べている。
手を組みながら、同じものを取り合っていた。
だから120年後、この同盟は壊れます。壊れるべくして壊れました。
第1期・369〜404年──鉄を求めて、外へ出る
出発点:「斬れない剣」を作っていた
奈良市の富雄丸山古墳。380年ごろに築かれた墓です。
「謎の4世紀」に何があったのか──富雄丸山古墳と、海を渡った鉄の話長さ、2メートル37センチ。 奈良市の住宅街のはずれにある丘から、そんな鉄の剣が出てきました。それまで日本で見つかっていた同じ種類の剣で、いちばん長いものが84…
ここから出た蛇行剣は、全長2.3メートル。くねくねと曲がっていて、実戦では使えません。一緒に出た鼉龍文盾形銅鏡も、盾の形をした鏡です。
どちらも、武器の形をした武器ではないもの。
そしてどちらも、朝鮮半島に同じものがありません。
このころの倭は、まだ半島の作法を取り入れていない。祈りの道具で人を束ねていた段階です。
ここから話が始まります。
なぜ、鉄なのか
当時の日本列島に、鉄の産地はありませんでした。
鉄は農具にも武器にもなります。持っている者が強くなる。でも自前では作れない。半島南部から輸入するしかありません。
中国の史書『魏志』倭人伝にも、半島南部の弁辰(のちの加耶)について「国は鉄を産し、韓・濊・倭が皆これを取る」と記されています。
倭は、鉄を買いに海を渡っていた。 これが300年の出発点です。
369年・七支刀──百済からの誘い
369年、百済の近肖古王が、倭に奇妙な刀を贈ります。
奈良県天理市の石上神宮に伝わる七支刀。長さ約75センチ、左右から互い違いに枝が6本。刃も研がれておらず、最初から武器ではありません。
刀身には金象嵌で61文字が刻まれ、「百済王が倭王のために作らせた」と読める一節があります。
なぜ贈ったのか?
この数年の百済を見れば分かります。
| 年 | 百済 |
|---|---|
| 369 | 高句麗の南下を撃退。南の馬韓地域へ進出 |
| 369 | 七支刀 |
| 371 | 逆に平壌へ攻め込み、高句麗の故国原王を戦死させる |
| 372 | 中国・東晋へ朝貢し、鎮東将軍・領楽浪太守に封ぜられる |
百済の全盛期です。
そして「楽浪太守」という称号に注目してください。楽浪は当時すでに高句麗が押さえていた土地です。その土地に対する権利を、中国に公認させたわけです。
つまり七支刀は、単なる贈り物ではありません。東晋─百済─倭のラインで高句麗に対抗する、という外交攻勢の一部品でした。
百済が倭に求めたのは、兵力と、背後の安全。倭が求めたのは、鉄と文字と技術。
欲しいものが違ったから、この関係は長続きしました。
391〜404年・広開土王碑──倭が半島で戦っていた証拠
そして倭は、実際に海を渡ります。
中国・吉林省に、高さ6メートルを超える石碑が立っています。414年に建てられた広開土王碑です。
そこに、倭が何度も出てきます。倭が海を渡って攻めてきたこと。新羅が高句麗に助けを求めたこと。400年に高句麗が5万の大軍を送り、倭軍を退けたこと。
敵国が建てた碑に、名前が刻まれている。
味方の記録なら誇張を疑えます。中国の記録なら伝聞かもしれない。でもこれは、高句麗が自国の王を讃えるために建てたものです。倭を小さく書く理由がありません。
(ただし碑文には摩耗した箇所があり、解釈をめぐって日韓の研究者のあいだで読み方が分かれる部分もあります)
380年ごろに斬れない剣を作っていた倭が、20年後には海を渡って実戦をしている。
この落差が、この時期に起きたことの大きさを物語ります。
400年の一撃──加耶が沈み、人が渡ってくる
この400年の戦いには、大きな結果がありました。
高句麗の5万の兵は倭軍を追って半島南部まで進み、金官加耶(現在の金海)が壊滅的な打撃を受けます。加耶の中心は、内陸の高霊・大加耶へ移りました。
倭の鉄の供給元が、最初のダメージを受けた瞬間です。
そしておそらく、このとき人が動きました。
