朝鮮王朝の後半を読んでいると、あるところから急に「◯◯氏」という家の名前ばかり出てくるようになります。安東金氏。豊壌趙氏。驪興閔氏。
王の名前より、家の名前のほうが目立つ。これが勢道政治(セドジョンチ)と呼ばれる時代です。王ではなく、王妃の実家が国を動かしました。※なお、一般に「勢道政治」と呼ばれるのは、純祖・憲宗・哲宗の三代——1800年から1863年までの約60年を指します。
この記事では、勢道政治の始まりから王朝の末期までを一本の線でたどります。
系図(人物関係を一目で)
| 家 | 中心人物 | 権勢の時期 | 王室との関係 |
|---|---|---|---|
| 安東金氏(アンドンキムシ) | 金祖淳 → 金左根 | 純祖〜哲宗(約60年) | 純元王后・哲仁王后の実家 |
| 豊壌趙氏(プンヤンチョシ) | 趙萬永・趙寅永 | 憲宗の時代が中心 | 神貞王后(趙大妃)の実家 |
| 驪興閔氏(ヨフンミンシ) | 閔升鎬ら | 高宗の時代 | 明成皇后(閔妃)の実家 |
第23代純祖から第26代高宗までの系図を整理します。
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権力の変換フロー
助走:勢道政治の入口
勢道政治の入口には、老論の分裂があります。時派(シパ)と僻派(ピョクパ)という二つの派閥です。
1776年に正祖が即位すると、一部の老論を粛清し、長く政権の中枢から遠ざけられていた少論や南人を積極的に登用し、老論に偏っていた政局の立て直しを図りました。
そして、老論は正祖への態度で勢力が再編されます。
| 派閥 | 基本的な立場 | 代表的人物 |
|---|---|---|
| 僻派 | 正祖の改革に消極的・反対。思悼世子の処分を正当と考える傾向が強い。 | 貞純王后 |
| 時派 | 正祖の改革を支持。思悼世子の名誉回復にも協力する勢力が多い。 | 金祖淳 |
正祖の後半は、時派+少論+南人 vs 僻派という構図でした。
💡 正祖最大のミス!?
正祖は、最も信頼した臣下の一人である金祖淳(時派系)の娘を、息子の嫁(世子嬪)に選びました。しかし、この縁組が結果として安東金氏による勢道政治の出発点となりました。
1800年、正祖が急死しました。ここから動き出します。
① 僻派の5年天下
正祖を継いだ純祖は、まだ10歳。摂政として実権を握ったのは、正祖が生涯抑え続けてきた貞純王后――つまり僻派の後ろ盾でした。
24年間、正祖に押さえ込まれていた僻派が、ついに政権を握ります。
翌1801年、「辛酉迫害」が起こります。表向きはカトリック信者の弾圧でしたが、実際にはカトリックと関わりの深かった南人や、正祖に重用された時派を排除する政治粛清でもありました。
この事件によって、正祖が育てた南人と時派は大きく力を削がれます。
しかし、勝者となった僻派も長くは続きません。
1803年に貞純王后が垂簾聴政を終え、1805年に死去。翌1806年の「丙寅更化」で、今度は僻派が政界から姿を消しました。
こうして僻派と南人は、わずか5年ほどの間に表舞台から消えます。
残ったのは、勝った側の時派でした。けれど、倒すべき相手がいなくなった時派は、派閥である意味を失っていきます。そこに残ったのは思想ではなく、金祖淳という一人の人物と、その家でした。
② 安東金氏 vs 豊壌趙氏 ─ 二つの家の綱引き
どちらが勝っても、政治の仕組みは変わりませんでした。王ではなく外戚が国を動かし、官職の売買や財政の乱れが進み、民衆の暮らしは苦しくなっていきます。
1806年、僻派が姿を消すと、朝廷では安東金氏が権力を握りました。
こうして始まったのが、王の外戚が政治を支配する勢道政治です。
しかし純祖は、この状況を変えようとします。
安東金氏に対抗するため、1819年に息子・孝明世子の妃として豊壌趙氏の娘(のちの神貞王后)を迎えました。
1827年、17歳になった孝明世子は代理聴政を始め、安東金氏を遠ざけて王権の回復を目指します。
ところが1830年、わずか20歳で急死。改革は3年で終わります。
再び安東金氏が実権を握りました。
1834年、純祖が亡くなると、7歳の憲宗が即位します。祖母の純元王后(安東金氏)が垂簾聴政を行いました。
憲宗が成長すると、今度は母・神貞王后(豊壌趙氏)の実家が力を伸ばし、朝廷は安東金氏と豊壌趙氏の綱引きになります。
しかし1849年、憲宗が後継者なく亡くなると、純元王后は哲宗を王に選びました。