400年代に入ると、日本の出土品が急に変わります。窯で1000度以上で焼き締める須恵器、鉄を加工する鍛冶、馬と馬具、そして半島の作り方そのままの韓式系土器。
技術だけでなく、暮らしの道具まで一緒に来ています。 これは輸入ではなく、人が住みついた証拠です。
戦火に追われた加耶の工人たちが、海を渡ってきたとみられています。大阪南部の陶邑で須恵器の窯が本格的に動きはじめるのも、ちょうどこのころです。
金官加耶が傷ついたぶん、倭に技術が流れ込んだ。
この構図は、このあと何度も繰り返されます。
第2期・421〜479年──中国に、居場所を求める
高句麗の南下が本格化する
427年、高句麗の長寿王が都を平壌へ移します。在位79年という怪物の王です。
完全に南を向きました。
追い詰められた百済と新羅は、433年、ついに手を結びます。羅済同盟です。かつて敵同士だった2国が組むほど、高句麗の圧力は強かった。
倭は、中国へ通いはじめる
同じころ、倭は別の手を打っていました。
421年から478年までの約60年間に、倭は中国の宋へ10回も使者を送っています。
讃・珍・済・興・武。この5人を倭の五王と呼びます。
何のために通ったのか。称号です。 中国の皇帝から正式な肩書きをもらうことが、当時の東アジアで自分の立場を国際的に認めさせる方法でした。
そして倭の王たちが求めた称号には、いつも同じ国が入っていました。
百済です。宋は、それだけを削って返しました。倭が求め、中国が拒む。同じやりとりが、世代をまたいで繰り返されました。
471〜478年・東西1000キロの大王
そしてこの時期
- 埼玉県行田市・稲荷山古墳の鉄剣。金象嵌115文字。471年
- 熊本県和水町・江田船山古墳の大刀。銀象嵌75文字
直線距離にして約1000キロ。関東平野のまんなかと、九州の内陸。その両方から、同じ大王の名前が出てきました。
ワカタケル。478年ごろの倭には、東西1000キロを束ねる王がいた。
475年──百済の都が落ちる
そして高句麗の南下は、ついに百済を直撃します。
475年、漢城陥落。蓋鹵王が殺されました。
生き延びた一族は南の熊津(現在の公州)へ逃げ、そこで国を建て直します。漢城百済の終わりです。
478年・倭王武の上表文
その3年後、倭王武が宋へ送った上表文に、こんな一節があります。
「道は百済を逕(へ)て、船舫を装治す」
朝貢の道は百済を経由するもので、そこで船を整えている──という意味です。
倭の船は、百済に寄ってから黄海を渡っていました。
つまり百済は、倭にとって同盟相手であると同時に中継港でした。ここが高句麗に押さえられれば、倭は中国へ行けなくなる。
武はこう続けます。高句麗が道理をわきまえず、たびたび足止めを食らい、順風の時期を逃してしまう。亡父・済は、仇敵が「天路」を塞いだことを憤っていた、と。
天路。皇帝への道。
倭が必死になったのは、義理だけの話ではありません。自分の外交ルートが消えるからです。
405年と479年──倭にいた百済の王族
ここで少し時間を戻します。
405年、倭に滞在していた百済の王子・腆支が帰国し、王として即位しました。韓国の『三国史記』にも、対応する記事があります。
そして479年。倭に滞在していた百済の王子・末多王が、筑紫の軍士500人をつけられて帰国し、東城王として即位します。倭から戻ったという部分は日本書紀だけの情報です。
それでも、動かないこと
王位継承にどこまで倭が関与したかは議論があります。でも、百済の王族が倭に住んでいたこと自体は、疑いようがありません。
- 腆支は8年間を倭で過ごした(三国史記にも記載)
- 461年、蓋鹵王の弟・昆支が倭へ渡る
- その途上、筑紫の加唐島で生まれた斯麻が、のちの武寧王
武寧王の生年は、1971年に発見された武寧王陵の墓誌によって裏づけられました。3世代にわたって、百済の王族が海を渡っている。
この時期の倭を、一言でいうと
中国には頭を下げ、百済には王を送る。
東アジアの秩序のなかで、自分の席を確保しようと必死になっている。それがこの時期の倭でした。
第3期・501〜562年──乗り換え、そして足場が削られる