このとき哲宗は、亡き純祖の養子という形で即位しています。そうすることで、純元王后が「母」として垂簾聴政できるからです。
さらに1851年、哲宗の妃にも安東金氏の娘(哲仁王后)を迎えました。
こうして二つの家の綱引きは、再び安東金氏が主導権を握る形で決着します。
しかし、ついに安東金氏の勢道政治60年が終わります。
③ 1863年、興宣大院君の時代へ
興宣大院君は、王権を取り戻しました。しかし、朝鮮を待っていたのは平穏ではありませんでした。
1863年、哲宗が満32歳で世を去ります。またしても跡継ぎがいませんでした。
次の王を決める権限を持っていたのは、王室で最年長の女性——趙大妃。孝明世子の妃として、33年前に夫を失ったあの人です。
哲宗が息を引き取った直後、彼女は真っ先に玉璽を押さえたと伝えられます。後継者を告げる文書は、玉璽がなければただの紙。
安東金氏が集まって相談している間に、宣言はもう出ていました。
選ばれたのは、王族・興宣君 李昰応(イ・ハウン)の次男。数え12歳の少年です。
「実の子ではなく、養子」にした理由
垂簾聴政ができるのは、原則として「王の母」にあたる人だけ。そのまま即位させれば、亡き哲宗の妃——安東金氏の哲仁王后が「母」になってしまいます。
そこで趙大妃は、少年を亡き夫・孝明世子(翼宗)の養子として即位させました。
この瞬間、趙大妃は王の母になりました。血ではなく、書類の書き換えで60年の権力を外したのです。※14年前、安東金氏が哲宗を純祖の養子にしたのと、まったく同じ手です。倒された側の武器で、倒したことになります。
こうして即位したのが第26代・高宗(コジョン)。父の李昰応は興宣大院君(フンソンテウォングン)となります。存命のまま大院君になったのは、彼が初めてでした。
勝ったのは、豊壌趙氏ではなかった
趙大妃は垂簾聴政を始めますが、政務はほぼ大院君に任せ、1866年に簾を下ろします。※ 趙大妃はそのあと24年生き、1890年に世を去ります。朝鮮王朝最後の大王大妃。最長老として敬われながら、政治には二度と戻りませんでした。
ここから10年、大院君の時代です。
※ 純祖が対抗馬として引き入れた豊壌趙氏は、33年後にたしかに安東金氏を倒しました。けれど空いた席に座ったのは、豊壌趙氏ではなく大院君でした。
なお、安東金氏が一夜で政界から消えたわけではなく、金炳學(キム・ビョンハク)は大院君のもとでも領議政を務め、金左根(キム・ジャグン)は1869年まで健在でした。実際には数年かけて影響力を失っていきました。
④ 最後の争いは「嫁」と「舅」
60年続いた外戚政治が終わり、政権を握った興宣大院君。彼は、二度と外戚をつくらせないつもりでした。だからこそ、高宗の妃には「外戚になれない娘」を選びます。
1866年、高宗の妃となったのは驪興閔氏の娘。父は早くに亡くなり、有力な男兄弟もいません。「これなら外戚は生まれない。」そう考えたのでしょう。
しかし、その予想は大きく外れます。
彼女はのちの明成皇后(閔妃)。王妃自身が政治を動かし、閔氏一族は急速に力を伸ばしていきます。
1873年、高宗が親政を宣言し、興宣大院君は表舞台から退きました。それを仕掛けたのが、明成皇后(閔妃)と閔氏一族でした。
朝鮮王朝最後の大きな権力争いは、舅・興宣大院君と、嫁・明成皇后。
一家の内輪もめのようですが、この対立は25年続き、清・日本・ロシアを巻き込む国際問題へと広がっていきます。
そして、どちらも勝ちませんでした。
閔妃は1895年に殺害され、大院君は幽閉と失意のうちに晩年を終えます。
1910年、朝鮮王朝は幕を閉じました。
けれど、純宗にいたる最後の十数年を動かしていたのは、もう外戚ではありません。
王室の内側の争いではなく、国際政治の中で決まっていきました。
それは、この記事とは別の物語です。
まとめ:問題は、どの家を選ぶかではなかった
歴史は、同じ失敗を二度繰り返しました。
正祖は、外戚の力を抑えようとした王でした。その正祖が、息子の妃に選んだのは金祖淳の娘。信頼に足る人物だと考えたのでしょう。
その家が、安東金氏60年の勢道政治の入口になりました。正祖はその結果を見ることなく、世を去っています。
興宣大院君も、外戚を生まないよう「後ろ盾のない家」から嫁を選びました。そして驪興閔氏は、朝鮮王朝最後の外戚になりました。
ここで気づきます。
正祖は有力な家を選び、大院君は無力な家を選んだ。真逆の判断です。それでも結果は同じでした。
問題は、どの家を選ぶかではありませんでした。
王妃の実家が権力を握ることのできる仕組みそのものが、最後まで変わらなかったのです。