主役が交代する
500年代に入ると、力関係が動きます。
高句麗は、長寿王の死(491年)後に王位継承が揺れはじめます。まだ強いのですが、押しまくる時代は終わりました。
百済が復活します。武寧王(在位501〜523年)が高句麗を何度も破り、521年に梁へ送った国書で「ふたたび強国となった」と宣言しました。
そして新羅が、急激に伸びます。
| 年 | 新羅 |
|---|---|
| 517 | 律令を公布 |
| 521 | 梁へ遣使。382年以来140年ぶり |
| 527 | 仏教を公認 |
| 532 | 金官加耶を併合 |
「140年ぶり」というところに注目してください。
新羅は半島の東南の隅にあり、黄海に出る港を持っていませんでした。 だから中国へ行くには、誰かに連れて行ってもらうしかない。382年は高句麗に、521年は百済に同行しての朝貢です。
この「出口のなさ」が、後で効いてきます。
512年──倭が、加耶を百済に譲る
ここが、この300年でいちばん重要な転換点かもしれません。
『日本書紀』によれば、512年、倭は任那の四県を百済に譲っています。
加耶の土地を、百済に渡した。これが何を意味するか。
倭の優先順位が、加耶より百済になっていたということです。
求めるものが変わった
鉄の産地としては、加耶が最後まで主役でした。でも加耶はもう弱い。しかも日本国内でも製鉄が始まりつつあります。かわりに復活した百済が持ってきたのは、素材ではありません。
鍛冶や象嵌の技術。文字。儒教。そして仏教(538年)。
寺を建てる技術者、瓦博士、医博士、暦博士。まるごとの文明です。
倭は、素材をもらう相手から、技術をもらう相手へ乗り換えた。
ただし、加耶を捨てたわけではない
新羅が加耶を食うのは阻止したい。でも百済が食うのは容認する。
同じ加耶が削られるにしても、削る相手が誰かが問題だった。
527〜528年・磐井の乱──航路をめぐる内戦
そして事件が起きます。
527年、近江毛野臣が6万の兵を率いて半島へ渡ろうとしました。新羅に奪われた加耶の地を取り戻すため、という名目です。
これを、北部九州の筑紫君磐井が阻みました。
日本書紀は「新羅が磐井に賄賂を贈って妨害させた」と書きます。ただ、実態はもう少し単純かもしれません。
磐井は北部九州の王で、自前で半島と交易していました。 新羅とも百済とも加耶とも、独自のパイプを持っていた。
そこへヤマトが「6万の兵を通せ」と言ってくる。通せば、その航路はヤマトのものになります。
新羅についたというより、独占されたくなかった。
528年、磐井は物部麁鹿火に敗れます。そして磐井の子・葛子は、糟屋の屯倉をヤマトに差し出しました。
ヤマトは、九州最大の勢力の本拠に食い込む拠点を手に入れました。
福岡県八女市の岩戸山古墳。全長約135メートル、周濠を含めると約170メートルの、九州最大級の前方後円墳です。
この古墳には「別区」と呼ばれる方形の区画があり、石人石馬が並んでいました。そして『筑後国風土記』の逸文に、この構造がそのまま書かれています。
さらに風土記は、逃げた磐井が見つからず腹を立てた官軍の兵士が石馬の首を落とした、と記します。出土した石馬は、実際に首がありません。
文献と、モノが一致している。 被葬者が名前レベルで分かる、日本では極めて珍しい古墳です。
532年──金官加耶、滅亡
磐井の乱の4年後。金官加耶が新羅に降伏します。
近江毛野臣の6万は、間に合いませんでした。国内で足止めを食っているあいだに、半島では新羅が取り切ってしまった。
国内では倭が勝ち、半島では新羅が勝った。
553年──同盟が壊れる
そして、羅済同盟の結末です。
551年、百済の聖王が新羅・加耶諸国と連合し、高句麗から漢江流域を奪還しました。475年に失った故地を、76年ぶりに取り戻したのです。百済の悲願でした。
553年、その漢江流域を、新羅が百済から奪います。
554年、報復に出た聖王は、管山城の戦いで戦死しました。
120年続いた同盟の、最後がこれです。
なぜ新羅は裏切ったのか?
漢江が、黄海への出口だからです。
140年間、新羅は自力で中国へ行けませんでした。連れて行ってもらうしかなかった。
漢江を得たことが、その後の新羅の飛躍を支える大きな一歩になりました。
562年──加耶、消滅
そして8年後。
百済が弱り、加耶を支える力を失いました。新羅は勢いのまま、内陸に残っていた大加耶を滅ぼします。
加耶が、消えました。
400年の高句麗の一撃から162年。倭が鉄を頼ってきた土地が、地図から消えたのです。
ただし、これで倭が半島から手を引いたわけではありません。百済との関係は、ここから100年続きます。
加耶を失った倭は、いよいよ百済に寄りかかっていくことになります。
第4期・589〜663年──百済のために戦い、大敗
589年──中国が、ひとつになった
半島の均衡を壊したのは、外からの力でした。
589年、隋が中国を統一します。
400年近く分裂していた中国が、ひとつの帝国になった。これは半島にとって、天変地異に等しい出来事でした。
隋は、そして次の唐は、東方に強大な高句麗があることを許しません。
- 598〜614年、隋が4度にわたり高句麗へ遠征。すべて失敗
- 618年、隋が滅び、唐が建国
- 645年以降、唐も高句麗遠征を繰り返す
高句麗は勝ち続けました。でも、その代償に疲弊していきます。
600年──倭も、中国へ戻る
478年の遣使を最後に、倭は中国から遠ざかっていました。
122年ぶりに使いを送ったのが、600年の遣隋使です。
そして607年、日本が出した国書はこう始まりました。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す
称号をねだる立場から、対等を名乗る立場へ。
倭の五王が60年通っても得られなかったものを、日本は別のやり方で手に入れたことになります。
642〜648年──新羅が、唐と組む
半島では、最後の組み替えが起きます。
642年、百済の義慈王が新羅へ大攻勢をかけ、大耶城など40余城を落としました。新羅は追い詰められます。
新羅の金春秋(のちの武烈王)は、まず高句麗へ助けを求め、断られました。次に倭へ渡ったとも伝えられます。そして最後に唐へ向かいました。
648年、羅唐同盟が成立します。
新羅は、唐という最強の後ろ盾を得ました。漢江という出口があったからこそ、この外交ができたわけです。
660年──百済、滅亡
660年、唐の大軍と新羅軍が挟撃し、百済の都・泗沘が陥落。義慈王は降伏しました。
七支刀を贈ってから291年。倭にとって最も長い付き合いの相手が、消えました。
661〜663年──倭は、なぜ兵を出したのか
百済の遺臣たちは、各地で抵抗を続けます。そして倭に助けを求めました。
倭には、送り返せる人物がいました。豊璋です。百済の王子として倭に滞在していた、腆支や東城王と同じ立場の人物。
661年、豊璋が帰国します。 200年以上続いた「王族が倭にいる」関係の、最後の一例でした。
そして倭は、大軍を派遣します。
無謀に見えるかもしれません。たぶん倭には勝算がありました。百済の国土はまだ残り、唐の守備隊は小さく、唐の主力は高句麗に向いている。そして倭にいた王族を送り返して王位につけるという手順は、200年前から2度も成功していました。
読み違えたのは、唐の水軍の強さと、復興軍が内輪もめで崩れることでした。
663年、白村江の戦い。
倭・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。300年の関与が、ここで終わります。
664年以降──守りを固め、内を締める
内向きへの転換そのものは、もっと前から始まっていました。562年に加耶を失って外の出口が閉じ、589年に隋が中国を統一する。その衝撃のなかで、日本は603年に冠位十二階、604年に十七条憲法と、国のかたちを整えはじめます。
白村江が変えたのは、その速度と中身でした。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 664 | 対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置く。大宰府に水城を築く |
| 665年ごろ | 各地に朝鮮式山城を築く。亡命百済人の技術による |
| 667 | 都を近江大津宮へ移す |
| 668 | 高句麗、滅亡 |
| 676 | 新羅が半島を統一 |
そしてもうひとつ、670年に庚午年籍が作られます。最初の全国的な戸籍です。
兵を集めるにも税を取るにも、誰がどこに何人いるかを国が把握していなければ動きません。敗戦が、その必要を突きつけた。
律令国家の土台は、白村江の危機感から掘られたとも言えます。
そして、この時期にもうひとつ大きなことが起きています。
国号が「倭」から「日本」に変わるのです。
670年ごろとされます。中国の史書にも、倭国が日本と名を改めたという記事が現れます。
300年の関与が終わったところで、「倭」が終わり、「日本」が始まった。
300年で、何を得て、何を失ったか
最後に、全体を並べます。
| 時期 | 倭のありよう |
|---|---|
| 380年ごろ | 斬れない剣を作っていた。祈りで人を束ねる段階 |
| 369〜404年 | 鉄を求めて半島へ。実戦に参加する |
| 421〜479年 | 中国に10回通い、称号を求める。百済に王を送る |
| 501〜562年 | 加耶から百済へ乗り換える。航路をめぐって国内で戦争 |
| 589〜663年 | 同盟国のために大軍を送り、大敗する |
| 664年以降 | 守りを固め、内へ向き直る。国号が「日本」に |
得たものは、国のかたちです。文字、外交の作法、仏教、寺を建てる技術、そして律令へ向かう制度。
失ったものは、半島の足場です。鉄を求めて出ていった先が、300年かけて全部なくなりました。
おわりに
加耶が消えたことで、倭は鉄の供給地を失いました。
でも、失ったのは鉄だけではありません。統治のやり方そのものでした。
それまでヤマトは、半島との窓口を握り、手に入れた鉄を地方の首長に配ることで従わせてきました。あわせて前方後円墳を作る資格も与える。首長は喜んで従う。配るものさえ持っていれば、上に立てた。
ただし、この仕組みは配る側が独占できているあいだだけ有効です。磐井のように地方が自前で外とつながってしまえば、崩れる。そして白村江では、国が直接兵を動かせないことの弱さが露呈しました。唐は戸籍で人を把握し、兵を徴発できる。日本は地方の首長に頼んで出してもらうしかない。
だから、中央が直接握るしかなくなります。
冠位十二階(603年)は、氏族の家柄そのものではなく、個人に冠位を与えて朝廷での序列を示す制度でした。そして戸籍(670年)は、誰がどこに何人いるかを国が直接つかむための台帳です。
モノを配るのをやめて、人を数えはじめた。
300年前、鉄を求めて海を渡った国が、たどり着いた先がここでした。
律令国家へ向かう道は、ここから始まります。
